愛らしきもの

その日は、分家の娘である希与子が、離れ屋にいる紗恵を訪ねてきた。
彼女の手には漆塗りの小さな箱があった。箱の中身が、どうやら来訪の理由らしい。
「レース編み、でしょうか?」
箱のなかには、編み針や糸などが丁寧に収められていた。紗恵は記憶を振り返って、思い当たるものを口にした。
「分かるのね」
「百生に嫁ぐ前に、少しだけ経験があります」
レース編みについては、生家にいたとき少しだけ関わっていたことがある。
紗恵の生家は外つ国との貿易業でひと儲けした家であり、レースは輸出品の一つとして注目されていたのだ。
輸入ではなく輸出であったのは、レース自体は外つ国から入ってきたものであるが、その生産は此の国の人間と相性の良い作業だったからだ。手編みのレースを生産して、外つ国に売りつける計画があった。
本格的に生産体制を整える前に、いろいろと検討するための一環として、家に仕える女たちに編ませていた時期があるのだ。そのとき、紗恵も女中たちに混じって編んでいたことがあった。
(たしか同業者には勝てないと踏んで、すぐに止めてしまったのですよね)
以来、レース編みをする機会はなかったが、百生に嫁いでから再び巡り合うとは思わなかった。
「邸の整理をしていたら出てきたの。成実様の姉君たちが、一時期、余暇に楽しんでいらっしゃったものよ。お前にどうかしら、と思って」
「譲っていただけるのは嬉しく思いますが、良いのですか?」
編み針も糸も見るからに良いものであることが分かった。譲ってもらうには過分ではないだろうか。
「放っておいても、もう誰も使わないのだもの。お前に使ってもらった方が良いでしょう。先代様からも許しをいただいているわ」
そんな風に道具や糸を譲ってもらった紗恵は、希与子が去ったあと、編み針を手に取った。
(昔、少し触ったくらいだから、やはり分からないこともありますね)
編み針を持ちながら、紗恵は困ったように小さな溜息をつく。
記憶をたよりに編んでみたものの、途中まで編んだところで、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。
しばらく手を止めていた紗恵は、ふと、外から聞こえる雨音に気づく。先ほどまでの晴れ模様が嘘のように、激しい雨が降りはじめていた。
「ただいま戻った」
紗恵は顔をあげる。
雨音で気づかなかったが、百生の邸を離れて、帝都に行っていた成実の姿があった。帰還は明日と聞いていたが、少し早まったらしい。
紗恵は編み針と糸を文机に置いてから、立ちあがって、成実を迎えいれる。
「おかえりなさいませ。一雨来る前にお戻りになることができて良かったですね」
「間一髪だったな。運が良かったようだ」
「成実様の日頃の行いが良いから、天気も味方してくださったのかもしれません」
「さて、どうだか。紗恵の日頃の行いが良いから、お前の夫である俺に味方してくれたのかもしれない。俺が不在にしている間、変わりなかったか?」
成実は心配そうに問うてきた。
百生の者たちは、紗恵にひどいことをしない。そう信じていながらも、確かめたくなるのだろう。成実は、紗恵が生家でひどいあつかいを受けてきたことを知っているので、少々過保護なところがあった。
「変わりなく、皆様には良くしていただいていますよ。だから、何も心配なさらないでください」
邪気祓いという、百生の家に課せられた使命がある。
此の国を生きる人々を《悪しきもの》という禍から守るために、成実は命をとして戦い続けているのだ。紗恵は自分のことで余計な心配をかけたくなかった。
「心配くらいさせてくれ。ずっと傍にいられるわけではないのだから。……レースを編んでいたのか?」
成実の視線が、文机のうえで中途半端になっている編み物に向けられる。
「はい。希与子様から糸や道具を譲っていただいたので」
「姉上たちが使っていたものか。懐かしい。どうりで見覚えがあるわけだ」
成実は異母姉たちとの思い出を振り返るように、薄紅の目を細めた。
「成実様も、ご一緒に楽しまれていましたか?」
成実は本家に生まれた唯一の男児であり、優れた邪気祓いになることを望まれていた人だ。彼の姉たちも邪気祓いとしての責務を負っていたが、姉たちよりもさらに不自由な子ども時代を送っていた。
本来、姉たちと一緒にレース編みに興じることなど許されない。
だが、紗恵は知っている。小さいときの成実は、周囲の者たちに隠れて、姉たちの輪に混ざろうとしていたことを。
きっと、レース編みを一緒に楽しんでいたこともあるだろう。
「少しだけ心得がある」
「あの、実は途中で編み方が分からなくなって、手が止まってしまったのです。花の模様を編もうと思ったのですが……」
「触っても良いか?」
成実は編み針を手に取ると、紗恵が悩んでいたところを簡単に編んでしまう。迷いのない手つきを見つめながら、紗恵は目を丸くした。
「成実様は、本当に何でも器用にできますね」
「何でもはできない。ずいぶん大きなものを編もうとしているようだな」
「希与子様に、肩掛けを編んで差しあげたくて」
彼女は外つ国の装いをすることは少ないが、レースの肩掛けならば、普段の小袖や振袖にも合わせやすい。日頃の感謝を伝える意味でも、贈り物としたかった。
「なんだ、俺にではないのか」
成実は冗談でも口にするように、ほんの少しだけ笑いながら言った。
「ご迷惑でなければ、成実様にも編みます。小物なら、お持ちになっていただけるでしょうか? ぜひ、お贈りさせてください」
さすがに、成実に贈るのであれば、希与子と同じ肩掛けというわけにはいかない。
「それは楽しみだ。その御礼と言うわけではないが、俺からも贈り物がある。帝都の土産だ。女学生の間で流行っているらしい」
成実は編み物を紗恵に渡してから、荷解きをはじめる。
しばらくして、紗恵の眼前に、成実は薄絹でくるんでいた何かを広げる。
中から出てきたのは、便箋や封筒、栞、千代紙などだった。
おおぶりの赤い花、蔦、傘など、さまざまな意匠が描かれている。どれも華やかでありながら愛らしく、帝都の女学生たちが夢中になるのも分かる。
「可愛らしいですね」
いつもどおり表情には出せなかったが、紗恵とて年頃の娘らしく、愛らしいものを見ていると心が華やぐ。
「そうだな」
紗恵の言葉に同意しつつも、成実の視線は土産ではなく紗恵に向けられていた。
「成実様?」
思わず、紗恵はじっと成実を見つめ返してしまった。
「愛らしい品々とは思うが。それを見て喜んでくれるお前が、いちばん愛らしい」
成実の素直な言葉を聞くと、紗恵はいつも少しだけ困ってしまう。
嘘偽りなく、心からそう思ってくれていることを知っているから、嬉しいのに、そわそわとして落ちつかない気持ちになるのだ。
「お土産とっても嬉しいです。でも、お手間をおかけしてしまったのでは?」
帝都の女学生に人気ということは、入手することも困難だったはずだ。贈り物は嬉しいが、忙しい成実に無理をさせてしまったのではないか、と気がかりでもあった。
「お前のことで、手間と思うようなことはない。気に入ったか?」
何処か自信がなさそうな声に、紗恵はゆっくりと瞬きをする。
あまり遠慮しすぎたら、かえって成実を傷つけてしまう。そんなことにも思い至らなかった自分が恥ずかしい。
紗恵を想って、紗恵のためにしてくれたことだ。
申し訳なさ以上に、嬉しく思っているのだ。
紗恵が素直に受け取らなかったら、成実の気持ちまでも裏切ってしまう。
「とっても気に入りました。ありがとうございます、可愛いお土産も、成実様のお気持ちも嬉しいです。選んでいるとき、私のことを考えてくださっていたのでしょうか? と思ったら、胸のうちがあたたかくなりました」
贈り物も嬉しく思うが、何よりも成実の想いが嬉しかった。
紗恵が価値のないものと思っていた紗恵自身のことを、いつも成実は優しく見つめて、掬いあげてくれる。
「贈り物を選ぶときだけでなく、いつもお前のことを想っている。俺の心の中には、いつだってお前がいる」
成実は両手でそっと紗恵の頬を包んだ。それから、紗恵の額に自らのそれを重ねる。
吐息が重なるほど近くに、好きな人がいる。
夫婦になってから、それなりの時間が過ぎたというのに、いまだに紗恵の心臓は高鳴ってしまう。
その度に、紗恵は思い知る。
この人のことが好きなのだ、想いが通じ合う前も、通じ合った今も。
「私も、いつも成実様のことを想っています」
成実は微笑んで、触れるだけの口づけをくれた。
【おわり】