きらきら星たちのパーティ
「みのるさま、よろしいですか。これは私とあなただけで遂行する作戦です」
そう言われた時、みのるは今まで感じたことのない胸のときめきを覚えた。
霧江みのるは、きたる五月十四日が、中田正義の誕生日であると教えられた。二十八歳の誕生日だそうだ。中田正義とは、いろいろな事情でみのると一緒に暮らしているかっこいい男性のことで、大きな声では言えないものの、彼はみのると父親を同じくする『お兄ちゃん』である。みのるは十三歳だった。こんなに年の離れた兄弟がいるなんてとみのるは驚いたものの、物心ついて以来みのるは一度も父親には会ったことがなかったので――顔も声も知らない――そういうこともあるのだなと自分を納得させるしかなかった。
そして正義はみのるに優しかった。
一緒に住んでいるリチャードも同じく、優しかった。
リチャードは正義の働くジュエリーブランドの上司であり、正義とはかなり長い付き合いがあるそうだった。二人はとても仲がよく、みのるのためを思って別々に住もうとしていたので、みのるは「一緒に住めばいいんじゃないでしょうか」と提案した。何しろ正義が準備してくれたレジデンスはかなりの広さで、使われていない客室が幾つもあったのである。
そんなわけでみのるは、中田正義と、リチャード・ラナシンハ・ドヴルピアンと共に寝起きする、ちょっと珍しい境遇の中学生だった。
その正義の誕生日を、リチャードが教えてくれた。ゴールデンウィーク明けの今、もう目と鼻の先に迫っている日づけである。
リチャードはサプライズパーティの作戦を立てていた。
「あなたにも手伝っていただきたいのです。秘密のパーティをしようとしても、一人ではなかなか上手に運ばないこともございます」
「もっ、もちろんです。何でもやります!」
「感謝します。しかし無理は禁物です。学校の課題などもおありでしょう。そういう時には……」
「あの、正義さんのためなら……僕、本当に何でも、したいです」
リチャードはにこりと笑い、感謝しますと繰り返すように胸に手を当てて一礼した。みのるはリチャードのこういう優雅な仕草が好きだった。
それにしても、二十八歳という年齢をみのるは具体的に想像できなかった。最近改定された成人年齢の十八歳すら思い浮かべられないのに、更にその十歳上である。高校生でも大学生でもない、ひとかどの大人の年だった。
「サプライズパーティ当日の段取りは主に三つに分かれます。一、帰ってきた正義に目隠しをして部屋に案内する。二、正義の前にごちそうとプレゼントを並べてハッピーバースデーの歌を歌う。三、クラッカーを鳴らして一緒に晩餐を囲む。以上になります。さて、このパーティのために、前日以前に準備しなければならないことは何でしょうか」
「ごっ……ごちそうを、作る、準備をすること……!」
「……………………」
リチャードは何故か不穏な沈黙を保ち、みのるが怖くなってきた頃合いに、ごちそうはデパートの地下で購入するつもりです、と早口にぼそぼそ喋った。みのるは確かにと頷いた。山のようなごちそうが必要になるのであれば、買った方が効率がよい。そういうことのようだった。では。
「えっと……じゃあ、プレゼントを準備します……!」
「エクセレント。素晴らしい。みのるさまから何か、彼に贈りたいと思っているものはございますか?」
「えっ」
それは、あった。山のようにあった。正義の好きな音楽のCDや――最近真鈴の友達がレコードというものを集めるのにはまっているそうなのでそういうものでも――洋服や、ぴかぴかの靴や、寝る前に時々焚いているお香、枕元に置くぬいぐるみ――そんなものを置いているところは見たことがなかったが可愛いものは嬉しいかもしれないので――、おいしい食べ物、きれいな宝石。何でもあげたかった。
そしてそれらは全て、みのるには手の届かないものだった。
みのるが落ち込んだ顔をすると、リチャードは微笑んだ。
「何でも構いません。言ってみてください。お金のことはお気になさらず」
「それは……えっと、リチャードさんが買ってくれる……ってことですか」
「そういう風に申し上げることもできますが、どちらかというと『みのるさまがアイディア担当、私が買いに行く人担当』とでも思っていただければ」
つまりそういうことのようだった。みのるは少し迷ってから、首を横に振った。
「あの…………今すぐには、ちょっと決めきれないんですけど、もう少し考えたら何か出てくるかもしれないので……その時また、相談します」
リチャードはふんわり微笑み、承知いたしましたと言ってくれた。リチャードにしろ正義にしろ「遠慮しなくていい」等の言葉でぐいぐい距離をつめたりしないところが、みのるにはありがたかった。
誕生日前日、当日の段取りを決めた後、みのるとリチャードは何食わぬ顔でそれぞれの業務――リチャードは仕事、みのるは宿題――に戻り、夕方になって帰ってきた正義を出迎えた。そしていよいよ誕生日、当日。
正義には「仕事が入っている」と言い、リチャードは休暇を取ったそうだった。秘密の休日である。そして正義が出かけて行くと、リチャードは珍しくエプロンをかけ、みのるに向き直った。
「制限時間は六時間です。正義が帰ってくるまでの間に、全ての準備を整えなければなりません。多少困難な道のりかもしれませんが、私たちであればできます。そうは思われませんか、みのるさま。プレゼントもきっと思い浮かぶでしょう」
「は、はい……!」
そして二人は手始めに家の中をぴかぴかに掃除した。とはいえ家の中は常に正義が片付けているため、わざわざ掃除をしなければならない場所はほとんどない。大掃除でもなければ手を付けないような箇所を探し、二人は家中の掃除を終えた。一時間ほどだった。
その後は買い出しに向かった。
レジデンスの周辺のみならず、横浜の中心街周辺には大きなスーパーが少ない。昔ながらの商店街が生き残っているゆえでもあったが、大きなスーパーマーケットで買い物をしたいとなれば、車がないと不便である。
正義の青い4WDとは違う、どことなくまろやかなフォルムの深緑色の車で、リチャードはみのるをスーパーに連れて行った。その後のデパ地下での買い物も含めて完璧にメモが作ってあるため、買うべきものに迷うことはない。広いスーパーの中を、カートを押して二人はきびきびと動いた。
だがその途中、みのるは気づいてしまった。
製菓コーナーの中に、気になるものがあったのである。
『かんたんデコレーションケーキセット』。
文字通り、簡単にデコレーションケーキがつくれるよう、上下半分に切られたスポンジケーキと、デコレーションに使えるチョコレートのペン等がセットになっている。生クリームやフルーツは自分で買わなければならないが、それ以外の道具は揃っている。
体感的にはかなりの時間の後、みのるは勇気を出して声をあげた。
「あの……! リチャードさん!」
隣の通路を歩いていたリチャードが、カラカラとカートを押しながら戻ってきたので、みのるは製菓コーナーを示し、決然と告げた。
「プレゼント、決まりました。デパートじゃなくて、ここで買ってもいいですよね。ケーキにします。僕、中田さんにケーキを作りたいです……!」
「ケーキを?」
リチャードがあまりにも突拍子もない顔をしたので、みのるはびくりとした。しかしリチャードはすぐに右手で顔を覆い、失礼いたしましたと一礼した。
「それは…………いえ、そういえばみのるさまにはお料理の心得がおありでしたね」
「あの、ここにある『かんたんデコレーションケーキセット』っていうものを使ったら、制限時間内に、何とかなると思うんです。それで、上の方にさっき買ったフルーツを切って、ちょっと並べたら、見栄えもするかなって……」
「あなたは素晴らしい料理人です、みのるさま」
しかし、とリチャードは深刻な顔を近づけてきた。
「私は都合上、あなたのミッション遂行を手伝うことができません。それでもかまいませんか。ケーキづくりはあなた一人の作戦行動になってしまいます」
「で、できます。大丈夫です。でも、あの、失敗した時のために、これを二つ買ってもいいですか」
「オフコース。もちろんです。それにしても、あなたはリスク管理のことまで考えている……先々が恐ろしい才能です。素晴らしい」
「お、おおげさです……!」
帰宅するとすぐ、リチャードは傷みやすいごちそうを冷蔵庫に収納し、その後部屋の飾り付けにとりかかった。飾りはみのるが自室でチマチマと作っていた切り紙細工と、リチャードがどこからか手に入れてきた『ハッピーバースデー』と世界の言葉で書かれたオーナメント類である。カラフルでほわほわした字体からして子ども向けのようだったが、不思議と部屋の雰囲気にマッチしていた。リチャードはセンスがいい人だ、とみのるは改めて思った。寝起きが多少悪いこと以外に欠点らしい欠点がない。
自分もいつか、少しくらいはそういう風になれるだろうかと思った時、みのるはふと途方もない気持ちになった。長い道の途中にひとり、自分が立ちすくんでいるような光景が浮かんできたのである。道のわきには道路標識のような看板が立っている。
十四、十五、十六――と。
年を取るということは、まっすぐ続く後戻りできない道をゆくようなものなのかもしれないと、みのるはその時はっきりと思った。
怖かった。
いつの間にか二十八歳になっていたらどうしようとみのるは思った。中身は今と同じまま、何も考えずに十五年経ってしまって、ぼんやりしていて何もできない大人になってしまったらどうしようと。同い年の時に正義はあんなに格好よくて、しっかりしていたのにと、たくさん後悔しそうだった。だがどうすれば十五年後に正義のようになれるのかは見当もつかない。目標が高すぎるような気もしたが、かといって今のままでいいとは思えない。
みのるは混乱しつつ、声を上げた。
「あの……!」
壁にオーナメントを飾っていたリチャードは、椅子に乗ったまま振り返った。みのるは言葉を続けた。
「年を取るって……どういうことなんでしょうか。どうしたら、ちゃんとした大人になれますか」
「回答に幅のある質問でございますね」
リチャードは温和に微笑みながら椅子を下り、みのるの隣にやってきた。かんたんデコレーションケーキは既に完成形に近づいている。スポンジの上は白いクリームで覆われ、サイドの砂糖菓子の飾りつけも万全である。二層のスポンジの間には、シロップがたっぷりの甘いフルーツが挟み込まれている。トップに盛るフルーツはもはやおまけで、時間がなかったり、うまくできそうになかったら省こうとみのるは思っていた。何より見栄えが一番大事な局面である。失敗はできなかった。
「素晴らしいケーキです。私には逆立ちしてもこのようなものをつくることはできません」
「えっ、そんなことは……」
「そんなことがあるのです。私には壊滅的に料理の才能がありません」
みのるは半信半疑だった。短い付き合いの中とはいえ、リチャードといえば『何でもできる』の代名詞のような存在である。正義が困っている時には、ここはこうしたらいかがですかと優しい声でアドバイスし、難題を解決してしまう。それが料理ができないなんてただの冗談か、気遣いかもしれないとみのるは思ったが、リチャードの目はいまだかつてなく悲しげだった。
麗しの宝石商は、本当に料理ができないようだった。
みのるはしばらく黙った後、首を傾げた。
「で、でも……最近はお惣菜のお店なんかもあるし……そんなに困ったことじゃないですよね……?」
「その通りです。私も十年ほど前まではそのように思って暮らしていたのです。そもそも兄たちは私よりよほど……いえ失敬、どうでもいい話です。料理はできなくても何ら問題はない、本当にそう信じていました。『できればこの人に自分のつくったものを食べてほしい』と、思う相手ができるまでは」
みのるは頷いた。つまりそれが正義であるようだった。リチャードは話し続けた。
「とはいえ、ないものねだりをしても仕方がありません。私には私のやり方で人々の幸福に貢献する方法がある。そう思っております。しかしみのるさま、私には少しあなたが羨ましい」
切なそうにリチャードは笑った。ケーキ準備のためのフルーツやクリームの残りを眺め、みのるはふと気づいた。
「あの! お、お願いがあります……!」
「?」
「最後のトッピングを……一緒にやりませんか」
ケーキはほぼ完成していた。盛り付けるべきフルーツもすでにカットされている。あとはがらんと空いた中央に、好きなようにフルーツを飾ればいいだけだった。
尻込みをするリチャードに、みのるは言葉を重ねた。
「あの、どうやって乗せたら一番きれいに見えるか、アドバイスをください。設計図みたいな……リチャードさんはアドバイスが得意だと思うので、僕のことも助けてください」
「……かしこまりました」
そしてみのるは、リモート操作のロボットのような気持ちで手を動かした。リチャードは最初、ベルサイユ宮殿の庭のような盛りつけにしましょうと言いみのるを混乱させたが、あわあわしている様子に気づくと、もっと簡単にしましょうねと破顔した。
細かく切ったフルーツを中央に寄せ、重ねて高さを出す。
色とりどりの花でつくられた、大きな一つの花束のように。
イチゴの赤やキウイの緑、桜桃のオレンジやパインの黄色がクリームの上に広がると、ケーキは一段と華やかになった。
「これ、いいですね、すっごくいいですね。まわりの空いたところに、ろうそくを刺せるし……」
「言われてみればその通りです。シンプル・イズ・ベスト、正しい言葉だったのかもしれません」
完成品を二人で眺めた後、みのるは温度で崩れないようしずしずとケーキをまな板ごと冷蔵庫に収納した。
あとはパーティの主役が帰ってくるのを待つばかりである。
いつ帰るのだろうか、早く帰らないかな、とわくわくしていると、不意にリチャードが口を開いた。
「先ほどのお話の続きになりますが」
「は、はい」
「年を取るということは、思い出が増えてゆく、ということかもしれません。様々な思い出があなたを形作り、あなたという人間の内圧を高めてゆく」
「ないあつ」
「中身、と言い換えることもできるかもしれません。おにぎりの具のようなものと思って頂ければ」
みのるは頷いた。年を取るごとに増えてゆくおにぎりの具。白米も同じくらいのバランスで増えてくれたらいいのになとみのるは思い、少し笑った。リチャードも笑った。みのるは楽しかった。
そして不意に、お母さんの顔が脳裏をよぎった。
一緒に暮らしていた時に感じた辛かったこと、楽しかったこと、いろいろなこと。
みのるは問いかけずにはいられなかった。
「あの……リチャードさんには、いい思い出と、嫌な思い出、どっちの方が多いですか……?」
リチャードはしばらく静かな表情をした後、穏やかに話し始めた。
「あなたと同じ年ごろの私に尋ねたら、言いにくそうな顔をして『嫌な思い出の方が多い』と言うかもしれません。幼い頃の私は、あまりよい言い方ではないのを承知で申し上げるなら、思い詰める性格でしたので」
ですが、とリチャードは言葉を継いだ。
「今の私に同じ質問をするなら、『いい思い出の方が多い』と答えることでしょう。年を経ることに、いい思い出が増えてゆくのです。もちろん嫌なことが何もなかったとは申しませんが、それでも私は『いい思い出』という、あたたかなきらきら星の雲のような、あたたかな靄に自分が包まれていることを感じます。そして不遜ながら、みのるさま、あなたも私を包んでくださるきらきら星の一つなのですよ」
「えっ」
思ってもみない言葉だった。思い出がきらきら星という言葉は何となくわかったような気がしたが、自分がそういう星の一つになれるとは――逆の、何だかよくわからない黒くて陰気なものであればまだしも――思ったこともなかった。
みのるは首を横に振った。
「ぼく……何もできていないです」
「そのようなことはございません。全く、ございませんよ」
珍しい断定の言葉を、リチャードは二度、繰り返した。だがその中に険しさは微塵もなく、リチャードはどこか甘酸っぱい微笑みを浮かべていた。
そしてゆっくりと告げた。
「あなたと一緒に暮らすことができて、私はとても嬉しく、幸せなのです」
みのるが目を見開くと、本当ですよと告げるように、リチャードは小さく頷いた。みのるには返す言葉が一通りしか浮かばなかった。
「………………ぼくもです」
「光栄なお言葉です」
と。
「ただいまー」
階下から声が聞こえた時、リチャードはすばやくみのるに目くばせをした。みのるも理解した。段取りは既に五回は予行練習済みである。
みのるは靴箱の上に置いていた黒い布を握り、飛び出した。
階段の下には正義がいて、みのるの顔を見ると微笑んだ。
「ただいま、みのるくん」
多少くたびれてはいるものの、いつもと同じぱりっとしたスーツ姿の正義は、何故か左右の手に大量の紙袋をさげていた。もしかしたら仕事中にも誕生日プレゼントをもらったのかもしれない。本当に喜んでもらえるかな、と思いつつ、みのるは不安がるのをやめ、正義に両手で布を差し出した。
「正義さん、おかえりなさい! 何も言わず、顔にこれを巻いてください!」
「これを……? 顔に巻くの? バンダナみたいに?」
「いえ、あの、目隠しなんです」
「……ああ!」
正義は心得たとばかりに紙袋をみのるに持たせ、空いた両手で顔面に布を巻いた。見えなくなっちゃったなあ、と笑う正義が手を差し伸べてきたので、みのるは正義の手を取った。
「ゆっくり歩いてください。危ないので」
「了解」
正義はみのるに全てを預け、ゆっくりと歩いた。みのるもしずしずと一歩ずつ丁寧に歩いた。楽しい時間に続く道を、できるだけゆっくりと歩きたかった。
扉を開けた時、みのるは笑った。リチャードが笑っていたからである。心から嬉しそうな、ほっとしたような、とびきり嬉しいことをお祝いする時の顔で、みのるは今までこれほど美しい誰かの表情を見たことがなかった。
正義が目隠しを取ろうとする瞬間、みのるはふと思った。
今日という日は、いつか思い出になった時、自分の中に輝く大きなきらきら星になってくれるのかもしれない――と。
【おわり】