青空の卵
「おかしいわ。どうしてわたしはスコットランドの森の中で倒れているのかしら……」
シャーロットは木漏れ日の下、藪の間の草地に仰向けに寝転んだまま、空を眺めて独りごちた。すい、とヒバリが空を飛んでいくのが見える。
「一週間前までは、イングランドの修道院でお祈りしてばかりの日々だったのに……」
足を滑らせたときに地面にぶつけた背中がまだ痛い。どこかを切ったとかそういう感じではなかったので、しばらくすれば収まるだろうが、まだ立ち上がる気になれなかった。顔を少し横向ければ、詰んだばかりの木イチゴの実が、あたりに転がっているのがわかる。こんなに散乱してしまっては拾うのが大変だろう……。
シャーロットはため息をつく。春の日はうららかで、辺りは平穏そのものだ。我が身に起こったあり得ないような変化とは対照的に。
事の起こりは一週間前である。突然父のノエル伯爵に呼び出されて、結婚しろと言われたのだ。それも、異母妹エリザベスの身代わりとして。正妻の子であるエリザベスに対して、シャーロットは愛人の子であり、つまり婚外子である。その立場は弱く、断るという選択肢はない。あれよあれよという間に結婚式は済んでしまって、気がつけば、エリザベスとしてハイランドに向かう途上である。
生まれて初めての長旅に加えて、今まで会ったこともない男性と結婚して、共に過ごしているという状況に、夢でも見ているのではないかという気分になる。が、背中の痛みは、これが間違いなく現実であると告げていた。
シャーロットは半ば開き直って考えた。焦って立ち上がったところで、事態が変わるわけでもない。であれば、痛みが治まるまで、少しぐらいこの春の日差しを楽しんでもいいではないか。そのあとで木イチゴを拾い集めても遅くはない。
シャーロットは寝転んだまま空を見る。先ほどのヒバリだろうか、さえずりながら空を舞う姿は、地面に縫い付けられたように倒れているシャーロットとは違って、自由そのものだ……。
「エリザベス」
シャーロットははっとした。それは夫の声だった。こんなところでひっくり返っているのを見られるのは、いかがなものか。シャーロットは咄嗟に起き上がろうとしたが、背中が痛くて動けなかった。
「君は何をしているんだ?」
シャーロットの目の前に、見下ろす夫の姿が飛び込んできた。
「アレクサンダー……」
大柄な男である。格子柄の毛織布を身に纏い、ベルトに剣を佩いている。ハイランド地方に住む男性が身につけるというその衣装を、イングランド育ちのシャーロットはこれまで見たこともなかった。
青。紫。緑。黒。そして赤。独特な風合いの格子柄は、様々な色糸で織られているのに、不思議と色の調和を保っている。それは、精悍な顔立ちに、夜の泉のような目を持つ、黒髪のアレクサンダーにはよく似合っていた。
「夕ご飯の足しになりそうだから、木イチゴの実を摘んでたんだけど、足を滑らせて……」
「転んだという訳か。君は案外そそっかしいな」
アレクサンダーは、辺りに散乱した木イチゴを見て、状況を理解したようだった。シャーロットが恥ずかしくて顔をそらしていると、アレクサンダーは屈み込んできた。そうして、ひょいとシャーロットを抱き上げた。
「ちょ、歩けます、こんなことをしてくれなくても」
「どこかぶつけたんだろう。痛みが取れるまで待っていたら日が暮れる」
そう言って、アレクサンダーは苦もなく歩き出した。シャーロットは痩せがちではあるけれど、それなりに体重はあるはずなのに。
「あの……重くない?」
「軽くはないな。だがまあ、鉄の犂を畑に運ぶと思えばずっと楽だ」
一度断ってはみたものの、背中はまだ少し痛かったから、こうして運んでもらえるのは助かった。アレクサンダーの胸の中は温かく、件の格子縞の毛織物からは豊かなハーブの匂いがした。
不思議だった。結婚するまで顔も知らなかったというのに、こんな風に抱き上げられて運んでもらっているのだ。いや……、今だって知っていることはほとんどない。旅の道すがら、ちょっとずつ互いについて話し合った程度のことだ。スコットランドのハイランド地方の領主だということ、年齢は25歳であるということ、馬に乗るのが上手で、ハギスとかいう郷土料理が好きらしいこと……。
シャーロットがぼんやりとそんなことを考えていると、アレクサンダーは今日、野営する予定の場所を越えてさらに進んでいく。
「……あの、アレクサンダー? どこに行くの?」
「君に見せたいものがある」
シャーロットは目をぱちくりさせた。こんな森の中に、一体何があるのだろう。
と、視界が開けた。樫の森が突然途切れて、野原が広がっていた。地面を覆う一面の緑は目に優しく、所々に咲く黄色やピンクの野草の花がかわいらしく野原を彩っている。
「……野原? ここを見せたいの?」
確かに綺麗な眺めではあるけれど、こういった野原や牧草地はこれまで何度も通り過ぎてきた。
「いや、こっちだ」
アレクサンダーはそう言うと野原の中を少し歩いて、岩陰のそばでシャーロットを下ろした。と、ぱたぱたっと羽ばたきの音がして、一羽のヒバリが草の間から飛び出した。アレクサンダーは、ヒバリの飛び出した辺りに茂るカタバミをそっと手でよけた。
「……まあ」
シャーロットは目を丸くした。草の間に埋もれるように、枯れ木で作られた鳥の巣がちんまりと存在している。巣の中には、まだら模様の小さな卵が四つ並んでいた。
「これ……さっきのヒバリの卵?」
「そうだ。ヒバリは地面に穴を掘って巣を作る」
「木に作るんじゃないのね? 初めて見たわ。どうやって見つけたの?」
シャーロットは背中の痛みも忘れて巣の中をのぞき込んだ。
「馬に草をやっているときに偶然見つけた。俺も見るのは久しぶりだ。ヒバリは天敵から逃れるために、巣を見つかりにくいところに作るからな」
巣の中の卵は、秘密の宝物のように、可愛らしく並んでいた。自由に空を飛べるヒバリでも、最初は地面に作られた巣の中から生まれるのだ……。
シャーロットはアレクサンダーを見た。
「……これを見せるために連れてきてくれたの?」
「ヒバリが好きだと前に言っていただろう?」
そういえば、旅の道すがら、そんなことを話したような気もする。
夫は、シャーロットがたまさかしゃべった、そんな小さな事を覚えていてくれたのだろうか。そう思うと、ほんのりと胸が温かくなるような、こそばゆいような、嬉しい気持ちが湧いて来る。
考えてみれば、アレクサンダーだって、シャーロットの事は何も知らないはずなのだ。それでも、こうして歩み寄ろうとしてくれている。
「……ありがとう、アレクサンダー」
シャーロットがそう言うと、アレクサンダーは少しばかり笑みを浮かべ、天を見上げた。青空には、先ほどの親鳥が、縄張りを主張するように、さえずりながら旋回している。
ふと、シャーロットは思った。
……こうやって、少しずつこの人の事を知っていく。
そして、重なり合う人生を共に歩んでいくのだろう、と。
【おわり】