ハッピーサマーゾンビソーダ


 少女が一人、駆けていく。
 金の髪を揺らし、必死の(ぎょう)(そう)でストリートを走り抜ける。時おり後ろを振り返りながら、お()()にもランニング向きとはいえない底の薄っぺらいブーツで、アスファルトを()り上げる。
 ()(わい)(そう)だけど、この命がけの疾走がすべて無駄になると僕は知っている。
 そろそろだ。行く先には倒れた標識が横たわっていて、それにつまずいて彼女は転ぶ。
 僕の記憶にあるのと寸分(たが)わぬタイミングでブーツの(つま)(さき)は標識に接触し、少女は顔からアスファルトに突っ込んだ。すぐに起き上がったけど、もう間に合わない。
 追いつかれた。
「ほんっと(あらた)は好きだねえ、こういうの」
 能天気な(むら)()の声に、スクリーンから目を離さずに答えた。
「うるさいな。嫌だったらどっか行けって」
 さわやかな五月の午後、よく晴れた絶好の体育祭日和(びより)だった。
 そんな日に僕らは教室で机を並べ、教卓の前に垂らしたスクリーンを見上げていた。クラスメイトたちは今ごろグラウンドで懸命にクラス対抗リレーを走っているはずで、僕らのほかには誰もいない。
「別に、嫌とは言ってないじゃん」
「なら黙って見てろよ」
 あれこれ言いながら見るのが楽しいんじゃーん、と机に(ほお)をつけた村瀬を無視し、僕はスクリーンに集中した。
 追ってきた()()の手が、白い足首をつかむ。少女は金切り声を上げてそれを蹴りつけたけど、相手はひるみもせずに彼女を押さえつける。えりぐりの大きく開いたTシャツから(のぞ)く無防備な肌に、それの歯が丸く食い込むと、少女の絶叫が耳をつんざいた。
「あー、もう。見てらんない。なんでこうなっちゃうかなあ」
 村瀬は机に突っ伏した。
「なんでってお前、ゾンビ映画なんだから。誰かが襲われないと話にならないだろ」
「それはそうかもしれないけど」
 本当は、一人で体育祭をサボって教室でゾンビ映画を鑑賞するつもりだった。体育祭をサボろうと決めた時、それなら久しぶりに父さんのDVDを見て時間を(つぶ)そうと思いついた。家には再生機器がないから、こういう機会でもないと見られない。
 午前中、僕の(もく)()()はうまくいっていた。僕みたいに目立たない生徒が一人いなくても誰も気付かないらしく(いや、気付いても呼びにこないだけか)、がらんとした教室を(ひと)()めできていた。
 それなのに、午後になって村瀬が現れた。
 村瀬はたいていクラスの目立つ奴らとつるんでいるくせに、時々思い出したようにその輪を抜け、今日みたいに一人でいる僕に話しかける。村瀬はそういうことが許される人間だった。生徒間のランク付けみたいな線引きを悠々(ゆうゆう)と越えていっても、誰にもとがめられない(ふん)()()があった。
「ていうか、そろそろグラウンド戻れよ」
 スクリーン上では、さっきの少女の腹が食い破られ、(ちょう)が露出していた。村瀬はそれを意地でも目に映さないように、変な方向に首を曲げていた。
「なんで戻んないといけないの?」
 気を取り直そうとでもいうのか、村瀬はポケットからアメを出してカロカロなめだした。僕の机にも一つ、真っ赤な色をしたアメが置かれる。女子がくれたから、といういらない情報も付け加えられた。
「僕がいなくても誰も気にしないけど、村瀬だったら皆心配するだろ。呼びにこられたら困る」
「新のこと、誰も気にしなくなかったじゃん。俺が探しに来たでしょ」
 はいはい、と僕はアメの袋を裂いた。初夏の陽気で溶けかけた赤いアメを口に放り込んだ途端に、予想外の()っぱさが口中に広がった。
「すっっっぱ。なにこれ、イチゴじゃないの?」
「びびるよね。何味だか知んないけど」
 村瀬はなめかけのアメ玉を見せびらかすように舌を出した。しまえ、と脇を小突くと、けらけらと声を上げて笑った。
 スクリーンに視線を戻すと、さっきの少女がむくりと起き上がって、はみ出た内臓を引きずりながらよろよろと歩き始めたところだった。歩くのに邪魔だったのか、彼女は自分の手で腸を引きちぎって道端に捨てた。少女はもう、「あちら」側へ行ってしまったのだ。
 隣で、村瀬が()()を引く音がした。
「だからさ、グロいのきつかったら無理に付き合わなくていいって」
 村瀬は無言で立ち上がった。村瀬が歩くと、五月の晴天の下で清く正しく運動していた者らしく、制汗剤に混じってかすかに汗の(にお)いがした。そのまま窓辺に向かい、窓を大きく開け放った。大画面に映し出されるグロい映像に不似合いな初夏の風が、カーテンをはためかせる。遠く、生徒たちの興奮した声が風に乗って聞こえてきた。
「てか新、知ってる? ゾンビ病の話」
「なにそれ」
 村瀬は窓辺から戻ってきて、ポケットからスマホを取り出した。
「ええと、ほらこれ。『初期症状として(けん)(たい)(かん)と発熱を訴え、進行すると歩行障害を引き起こす。精神(さく)(らん)(ともな)い、もとの性質にかかわらず攻撃的になる。感染経路は経口接触等』。つまり、ゾンビみたいになっちゃう病気なんだってさ。北米で発生して、本当は日本にも患者が出てるのに、報道されてないって(うわさ)になってる」
 僕は思わず鼻を鳴らした。
「まさかそれ信じてんの? まんま(いん)(ぼう)(ろん)じゃん」
 村瀬はちょっと恥ずかしそうにスマホを引っ込めた。
「別に信じてるわけじゃないって。ちょっとネットで見かけただけ。『ゾンビ』だし、新はそういうの好きかなって」
「いや、ぜんぜん。ゾンビが現実になるとか最悪」
「そうなの?」
「そりゃそうだろ。僕みたいにとろい奴はすぐに捕まって、連中の仲間入りに決まってる」
 こいつなら生き残るかもな、と長い手足を(いち)(べつ)した。村瀬は運動部でもないくせに足が速い。そんな奴がクラス対抗リレーから抜けて、クラスメイトたちは怒ってないだろうか。村瀬相手なら怒らないか。
「こんな奴らには、ずっと画面の向こうにいてほしいよ」
 シーンが切り替わり、スクリーンに主人公が現れた。ゾンビ共がうようよと腕を伸ばす中、ヒロインを連れて(さっ)(そう)と車に乗り込み、ホームセンターに向かおうとしている。ホームセンターで武器を調達するのはド定番だけど、やっぱりわくわくする。日常にあるもので戦うのって、どうしてこんなに興奮するんだろう。
 それから村瀬は話しかけてこなかったので、映画に集中できた。ちらりと村瀬の方を見ると、神妙な顔をしてスクリーンを見上げているのがおかしかった。
 そのまま物語は終盤に差し掛かった。主人公とヒロインは追い詰められ、だんだん表情から希望が失われていく。
 何度も見た映画だから、結末は知っている。デッドエンドだ。ゾンビ映画によくあるように、登場人物がみんなゾンビになって終了。ヒロインが先に()まれ、絶望した主人公は彼女に自らキスして映画は終わる。
「ねー、新」
 今一番いいところなのにと横目で村瀬を見ると、なんだか固い顔をしていた。
「なに?」
 グロ映画のせいでいよいよ本当に気分が悪くなったのかと、少し心配になる。
「ちょっと変なこときくんだけど、いい?」
「だから、なに」
 聞き直しても村瀬はなんにも言わず、ぼりぼり音を立てて口の中のアメを嚙みくだいていた。その音が止んでも、黙ったままだった。
「ごめん、やっぱなんでもないかも」
「なんだよ。気持ち悪いから、そこまで言ったなら言えよ」
 肩を揺すると、村瀬からあーとかうーとか妙な音が()れだした。いったいなんなんだ。その時、スクリーンから(かん)(だか)い悲鳴が上がった。ヒロインがゾンビに襲われるシーンだ。映画に視線を戻そうとしたところで、村瀬が言った。
「キスしてもいい?」
 思わず、直角に横を向いて村瀬を見た。
 なんと言われたのか、すぐにはわからなかった。村瀬がぜんぜん笑ってなくて真顔だったから、聞き返すのも気が引けて、僕は救いを求めるようにスクリーンを見上げた。
 しかしそこでは、よりによって主人公がゾンビになりかけたヒロインと今まさにキスしているところだった。何度となく見たシーンのはずなのに、僕は小さく声を上げて目を()らした。
「村瀬、ごめん、なんか変な聞き違いしたかも。今なんて言った?」
 村瀬は泣きそうな顔をした。あ、これ、聞き違いじゃないかも、とそれで気付いた。
 でも、えっと、聞き違いじゃないとしたら、なんだ?
キスしていい? って言った」
「えーとそれって、なんで?」
 だからさ、と村瀬は珍しくいらだったように言った。
「好きかもって思ったから」
「誰が、何を?」
「俺が、新を。だから、キスしてみたらわかるかなって」
 ひゅっと息を()み込んだ拍子に、小さくなったアメ玉が(のど)に詰まりかける。アメは無事に舌の上に逃げ帰ってきたが、喉元に残った酸味のせいでむせた。ごほごほ()き込む僕に村瀬は「ご、ごめん、大丈夫?」とか言ってたけど、大丈夫なわけあるか。
 好きかもってなんだ。自慢じゃないが、僕は自分が自分だから仕方なく付き合ってるけど、他人だったらたぶん好きじゃない。この僕に、人から好かれる要素があるとは思えない。それも、村瀬みたいに誰からも好かれそうな奴に。目の前にいる村瀬が、急にわけのわからない生き物に思えてくる。
 爆音でパンクな歌声が流れ始めて、映画が終わったことに気が付く。ラストシーンはほとんど見逃してしまった。黒背景の上を、読ませる気がないのかと思えるほど細かな白文字が流れていく。
 なんでこうなった?
 僕は村瀬と出会ってから今日までの記憶を引っ張り出し、スクリーン上のエンドロールのように脳内に再生し始めた。


 一年前の夏だった。僕はまだ中学生で、一人で駅に立っていた。
「え、なんで?」
 財布がないのに気付いたのは、駅の券売機の前でだった。慌てる僕を笑うかのように、セミの声がしゃわしゃわと背中を(あわ)()てた。
 電車なんか(めっ)()に乗らないから、交通系ICカードなんて便利なものは持っていなかった。だから財布がなければ詰みなのだ。
 中身がほとんど入ってないスクールバッグをゆすってみても、タオルとティッシュ、水筒、筆記用具しか出てこなかった。制服のポケットをまさぐっても、糸くずが一本発見されただけだった。
 汗が一筋、背中を伝い落ちていく。この間つまらない理由でスマホを取り上げられたばかりなので、母さんに電話することもできない。
 駅舎からよろよろ一歩踏み出すと、太陽光がかっと肌に食らいついた。でも、それにひるんで日陰に引き返すわけにはいかない。
 とにかく、財布を探さないと。
 僕は来たばかりの道を(おお)(また)に、ほとんど小走りに戻り始めた。
 オープンキャンパスなんて来るんじゃなかった。夏休みのうちに一校だけでも行くようにと課題を出されたって、「行きたい学校の時に熱を出してしまって」とかなんとか言ってごまかせばよかったんだ。パンデミックの記憶はまだ真新しいから、そう言えば先生だって強くは出られない。高校なんてどこだってよかった。校名を聞いた母さんが色めき立ちも怒り出しもせず、「へえ、まあいいんじゃない」と答えてくれる学校なら、どこだって。
 アスファルトを見下ろして道をたどるうちに、あっけなく校門まで戻ってきてしまった。太陽の照り返しで目が痛むばかりで、財布はどこにも見当たらない。残るは校内しかない。校内に落としたなら、善人の誰かが職員室か事務室に届けてくれているかもしれない。どうかそうであってくれ、と祈りながら校舎へ足を向けた。
 強烈な太陽光に慣れた目には、校舎の中は薄暗く思えた。緑色の来校者用スリッパをぺたぺたいわせながら事務室に向かうと、窓口は先客にふさがれていた。背の高い男子生徒だった。たぶん一八〇以上ある。着ている制服がこの学校のじゃないから、でかいけど僕と同じ見学の中学生なのだろう。早くどいてくれないかな、と焦りのせいで厚かましいことを思いながら彼の手元を見ると、そこに握られていた茶色くて薄っぺらい革財布はまさに僕のもの、母さんが中学の入学祝いにくれたそれに違いなかった。
「あ、あの~」
 男子生徒の顔が、僕の方を振り返った。
「なに、どうしたの?」
 問いかけにすぐに反応できなかったのは、正面から見た男子生徒の顔が、ちょっとびっくりするくらい整っていたせいだった。相手はそんな反応に慣れ切っているのか、特に表情を変えることなく、固まった僕に向かって財布を(かか)げてみせた。
「これ、もしかして君の?」

「でもよかったよ、すぐに持ち主が見つかって」
 いやあ、はは、と無意味な笑いを浮かべながら、僕はなぜか例のでかいイケメンの横に立っていた。それというのも、「お礼にジュースでもおごります」と自販機に走ったはいいものの、財布を開けたら現金がほとんどすべて(一円玉が三枚だけ残っていた、(から)っぽよりも腹が立つ)抜き取られていたせいだ。
 ありゃ、とイケメンは石化した僕の手元を(のぞ)きこんだ。
「俺が拾う前に、中身だけ誰かに()られちゃってたか」
 ついてないね、と(れん)(びん)の笑みを浮かべるイケメンに「いやでも、二千円くらいしか入ってなかったですし」と精一杯強がってみせた。僕にとって二千円は超大金だけど、初対面のイケメンの前で「僕の二千円が」と泣き出すわけにもいかない。まさかお前が盗ったんじゃないよな、と一瞬疑ったけれど、それならわざわざ事務室に届けたりしないだろう。
 そしてはたと気が付いた。
 財布は無事に手元に戻ってきたけれど、やっぱりお金はなくて、つまり電車に乗れないままでは?
 ゾンビみたいな顔色になった僕に、イケメンは「大丈夫? お金貸そうか?」と善人すぎる声をかけた。やめてくれ、ちょっとでも疑った僕が余計に恥ずかしくなる。
「いや、そんな、悪いですよ」
 よっぽど「お願いします」と頼みたかったが、ここでお金を借りたら返すタイミングがない。イケメンは「なんで敬語? 俺たち同い年でしょ」と笑った。
(えん)(りょ)しないでよ。だって他にどうしようもないじゃん」
「お金借りるくらいなら、事務室に戻って電話借りて
「番号、覚えてるの?」
 僕は黙り込むしかなかった。母さんのスマホの番号なんか覚えていない。
「いや、でも、お金貸してもらってもいつ返したら」
「いいよ別に、返さなくても」
「そういうわけにはいかないですよ」
「いいって。ていうか、受け取ってくれた方が俺としても助かるんだよね」
 どういうことですか、とたずねるとイケメンはちょっと照れたような顔をして「もしこの後、用事なかったらでいいんだけどさ」と続けた。
「電車賃のお礼替わりに、付き合ってほしい場所があるんだけど」

 数十分後、僕らは二人並んで電車に揺られていた。
 どこへ行くのかときいても、「すぐ着くよ」とか「つまんないとこ」としか答えてくれなかった。(しゃ)(そう)は僕の家とは逆方向に流れていく。寒いくらいのエアコンで冷えた頭の中で、だんだん不安が(ふく)らみ始めていた。安うけ合いしてしまったけど、たかだか電車賃数百円のために、面倒事に巻き込まれようとしているのかもしれない。そうじゃなきゃ、行き先をぼかす理由がわからない。あの時は焦っていてこの人にお金を借りるしかない気がしたけど、冷静に考えてみれば、事務室で事情を話せば電車賃くらい貸してくれたのでは?
「そういえば、まだ名前言ってなかったね。俺、村瀬。村瀬(ゆき)()
 村瀬と名乗ったイケメンの、二重に縁どられた目が僕を見おろした。整った顔にはめ込まれた大きな瞳には特有の威圧感があって、思わず目を逸らしてしまう。僕はくたびれた白いスニーカーの(くつ)(さき)を眺めながら、「田中です」と名乗り返した。
「下の名前は?」
新」
 新くんね、と村瀬は嚙みしめるように繰り返した。嚙みしめるほど味のある名前じゃなかろうに。顔を上げると、にこっとまぶしい笑みが返ってきた。
 村瀬はそれ以上口をきかなかった。沈黙が落ち着かなくて、でも初対面のイケメンと何を話せばいいかなんてさっぱりわからなくて、結局僕も黙っていた。女子高生二人組の甲高い笑い声が、時々耳に届いた。建物の影が途切れた時にだけ差し込む光が、村瀬の整った横顔を照らしていた。
 降りたのは、何の変哲もない駅だった。駅前にはどこにでもあるチェーンの飲食店が一揃えと、映画館があった。ゾンビ映画のポスターが貼られているのが見える。照り付ける陽にさらされたゾンビたちは、紙の上でどろりと溶けていきそうに思えた。
 駅から少し離れると、住宅街ばかりが続き、やがてそびえたつような急な坂道が現れた。僕はひるんだが、村瀬は迷うことなくその坂を上り始めた。慌てて僕も後を追う。村瀬はすたすた進んでいくが、僕はといえばいくらも進まないうちに全身の毛穴から汗を噴き出し、足はがくがく震え出すという有様だった。
「あの、どこまで行くん、ですか」
 前を行く村瀬は歩調をゆるめず、「だから敬語やめなって」と答えになっていない答えを返しただけだった。
 いくら財布の恩人とはいえ、いいかげん腹が立ってきた。こんな坂まで登らせて、初対面の僕を連れていきたがる場所っていったいどこなんだ。もしかしてこのまま薄暗い路地に入ったら、不良連中が待ちかまえていて(なぐ)られたり()られたりするのか。でも、僕の財布に一円玉しか入ってないのはこの人だって知ってるし、それじゃあ金目的じゃなくて純粋に暴力が好きな人たちとかと考えていると、村瀬のでかい背中に思いきりぶつかって鼻がつぶれた。
「着いたよ」
 何の変哲もないマンションの前だった。オートロックは付いてないらしく、村瀬はガラス扉を押し開けてエントランスに吸い込まれていった。
 僕もおっかなびっくり後をついていく。マンション内に入ると、暑さがすうっと扉の向こうへ遠ざかった。世界中の(けん)(そう)すべて閉め出したみたいに、エントランスは静かだった。密集した郵便受けのいくつかから、ピザ屋のチラシがべろんと舌のようにはみ出ていることだけが、無音の中の雑音だった。
「誰の部屋に行くんですか?」
 エレベーターの中でそうたずねた。最初から期待してなかったけど、返事はなかった。背面に貼られた鏡の中で、村瀬は険しい顔をしていた。
 チン、と古めかしい音を立ててエレベーターは七階で止まった。ケージを降りながら「変なとこ見せるかもしれないけど、気にしないで」と村瀬は言った。
 七階の一番奥、707号室の前で村瀬は立ち止まった。すう、と呼吸音が僕に聞こえるくらい深く息を吸ってから、インターホンを鳴らした。しばらく待ったけど、扉は開かなかった。でも、留守には思えなかった。扉の向こうで誰かが息をひそめ、僕らが行ってしまうのを待っているような、そんな気配があった。
 村瀬はもう一度チャイムを鳴らした。返事はない。もう一度。返事なし。もう一度。
 ついに村瀬は拳で扉を叩き始めた。ドンドンドン、と低い音が、静まり返った(ろう)()に響く。
「姉ちゃん、いるんだろ!?」
 村瀬がそう一声怒鳴って扉を叩くのをやめると、ドアの向こうで物音が聞こえた。どこか開き直ったような、確かな足音だった。三和土(たたき)をサンダルか何かの靴底がこする音に続いて、ガション、と重たい(かい)(じょう)(おん)がした。
迷惑だから、やめてよ」
 チェーンが繋がれたままのドアから顔をのぞかせたのは、二十歳(はたち)くらいの女の人だった。部屋着のショートパンツから伸びた足が、白く長い。思わず目を逸らして見えた部屋の中には、通販サイトのダンボール箱や(せん)(たく)(もの)が積み上げられていた。
「迷惑? 迷惑してんのはこっちだよ。勝手なことして、勝手に出ていってさ。あの後、母さんがどんなだったかわかってんの? さっさと帰って、母さんに謝れよ」
 村瀬の語気の強さにびびっていると、三和土に並んだ靴の一つに目が留まった。先の尖った黒い革靴。目の前に立つ女の人が()くにはどう見たって大きすぎる、男物の靴だった。
 その時、女の人の背後にぬっと金髪の男が顔を(のぞ)かせた。
「っせえな。せっかく寝てたのに起きちゃったじゃん。で、なにこのガキ共」
 ごめん(きょう)()、と女の人は早口に謝った。
「弟と知らない子。もう帰すから」
「ふざけんなよ。なんでこいつが、姉ちゃんの部屋にいるんだよ」
 村瀬が言うと、男の腕が女の人の肩に巻きついた。
「ガキには関係ねえよ。さっさと帰んな」
 男の目が、ちらと僕を(いち)(べつ)した。思わず身をすくめると、男は鼻で笑った。
「お友達怖がってるよ? こんなとこ連れてくんなよな、かわいそうじゃん」
 やめなよ、と女の人が男に言う。
「雪也、あんたもう帰りな。なんて言われても、あたしは帰んないから」
 姉ちゃん、と村瀬の声が繰り返したけれど、女の人はそっぽを向いた。見ていられなくて、僕は村瀬のシャツを引いた。
「帰ろう、もう」
「そうそう、帰んな。お友達にくっついてきてもらわなきゃびびって来れねえくらいなら、最初から来んな」
 やめてってば、と女の人が繰り返し、扉を閉じかける。(すき)()から「ごめんね」という目で僕を見た。村瀬のことは見なかった。それがなんだか無性にむかついて、つい言ってしまった。
「い、いやいや。びびるに決まってんじゃないですか。僕ら中学生ですよ」
 声はみっともなく引っくり返っていた。立ち尽くしていた村瀬が、驚いたように振り返る。は、は、と(のど)が震えて、笑い声みたいな音を立てた。
「ガキ相手に(すご)んで、楽しいですか?」
 僕は村瀬の手を引き、非常階段に向かって走った。怒声が聞こえたけど、振り返らなかった。階段をぐるぐる駆け下りながら、カンカン鳴る足音とセミの鳴き声が、頭の中で回っていた。村瀬の手をつかんだ手の平がぬめる。なんであんな怖そうな人に、あんなこと言っちゃったんだろう。追ってこないかと階段を見上げたけど、人影はなかった。
 無事にマンションの外に出たところで、村瀬は路上にうずくまった。
「ど、どうしたの」
 よく見れば小刻みに震えている。泣いてるのかと思って、ポケットティッシュを差し出そうとしたら村瀬が顔を上げた。
 その顔は、なんか知らないけど笑っていた。笑いすぎて声も出ないらしく、全身を震わせていた。ひいひい呼吸を整え、村瀬は息もたえだえに言った。
「ごめ、ごめん、怖い思いさせたのに、俺だけ笑ってて」
「別にいいけどそんな笑うとこあった?」
 村瀬はすっくと立ち上がり、やけに(さっ)(そう)と歩き出した。
「ごめんごめん。緊張してたせいか、一回ツボに入ったら止まんなくなっちゃって。あーおもしろかった。言い返された時のあいつの顔、見た?」
「見てないよ、すぐ逃げたから」
 もったいないなあ、と村瀬は目の端に浮かんだ涙を手の甲で(ぬぐ)い、急な坂を駆け下りていった。
 駅前に戻ると、いいと言うのに村瀬はコーヒーショップで期間限定のベリーなんとかフラペチーノという真っ赤な飲み物をおごってくれた。こういう店は、母さんが嫌うのでまず来ない。父さんが家にいた頃に連れてきてもらったことがあるだけだ。
 窓辺の席に並んだ僕と村瀬は、同じ飲み物をちびちびすすった。ひとしきり笑い終えた後の村瀬は、風船がしぼんだみたいに静かになってしまっていた。でかい体が、何割か縮んだように見える。やっぱりさっきのは(から)(げん)()だったんだろう。そりゃそうだ。家族にあんな風に拒絶されて、わけのわかんない男がまとわりついていたら、落ち込むに決まっている。
 こういう時、言うべき言葉をすぐに見つけられる人間だったらよかった。でも僕はそうじゃないから、これでいいのかなとおそるおそる差し出してみるしかなかった。
「あのさ。今から変な話するけど、BGMみたいなもんだと思って聞き流してくれたらいいから」
村瀬は無言で視線だけ動かし、続きを促した。
「えーっとなんていうか、僕の家って、電子レンジなくて」
 は? という顔をして村瀬が顔を上げた。何の話を始めたんだと不審に思ってるんだろう。顔が熱くなってきて、思わず早口になる。
「その、母さんが極端な人で、うちに電化製品ってほとんどないんだ。レンジも固定電話もドライヤーもない。そういうのに嫌気が差したんだと思うけど、父さんは黙って出ていっちゃって」
 やけに喉が(かわ)いて、残り少ないフラペチーノに手を伸ばす。喉にからまる冷たさを、(せき)(ばら)いして振り払った。
「父さんを探そうと思えば、たとえばじいちゃんに手紙書いたりとか、方法はあったと思うんだよね。でも僕はそうしなかった。追いかけてって、迷惑そうな顔されたらって想像したらさ」
 カップの底にわずかに残った液体をしつこく吸い上げると、ずずっと下品な音が鳴った。
「だからえっと、何が言いたいかというと。事情はわかんないけど、村瀬くんが、お姉さんにちゃんと会いに行ったの、すごいと思う」
 本音が半分、同情が半分だった。すごいとは思うけど、どうしてわざわざ自分から傷つきにいくような真似(まね)をするのか、本当のところ僕にはよくわからなかった。
 村瀬の手元で、べこ、とプラスチックカップが音を立てた。
ありがとね。えっと、新くん」
 隣を見ると、前髪の向こうから、村瀬の目が僕を見ていた。
 なぜだか胸苦しさを覚える。母さん以外に名前を呼ばれたのは本当に久しぶりで、自分のことじゃないみたいに聞こえた。
 村瀬はそれ以上何も言わなかった。僕の方も、これ以上言えることはなかった。
 手持ち無沙汰(ぶさた)になった僕は、向かいの映画館に貼り出されたポスターを眺めた。行きがけに見た、夏の日差しに溶けてしまいそうだったゾンビ映画のあれだ。三年前にヒットした作品の続編らしかった。前作は僕も見た。「母さんには内緒だよ」と父さんが映画館に連れていってくれたのだ。このチェーン店に立ち寄ったのも、その時だったかもしれない。帰り道で、父さんはすまなそうに「アニメとかのがよかったかな?」とたずねたけど、初めて見たゾンビ映画は結構面白かった。ゾンビたちがマシンガンで吹っ飛ばされていくのは、もっと小さな頃に見た怪獣映画で、巨大怪獣が尻尾(しっぽ)でビル群をなぎ倒すのに似た快感があった。「楽しかったよ」と答えると、「そうか」と父さんはほっとしたように笑った。
 それなのに、それから一週間もしない内に父さんは消えてしまったのだ。
「好きなの? ゾンビ」
 視線を横にずらすと、村瀬も同じポスターを見上げていた。手元には、血のような色をしたフラペチーノがまだたっぷり残っていた。別に、と答えようとしてやめた。どうせ村瀬には二度と会わないだろうから引かれても関係ないし、電子レンジが家にない話なんかしておいて今さらだ。
「うん。最低な気分の時は、特に効く」
 父さんが置いていった荷物の中に、映画のDVDが何枚かあった。中身はどれも、ゾンビやモンスターが出てくるパニックホラーだった。僕は母さんに隠れてそれをちびちび見続けた。それも、家からテレビが消えるまでだったけど。
 ほら、と僕は言い訳のように付け加えた。
「自分が最悪な時には、()(れい)なものより最悪なものが見たくない? なんか安心するっていうか、笑えてくるっていうか」
 これじゃ単に嫌な奴みたいだなとしゃべりながら思ったけど、村瀬は笑ってくれた。
「なら俺、今からあれ観に行こうかな。ゾンビ映画って見たことないんだ」
 一緒に行こうかと誘われたけど、映画までおごってもらうのは気が引けたから断った。村瀬は特に粘ることなく「そっか」と(うなず)き、溶けてただのジュースになった飲み物を一気に飲み干して店を出た。
「それじゃ、またね。今日はほんとにありがとう」
 そう言って村瀬は手を振ったけど、たぶん二度と会わないだろうと思った。僕はあの高校にこだわっているわけじゃないし、村瀬だって、もう会わない人間だと思ったからこそ僕をあの場に連れていったんだろう。友達とか(しん)(せき)とか、これからも関わっていく相手には見られたくなくて、でも一人で行くには荷が重すぎた場所なんだろう。だから、通りすがりに毛が生えたような僕がちょうどよかったのだ。
 僕も同じだ。もう会わないから、あんな話をした。僕らはぜんぜん似ていないけれど、そういう意味ではこの日、同じことをしたのだ。

 やっぱりというか、村瀬と出会った高校には行かなかった。自転車で通える公立校に受かったから、そこに決めた。母さんも「近いところが安心よね」と言った。僕はそれで村瀬の存在自体忘れて、ついでに出先で財布を失くすようなヘマをしたことも忘れた。
 なのに入学式を終えて教室までとぼとぼ歩いていると、でかい人がこっちに向かって手を振っていた。僕の後ろにいる誰かを呼んでるんだろうと無視していたら、その人はずんずん近づいてきてますますでかくなり、ついには進路を(ふさ)ぐように目の前に立った。
 うわ怖い、何か気に(さわ)ることをしたんだろうか、でもまだこの学校に来てからは入学式で居眠りしてただけだし、と脳みそをぐるぐるさせていると、「久しぶり」とでかい人がへらっと笑った。おそるおそる見上げた顔を五秒くらい見つめてようやく、僕は村瀬のことを思い出した。
 なんで同じ高校にいるんだ。あの夏の日は、一瞬すれ違って消えるだけの関係だから成立したんじゃなかったのか。
「わ、ごめん。ちゃんとお金は返すから」
 思わずそう言うと、村瀬は一瞬ぽかんとして、「返さなくていいって言ったじゃん」と体に見合ったでかい声で笑った。

 これが今年の四月までの話だ。四月から五月にかけては特になんということはない、同じクラスになって、たまに話して、それだけだ。僕は村瀬にとって、ただ同じクラスにいる人だったはずだ。
「ごめん、やっぱ今のなし。忘れて。何言ってんだ俺、本当ごめん」
 固まった僕を見て、村瀬は慌ててそう言った。
「え、あ、うん」
 じゃあ俺そろそろ戻るわ、と村瀬はせかせか教室を出ていってしまった。
 なんだったんだ、あれ。
 最初に思ったのは、たぶん罰ゲームなんじゃないかということだった。いや、でも村瀬ってそういう悪ふざけは好きじゃなさそう。どっちかというと嫌いそう。
 でもそうすると、あれが本気ということになってしまう。いやないでしょさすがに、と頭の中で()(くつ)な目をした僕が顔をひきつらせて笑う。村瀬が男が好きな人だとして、それでもこの世界全人口の約半分は男で、その中でわざわざ僕を選ぶ理由がなさすぎる。
 ないないといくら頭の中で唱えても、ホームルームの間も、下校途中も、家に帰って自室に引っ込んでも、思考はハムスターの回し車みたいに同じ場所を回り続けた。その回転は僕をどこにも連れ出してくれなかった。
 ベッドの上でカエルの死体みたいにあおむけに引っくり返っていると、部屋のドアが開いた。戸口に、母さんがやけに嬉しげな顔をして立っていた。なに、とたずねる声がいつもより荒っぽくなってしまったけど、母さんは気付かなかったみたいでにこにこしたまま言った。
「お母さん、夏にカナダ行くことになったの。新も行くでしょ?」
「は? カナダ? なんで」
「協会の支部がカナダに新しくできたの。そのお祝いも兼ねて、セミナーが開かれるのよ。新が子供の頃仲良くしてたご家族も、たくさん来るわよ」
 幼少期に何もわからないまま連れていかれた「セミナー」の記憶がよみがえってぞっとした。鳥肌の立った二の腕を、無意識の内にさする。
「行かない」
 母さんの上機嫌な顔が、すっと冷えて真顔になった。いつもならひるむところだけど、今の僕の頭は村瀬のことを考えるのに忙しくてそれどころじゃなかった。
「ほら、夏休み中も補習とかあるし。お土産(みやげ)楽しみにしてるから!」
 それだけ早口に言ってタオルケットをかぶった。母さんはまだ何か言っていたけれど、反応がないので諦めたのか「絶対行った方が新のためになるのに」という捨て台詞(ぜりふ)を残して行ってしまった。僕はタオルケットの中でじっとりとした汗をかきながら、ほっと息を吐いた。


 七月も半ばになると、教室にセミの鳴き声が波のように届いていた。
「はい、じゃーうちのクラスの出し物はおばけ屋敷に決定で」
 委員長が握った赤いチョークが、「おばけ屋敷」の文字の上に花丸を付ける。
 体育祭が終わったばかりの気がするのに、もう文化祭の話題だ。
 それにしても、おばけ屋敷とは。飲食よりはマシかもしれないけど、いかにも準備が面倒そうだ。夏休み中にいろいろやらないといけないのが目に見えてる。そうすると自然に、帰宅部でひまな奴(つまり僕とか)にシフトが多く割り振られることになる。
 そういえば、村瀬も帰宅部だった気がする。
 村瀬のでかい背中に目をやると、隣の席のギャルと「おばけ屋敷だってー、どんなのがいいかなあ?」ときゃっきゃと話していた。おいふざけんな。つかつか歩いていってその背を()りたくなる。人にわけわからんこと言っておいて、自分はギャルと盛り上がってんじゃないよ。
 あれから、村瀬とはろくに口をきいていない。というか、僕が避けていた。だって、どんな顔して話せばいいのかわからなすぎる。「やっぱなし」と言われたって、なかったことにできるわけがない。
「じゃ、田中君もそれで大丈夫?」
 委員長の声にはっと顔を上げると、クラス中の視線が僕に注がれていた。
「え?」
 聞き返すと、話聞いてなかったんかこいつという顔を隠しもせずに委員長が繰り返した。
「だから、文化祭実行委員。一人は村瀬くんに決まったんだけどね。そしたら村瀬くんが、ただのおばけ屋敷じゃありきたりだから、ゾンビをモチーフにしたらどうかって。それで、田中君ならゾンビに詳しいはずだから、実行委員一緒にやりたいんだって」
 弾かれるように村瀬に視線を向ける。久しぶりに目が合うと、村瀬は困ったように(まゆ)を下げて笑い、小さく手を振った。
「よろしく、新」

 僕は実行委員の立場を利用して巧妙に夏休み作業のシフトを組み上げ、村瀬とできるだけ同じ時間帯に入らないように画策した。他のメンバーの都合上どうしてもそうなってしまう場合は村瀬と親しいクラスメイトを投入し、なるべく話しかけられなさそうな状況を作り出した。僕のせこい作戦は一応功を奏し、二人きりになることはなかった。時々、ほかの生徒たちの間をかいくぐって届く視線を感じることがあったけど、作業に没頭してるふりをして顔を上げなかった。
 このままでいいわけないとはわかっていたけど、じゃあどうするべきなのかはわからなかった。「あれってなんだったの」とたずねて、「なんだっけそれ」とか言われたら立ち直れない。
 だけど結局、僕の浅知恵なんか最後までうまくいくはずもなかったのだ。
 最初はシフト通りに参加してくれていたクラスメイトの輪にも、日付が進むにつれてぽつぽつと穴が()くようになっていた。不自然なくらい体調不良者が続出したのだ。いかにもサボりそうな連中ならともかく、真面目(まじめ)な女子が「ほんとにしんどくて」と連絡してくれば信じるしかなかった。たとえそれが、その日に作業予定だった五人中三人から同じような内容が送られてきたとしても。
「ゾンビ病じゃね?」と誰かがふざけて言ったけど、あんまり笑える感じじゃなかった。この状況は、僕らのクラスに限った話ではなかったからだ。人数の少ない部活なんかは、欠席者多数で活動自体を停止しているらしいという話が伝わってきていた。発言した男子は皆の非難めいた視線に気付いたのか、しゅんとして黙ってしまった。別に彼は悪くない。バカバカしい話で、盛り下がった(ふん)()()をなんとかしてくれようとしただけだ。
 だってそうだろう。人がゾンビ化するなんて話、あり得ないと笑えなくてどうする。けれどゾンビ病を笑い話にするには、ほんの少し前に起きたパンデミックの記憶が生々しすぎた。すぐに収束するだろうと思われたわけのわからない病気はあっという間に世界を(おお)って、社会の仕組みまで変えてしまったのだから。とにかくゾンビ病にしろそれ以外の何かにしろ、数年前みたいなのがまた流行(はや)ったら、文化祭は中止になるかもしれない。せっせと準備してるゾンビ屋敷が無駄になってしまう。僕は学校行事に熱心な方じゃないけど、せっかく準備したなら予定通りやりたい。本番はクラスメイトたちがゾンビに(ふん)する予定で、本格的にやるんだとプロメイク志望の女子が張り切っていた。それはちょっと見たいのだ。
 状況に反して、新たな感染症の発生が報じられた様子はなかった。渡航制限もかかっておらず、母さんは予定通りカナダに旅立った。ゾンビ病の発生源が北米と噂されてるのが気にならなかったわけじゃないけど、母さんと病気について議論するのは数年前にこりていたから何も言わなかった。母さんはこれまで溜めに溜めていた有給を消化し、八月末まで帰らないらしい。ダイニングテーブルの上に、「お(そう)(ざい)つくっておいたから、変なもの食べないでね」という書置きと、「万一何かあった時にだけ使ってね」と三万円が置かれていた。冷凍庫にはパッキングされた種々のおかずが整然と並び、冷蔵庫には巨大なミートローフが鎮座していた。有機農法で育てられた健全な牛や豚、野菜がぎっしり詰め込まれた、母さんの得意料理だ。「新はこれが一番好きだもんね」と作るたびに母さんは微笑(ほほえ)むけど、僕はこれが好物だと言った覚えはない。
 ミートローフは食べなかった。母さんがいない時にまで「体にも環境にも配慮した食品」をちまちまかじるのは負けのような気がした。何に負けるのかは知らないけど。
 代わりに僕は三万円を持って()()(ようよう)々とスーパーに向かい、セルフレジにまごつきながらカップ麺や惣菜、スナック菓子を買い込んだ。母さんお気に入りの有機農法の米に油がギトついたトンカツをのせ、オーガニックパスタには激安投げ売りカルボナーラソースをぶっかけて食べた。シンプルで野菜が映えるという協会(きん)(せい)の皿は、急にそんなものを盛りつけられて目を白黒させていたけど、知ったことではなかった。
 めちゃくちゃな食事をすればするほど、母さんのことも、村瀬のことも頭の中から塗りつぶせる気がした。でも塗りつぶせば塗りつぶしただけ、その下にある何かを意識しないわけにはいかなかった。
 油っぽいげっぷで、喉が鳴った。バレたら母さんは怒るだろうし(というか金が減ってるので確実にバレる)、慣れない食事に腹を下したりしたけれど、僕は自分を止められなかった。冷蔵庫の中のミートローフは、そんな僕を冷ややかに見つめていた。

 残念なことにというかやっぱりというか、八月三十一日の教室に姿を見せたのは、僕と村瀬の二人だけだった。
「これ、文化祭できんのかな」
 何割かは体調不良の人に便乗したサボりでしょ、と村瀬は能天気に言った。
「あとは看板だけで完成だし。もう行かなくても大丈夫って思ったんじゃない?」
 男子はまあそうかもしれないけど、女子は違う気がする。村瀬はこの顔と性格なので、当然のようにモテる。その村瀬が実行委員で、しかも最終日にサボったりするだろうか。
 とにかく、文化祭中止がアナウンスされていない限りは準備を終えないといけない。作りかけの看板を引っ張り出していると、村瀬がおずおずと言った。
「ところでなんだけどまだ、怒ってる?」
 村瀬は体育祭の日のことを、なかったことにするつもりはないらしい。からかわれたわけじゃなかったことへの(あん)()と、じゃあどうするんだという不安が、汗になって首筋に浮かんだ。
「まだっていうか、最初から怒ってないけど」
「でも、俺のこと避けてたじゃん」
「それはさあ、だって」
 僕は刷毛(はけ)を赤いペンキの中にどぷんと沈めた。はずみで、ジャージに赤い染みが飛ぶ。あーあ、と村瀬が笑った。
 むっとしてそのイケメン(づら)(にら)んだ。
「笑うなよ。そもそもお前が急にあんなこと言い出すからだろ」
「ええー。そりゃ気分悪くさせて悪かったけど、これも俺のせい?」
「気分悪くってなんだよ。僕がいつそんなこと言った?」
 そう答えて気が付く。僕は驚いたり慌てたりしていたけど、そういえば嫌だとは思っていなかった。それってつまり、なんだ?
「え?」
 村瀬が手を止め、僕の方を見る。「え?」とききたいのは僕の方だ。
「意味がわかんないんだよ、お前」
「わかんないって、何がわかんないの」
「最初からだよ。会った日に変なとこ連れてって、あげく今度はなんだよ」
 村瀬は唇を引き結んで黙った。
 そういえば、あのオープンキャンパスの日のことを口に出したのは初めてだった。あの夏の日はずっとほったらかしにされていて、とっくに()からびてるかと思ったけど、そうじゃなかったみたいだ。今、目の前の村瀬の顔を見て、もしかしてこいつはずっとあの日のことについて話したかったんじゃないかという気がした。
 あのさ、と村瀬が口を開く。
「明日、始業式の後ってひま?」
ひまだけど、それがなに」
 村瀬はカッターで解体していたダンボールを置き、薄く笑いながら言った。
「もっかい、付き合ってくれる? 一緒に行ってほしい場所があるんだ」
村瀬はそう言うと床に投げてあったビニール袋をまさぐり、真ん中で割って分け合うタイプのアイスを取り出した。すでに溶けかけたソーダ味のそれを二つに割り、片割れを差し出す。
「明日だけついてきてくれたら、もう余計なこと言わないし、しないから」
 僕は息を吐き出した。冷房の効いた教室内で、僕の吐息ばかりが(なま)(ぬる)かった。
「お前ってさあ、交換条件じゃなきゃ僕が何にもしないって思ってんの? 普通に頼めよ。僕たちって」
 一応友達なんじゃないの、と言おうとして言葉が喉に詰まった。詰まったそれを飲み下そうとソーダアイスを引ったくって一口かじると、甘さよりも先に冷たさがキンと脳天を刺した。
「久しぶりに食うとうまいよね、これ」
「僕は初めて食べた」
 村瀬が笑おうとして、やめた気配があった。一年前に僕が話したことを思い出したんだろう。別に笑ってくれたっていいのに。僕だって笑いたいくらいだから。
 子供の頃、これと同じようなソーダアイスを、スーパーの店先で聞き分けなくねだったことを思い出す。母さんは怒って、『あれは毒だって言ってるでしょ』と僕を(しか)った。子供の僕がよほどしつこかったんだろう、『そんなもの食べて、死んじゃっても知らないんだから』とも言った。
 母さんが毒だと言ったソーダ味が、舌の上で消えていく。この一か月で腹に詰め込んだ毒物すべてを包むように、冷たさが胃に染みわたる。このアイスが本当に毒で、僕を殺すなら、いっそそれでもいい気がした。殺してみろとさえ思った。
 アイスの棒を前歯で強く()んだ。みしりと音がして、薄い板が歯の下でひしゃげる感覚があった。棒を口から出すと、歯型が付いていた。「あたり」という印字が、歯型で潰れている。僕はそれを、ゴミ箱に投げた。
「どこでも付き合うから、食い終わったら、さっさと看板終わらせよう」
 村瀬はアイスをくわえたまま(うなず)いた。その拍子に水色の(しずく)が垂れ落ちて、村瀬のジャージに薄青い染みをつくった。
その後、僕らは(わく)()りされた文字の中を黙々と赤く塗りつぶしていった。黒い看板の中央に、『ZOMBIE LAND』という赤文字が浮かび上がる。僕と村瀬は余った赤ペンキの中に手を突っ込み、文字のまわりを飾るように手形を押しまくった。
「よっしゃ、完成」
 僕らはできあがったばかりのダンボール製看板を眺めた。チープな出来だけど、ひと夏の成果のエンドマークには違いない。その後何度手を洗っても爪の中に入り込んだ赤色は落ちなくて、手はペンキ(くさ)いままだったけど、満足だった。
 文化祭は、一週間後に迫っていた。

 八月が終わるのに、母さんは帰ってこなかった。飛行機でも遅れてるんだろうか。スマホも固定電話もないので確認しようがないけれど、一日の遅れくらい、わざわざ公衆電話を探すほどのことじゃないだろう。
 一か月で冷蔵庫の主と化したミートローフは、すっかり駄目になっていた。
 でも、燃えるゴミの日は明後日だ。それならまあ、明日帰ってから処分すればいいか。すぐに捨てた方がいいに決まってるのに、どこかで腐ったミートローフを母さんに見せつけてやりたい気もしていた。
 考えるのが面倒になって、僕は青黒く変色した肉を封じ込めるように、冷蔵庫の扉を閉めた。

 始業式を迎えた教室は、空席が目立った。担任は、悪い(なつ)()()が流行っているらしいと言った。本当に風邪なら、いくらなんでもたちが悪すぎる。それでも文化祭は開催されるらしい。徹底的に無視すれば、謎の体調不良者なんて最初からいなかったことになるとでも信じてるんだろうか。
 だけどこれで、夏中ペンキの(にお)いをかぎ続けたのが無駄にならなくて済んだ。
 放課後、約束どおり村瀬と駅に向かった。また例のマンションに向かうのかと思ったけれど、村瀬はそれとは反対方向の電車に乗り込んだ。
 道中、村瀬は自分の家に起こったことをぽつぽつと話し出した。
 大学生の姉がホストにはまり、代金を支払いきれなくなって家のお金に手をつけたこと。激怒した父親と口論になり、頭に血の上った姉が父親が何年も前から()(りん)していたことを写真と共に暴露したこと。そして、村瀬の家から父も姉も出ていったこと。
「いくらだと思う? 姉ちゃんが使ったの」
 ホストクラブがどれくらいの支払いを求めるものなのかわからず、僕は首を横に振った。村瀬は無言で指を三本立てた。
「さん、じゅうまん?」
「ハズレ。三百万」
 村瀬は歌うように答えた。
「それは、すごい」
 僕はそんなバカみたいなことしか言えなかったけど、村瀬は「そう。姉ちゃん、すごかったんだ」と笑った。
「こんなことになる前は、おとなしくて真面目な人だったんだけどね」
 親の言うこととか何でも聞いて、と村瀬はつぶやいた。
 一年前に見た、村瀬の姉貴の姿を思い出す。言葉では村瀬を拒絶していたけれど、クマに(ふち)どられた目は泣きそうにも見えた。
「あのさ。何も知らないくせにって思うかもしれないけど村瀬の姉貴の気持ち、わからなくはないかも」
 村瀬が驚いたような顔をして、吊り革にぶら下がったまま僕の顔を(のぞ)き込んだ。
「似たようなこと、僕もしたことあるから。金額は、村瀬の姉貴に比べたらみみっちいんだけどさ」
 今言葉を切れば、それこそ死ぬまで誰にも言えない気がして、息を吸った。
 なんだ、僕も誰かに話したかったのか。ちょっと笑えてしまって、吸った息を一息に吐き出した。
「僕、スマホ持ってないだろ。中学の途中で取り上げられたんだ。母さんのカード使って、ソシャゲに課金したせいで。二十万くらいだったかな。あの時は自分でも、なんでそんなことしたのかわかんなかった」
 思い出してみれば、わからないことなんて一つもない。
 あの頃、家からテレビが消えて、父さんが残したゾンビ映画は再生できなくなった。
 父さんが出ていく前から、母さんは『自然』という言葉にこだわる人だった。僕が物心つく頃には熱心に「セミナー」に通っていて、どれだけ仕事が忙しくてもオーガニック食品だけを使った(てい)(ねい)な料理を食卓に並べた。それでも僕が小さい頃には一通りの電化製品はあったのだけど、父さんがいなくなってたがが外れた。電子レンジもテレビも電話もドライヤーも、人体に毒だからと言って捨てた。どうしても必要なスマホや冷蔵庫には、電磁波を最大限除去するという奇妙なステッカーを貼っていた。その辺のコンビニやスーパーで売ってるものは体に毒だから、決して口にしてはいけないと言い含められた。いつのまにか小遣いもなくなった。無知な僕が買い食いなんかして、万が一にも体に毒を入れないように。
 僕はたぶん、息ができなかった。だから風穴を開けたかった。
「別にそのゲームにめちゃくちゃはまってたわけでも、絶対にほしいキャラがいたわけでもなかったんだよ。ただなんとなくガシャ回したい気分かも、くらいだった。だけど僕は実際に二十万使って、母さんは当たり前に怒って、スマホは取り上げられた」
 でも、言ってしまえばそれだけだった。なんにも壊れなかった。村瀬の家とは違って、僕と母さんは何も起こらなかったような顔をして暮らし続けている。村瀬の姉貴みたいに、百万単位で使ってみせたら何か違ったんだろうか? そうしたら、どうして父さんが出て行ったのかとか、給食の時間に僕が一人手作り弁当を広げるたびに皆がどんな顔をしていたかとか、母さんに少しは考えさせることができたんだろうか?
「村瀬の話聞いて、もしかしたらお姉さんはホストに入れあげてる自分の状況とか、お父さんのこと一人で黙ってるのとか、限界になっちゃったのかもって思った。だから全部ぶち壊れてほしくて、そんなことしたのかもって」
 村瀬はぱちぱちと目を瞬かせた。そのたびに、まつげに乗っかった陽光が散った。
「新もそうだったの?」
 あの時自覚してたわけじゃないけど、と言った途端に電車は地下に入り、陽の光は消えた。
「そうだったのかもね」
 二十万ぽっちじゃ何にも壊せなかったけど、と僕は引き笑いをした。
 村瀬は何も言わず黙って暗い(しゃ)(そう)を見ていたけど、急に「じゃあさ」と口を開き、にっと笑った。
「ちょうどよかったかも。俺今から、ぶっ壊しに行こうと思ってたから。二人でさ、全部ぶち壊そうよ」
 村瀬がやけに楽しそうに笑うので、僕も「わかった。ぶっ壊そう」と頷いてしまった。


「困るんだよねえ。君らどう見ても十八歳以下じゃん」
 せめて制服着替えてくるくらいしてくんないとさ、こっちも見過ごせないわけ、と店先に立ちふさがった男は芝居がかったため息を吐いた。
 男はなぜか制帽をかぶり、警官の制服みたいなものを着ていた。どう見てもすぐそこの激安量販店で買ってきたぜという感じのペラペラコスプレ衣装だ。そういえば、店先に『本日コスプレDAY!!』と書かれていたような気がしなくもない。
 男の頭上で、ミラーボールがぐるぐる回って光をまき散らす。香水の(にお)いがきつくて、頭がくらくらした。薄青い照明に包まれた店内で、どう見ても僕らは場違いだった。
「悪いこと言わないからさ、怖い人来る前に帰んなよ」
 偽警官の言葉に従ってすぐにでも帰りたかったけど、僕の前で()(おう)()ちになった村瀬は腰のあたりをつっついても、ちっとも動かなかった。
「村瀬(はる)()、来てないですか」
 偽警官はその名を聞くと「なんだ、お前ハルさんの弟かなんか?」と手の中でおもちゃのピストルを器用にくるくる回してみせた。
「今いないよ。さっき来てたけど、亨哉に追い返されてた。イベント日だけど、これ以上掛けつくらせたら飛びそうだからしゃーなしよ」
「その、亨哉って人はいるんですか」
 いるよ、と偽警官はすっと体を斜めにして店内が見えるようにした。あそこ、と指差された先にいたのは、顔面に大きな傷(たぶん適当なシールかなにか)がある金髪の男だった。顔はよく覚えてないけど、去年村瀬の姉貴の部屋にいた人だろう。首筋には()(のり)もべったりと付着している。まさかあれでゾンビのつもりなんだろうか。ひどすぎる、絶対僕たちのゾンビランドのがまだしもクオリティ高いと(ふん)(がい)していると、村瀬が店の中に進んでいこうとした。
 ちょーっと困るって、と偽警官が村瀬の腕をつかんだ。なあもう帰ろうって、と村瀬のワイシャツを引っ張ろうとしたが、村瀬が急に腰を折って頭を下げたので、僕の手は空をつかんだ。
「すいません。姉が迷惑かけました。今日は、代わりに金返しに来たんです」
「え? そうなの?」
 偽警官がどうしようかと迷うように店の奥に目をやる。その視線の先、ゾンビ男と目が合った。さっさと追い返せというように、しっしっと手を振っている。客の手前、派手には動けないんだろう。「なに、あの子たちー」という女の人の甘えた声が聞こえてくる。
「別に、通したらいいじゃん。ハルちゃんの掛け返してくれるんでしょ?」
 バーカウンターの奥から、今度はヴァンパイアがぬっと姿を現した。その人の衣装だけやけにしっかりした生地で、薄暗い照明の下でも激安量販店産ではないとわかった。カラコンで赤く染まった瞳には妙な力がこもっていて、目を合わせたら石にでもされそうな気がした。
「亨哉の姫にミズキつけて。少年たち、五分だけ見ないふりしてやるよ。その間に終わらしな」
 まずいっすよ、と偽警官はなおも言いつのっていたけれど、「だって面白そうだし」とヴァンパイア男は()(えん)を吐き出した。
「亨哉じゃどうせハルちゃんから回収しきれねえよ。弟くんが肩代わりしてくれるんなら、有り難い話じゃん」
 ありがとうございます、と腰を直角に折り続けていた村瀬がようやく顔を上げた。
「いーよ別に。金払ってくれりゃなんだって」
 偽警官は困惑しながらも道を開けた。村瀬は迷うことなくずんずん進んでいく。一人で扉の前に突っ立っているのも嫌なので、仕方なく後を追った。店内に散ったコスプレモンスターホストと客の女の人たちが、何が始まるのかと下世話な期待に満ちた目を向けてくる。
 村瀬のでかい背中が、金髪ゾンビもどきの前で止まった。またお友達連れてきたのかよ、とゾンビはからかうように言ったけど、村瀬は反応しなかった。
「んだよ。金あんなら、今日ハルに持たしてくれりゃよかったじゃん?」
 村瀬は何も言わず、身じろぎもせずにただ男の前に突っ立っていた。そんな村瀬の態度にいら立ったのか、男の声のトーンが一段跳ね上がる。
「その目、なんだっつんだよ。借りた金は返すのが当たり前だろ。覚悟キメて()(かせ)ぎ行きゃ、返せない額じゃないわけ。なのにあいつ無理とかできないとか、やる前からぬるいことばっか言ってよ。そんで未成年の弟に尻ぬぐいさせるとか、最低の女だな」
 村瀬がいつキレるかとハラハラしたけど、ふうっと深く息を吐き出しただけだった。
「それで、いくらですか?」
 さんびゃくまーん、とゾンビ男はおどけて言った。
 すると村瀬はバックパックを背から下ろし、中に手を突っ込んだ。まさか、と思う間もなく、再び現れた村瀬の手には札束が三つ握られていた。ゾンビ男の目が見開かれ、傷口のシールが顔の上で伸びた。
「三百万、きっちりあります」
 確認してください、と村瀬は札束をゾンビもどきに差し出した。
「お前、この金どうしたんだよ。やばい金じゃねえだろな」
 ホストでもそういうの気にするんだ、と思ったけどもちろん口には出さなかった。
「祖母が用意しました。母親には口止めされてたんですけど、俺が口すべらして。金で解決できるもんなら、さっさとどうにかしてこいと」
 ゾンビ男は「バカじゃねえの、身内なんか最初に使えよ」と吐き捨てた。その手が札束ひったくろうとした瞬間、村瀬は帯を破って札束を宙に放った。一万円札が舞い、ミラーボールの光を受けてきらきら光る。ゾンビ男は、(ほう)けた顔で万札が散っていくのを見ていた。ホストと客たちが歓声を上げる。声援に応えるように、村瀬は二束目、三束目、と同じように札を放り投げた。(はな)吹雪(ふぶき)みたいに札が舞うたびに、店内に口笛が鳴った。
 札が全部床に着地してから、ゾンビ男はようやく我に返ったのか、村瀬の胸倉をつかんだ。
「姉弟揃って、なめた真似(まね)してくれやがってよ!」
 店内に怒号が響いたけれど、他のホストたちはにやにや笑って「掛け回収できてよかったじゃ~ん。弟くんに感謝しなよ」「拾わねえなら俺らがもらうけど?」とはやし立てた。客は客で「亨哉いらないみたいだし、このお金で飾りいれたげる」「なにやってんの? 早く金無し女の借金片して卓戻れよ」と盛り上がっていた。
 周りが一緒に怒ってくれなくて余計に腹を立てたのか、ゾンビホストは腕を振り上げた。指にはごつい指輪がいくつもはまっていて、(なぐ)られたら鼻の骨がいかれそうだった。それなのに村瀬は最初から覚悟してたみたいに、逃げようともしないで目を閉じた。
 僕はとっさに、テーブルに置かれた(さか)(びん)を手に取った。瓶は宝石みたいに(せん)(さい)にカットされていて、振り上げると店の青い照明を反射してぎらぎら光った。
 思いっきりゾンビ男の頭に振り下ろしたつもりだったのに、瓶は映画でよく見るみたいに割れたりはせず、ただ「ごん」と鈍い音がした。二、三拍の沈黙の後、ヴァンパイアの人が弾けるように笑い出した。つられるように、店中の()()(もう)(りょう)たちが爆笑する。あちこちでグラスが鳴り、しまいに誰かがシャンパンを入れたらしくてコールが始まった。
 ひとり頭を押さえたゾンビ男だけが、血走った目をしてこっちを見た。
「村瀬! 逃げよう!」
 僕は酒瓶を床に放り投げ、村瀬の手を引いた。なんかこの展開()()(かん)あるなと思った瞬間、追ってこようとしたゾンビホストが床に散乱した札束に滑ってこけた。
 女の人たちがのけぞり、高い声で笑う。その間に、ヴァンパイアの人が出入り口まで引っ張っていってくれた。
「わりいね。亨哉、ちょっとやり方やばくねって上と話してたとこだったんだわ。いや、笑えたわ」
 ヴァンパイアホストが(あご)をしゃくると、ありがとうございましたー、またのご来店をー、と偽警官が扉を開いた。
「次は十八んなってから来てね~」
 来るわけねえだろ、と村瀬が()えると偽警官は笑いながら敬礼した。
 エレベーターを待つのももどかしく、僕たちは二段とばしで階段を一気に駆け下りた。そのまま、通りを走り抜ける。ちんたら歩く人ばかりの道を、僕ら二人は全力で駆けた。
 なんだか無性に笑いたくなったけど、村瀬に悪いと思って我慢していたのに、先を走る村瀬からうめくような笑い声が聞こえてきた。とうとう耐えられなくなって、僕も声を上げて笑った。道行く人々が、うろんな目を僕らに向ける。だけど笑いはおさまらなかった。
「なあ! さっきの金ってほんとにばあちゃんがくれたのかよ!」
「本当だって! 親父(おやじ)と姉貴のこと、()()()()しゃべったらばあちゃん怒り散らしてた! バカに金使う姉ちゃんも、不倫した親父も隠そうとした母さんも、言われたとおり黙ってる俺も、みーんなドアホだってさ!」
 村瀬がいっそう高い声で笑う。
「ばあちゃん、金持ちかよ!」
「そう! 俺んち金持ちだから!」
「イケメンで性格も運動神経もよくて家は金持ちかよ! 最悪だな!」
「そんなにほめられると照れる!」
 足を止めない村瀬の背中で、ほとんど(から)っぽのバックパックが揺れる。
 息もきれぎれに、酸素の少ない脳で叫んだ。
「お姉さん、自由に、なったかな!?」
「知らねー! これでなんないなら、もう好きにしてくれ!」
 とっくに好きにしてたか、と村瀬は暮れていく日に(つば)を吐きかけるようにもう一度笑った。
 歓楽街を抜けて駅前に戻り、村瀬はようやくゆるゆると減速して走るのをやめた。澄ました顔で行き交う人たちの中で僕らだけが大汗をかき、ひいひいふうふうバカみたいな音を立てて呼吸を整えた。笑えるやら苦しいやらで立っていられなくなって、ガードレールに並んでもたれた。
 何の気なしに見上げた駅前広場のスクリーンでは、公益法人のCMが繰り返し流れていた。感染症再流行の(きざ)しが見えます、皆さん手洗いうがいとマスクの着用をこころがけましょう。感染症再流行の──
 道行く人の顔には、ぽつぽつとマスクが見えるだけだ。放送は(むな)しく続いている。
 村瀬はバックパックからスポーツドリンクを取り出すと、(のど)を鳴らして飲んだ。一息に飲み終えてしまいそうだったけど、そうなる前に「ん」と残りを僕に差し出した。間接キスじゃんねと思ったけど、言い出すのも気恥ずかしくて口をつけた。飲みなれない人工甘味料の甘みとかすかなえぐみが、ぬるく喉を通り抜けていく。
 ペットボトルが空になると、村瀬はそれを僕の手から回収し「あのさ」と口を開いた。
「新からしたらバカみたいに思えるかもしれないけどさ。去年と、あとさっきもだけど、何にも言わないでついてきてくれて、ほんとに助かったの」
 うん、と僕はガードレールの上に座ってぶらぶらと足を揺らした。
「去年はさ、この人ならたぶん二度と会わないだろうし、いいかなって思ったんだ。恥ずかしいこと見られても」
 ごめん、と村瀬は空のペットボトルで意味もなくガードレールを叩いた。音を立ててガードレールは鳴いたけど、通行人は誰も僕らを見なかった。
「うん。そうだろうなと思ってた」
 村瀬は驚いたように僕を見た。
「だって、僕も同じだったから。もう会わないと思ったから、母さんが変なこととか、父さんが出てったこととか話した。そうじゃなきゃ、言わないだろ」
 なんだ、と村瀬は空を(あお)いだ。
「同じだったのかあ」
「そうだよ」
 そうかあ、と村瀬は繰り返して、顔を僕に向けた。
「でも、今年は違うよ。新についてきてほしかったんだ」
 僕は村瀬の顔を見た。夕暮れなことを差し引いても、顔がやけに赤い。
「こないだ、やっぱなしって言ったの、なしにしてもいい?」
「なんだそれ」
「だってもう俺、わかっちゃったから。キスしなくても、わかったんだ」
 僕らの前を、たくさんの人の足が通り過ぎていく。日に焼けた首元が、ちりちりと痛んだ。
「お前、趣味、(わる)。人間はこんなにたくさんいるのに」
「そうでもないと思うよ」
 周囲のビルに、ネオンが灯り出す。空気はねっとりと暑いままのくせに、辺りには夏が傾き出す気配が漂い始めていた。
 わかってほしいとは言わないけど、と村瀬は立ち上がった。
「できれば、友達のままではいてほしいかな」
 勝手言ってごめん、と村瀬は歩き出して、そのまま雑踏に吸い込まれていった。

 いや僕まだいいとも悪いともなんとも返事してないじゃん、なんで一人で勝手に完結して帰ってんだよ、と家のドアを(ふん)(ぜん)と開くと妙な(にお)いが鼻をついた。かすかに甘いようなすっぱいような。臭いの正体に思い至る前に、玄関にスーツケースを見つける。母さんがやっと帰国したらしい。出しっぱなしなんて()(ちょう)(めん)な母さんらしくないなと思ったのも(つか)()(きも)が冷えた。まずい。腐れミートローフを捨ててない。見せつけてやりたいなんて思ってたくせに、いざ現実になりかけるとやっぱり焦る。
 おそるおそる寝室を(のぞ)くと、母さんは着替えもせずにベッドに横たわっていた。どうやら帰ってすぐに眠ってしまったらしい。僕はほっと息を吐いた。この様子なら、まだ冷蔵庫の中を確認したりはしてなさそうだ。
 安心すると、部屋に充満する変な臭いに気が付いた。さっき玄関で()いだ臭いを煮詰めたような、臭いの元がこの部屋の中にあるような。母さんがカナダで奇怪で奇抜な健康法でも(じっ)(せん)してきたのかもしれない。以前にも「セミナー」で腐ってるとしか思えない草や泥を全身に塗りたくり、悪臭を放ちながら帰宅したことがあった。
 静かな寝息が聞こえてきたので声はかけず、臭いを遠ざけるようにドアを閉めた。足音を忍ばせてキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、()えた臭いが流れ出た。母さんの部屋に漂っていたのと同じ臭いだ。この調子じゃあ、家中が臭くてたまらなくなってしまう。ミートローフを取り出し、ビニール袋に移してきつく口を(しば)った。
 それでこれをどうしよう。家のゴミ箱に捨てたら、どうせ見つかる。庭にでも埋めるか、とビニール袋をぶらぶらさせながら玄関に向かうと、「新」と背後で声がした。びくっと肩を震わせて振り返ると、青い顔をした母さんが壁に寄りかかって立っていた。
「どこ行くの?」
 あ、起きたの、おかえり母さん、と僕は白々しい笑みを浮かべた。
「いや、ちょっと、帰り道で子猫が車に()かれてるの見つけちゃって庭に埋めてやろうかなと」
 よくもそんな大嘘が吐けるもんだ、と我ながら感心してしまう。猫の死体なんか拾ってこないでよと怒られるかと思ったが、母さんは「新は優しいわねえ」と青い顔のまま笑った。
「でももう暗いし、明日にしなさい。こんな夜中に庭を掘り返してたら、ご近所に変に思われるわよ」
 庭をびしょ濡れにしながら(せん)(たく)(おけ)で服を洗ったり、奇怪な植物の根をベランダに干したりしてるから、たぶんとっくに隣人からは変に思われてるけど、そんなことを母さんに言っても仕方ない。
 うん、そうだよね、明日にする、と僕は引きつった笑みを浮かべて「子猫」入りビニール袋を玄関に置いた。
「そんなとこに置いておいたら駄目よ。暑いから、傷まないように冷蔵庫入れといてあげなさい。そろそろ冷蔵庫も手放すタイミングだと思ってたところだから、汚れてもいいわよ」
 カナダのセミナーでご一緒した方たちは、皆もう冷蔵庫なしの暮らしを実践してるんだって、と母さんは付け加えた。
 わかった、と僕は「子猫」を抱え上げた。とうとう冷蔵庫もいなくなるのか。まあ、時間の問題だとは思っていた。嘘がばれなかったから、よしとするか。
 自分の吐いた嘘なのに、適当に持つのは()(わい)(そう)な気がしてきて、僕は冷たい猫ミートローフを胸に抱いて冷蔵庫にそっと戻した。
 (ろう)()を覗くと、母さんがよろよろと自室に戻るところだった。
「母さん。なんか、疲れてる?」
「そうね。海外が久しぶりだったからかな」
 母さんの顔色は旅行疲れどころじゃなさそうに見えたけど、それは禁句だ。母さんの属している団体は(かん)(ぺき)に健康的な生活をしているので、大きく体調を崩したり、深刻な病気にかかったりすることはあり得ないとされている。
 僕は黙って、寝室に引っ込む背中を見送った。
 腐れ猫ミートローフは、明日の朝母さんが起きてくる前に埋めることにしよう。
 目覚ましを四時にセットしてベッドで目を閉じたけれど、眠りはなかなかやって来なかった。早起きする分早く寝なくちゃと思うのに、目をつぶると出会ってから今日までの村瀬の姿が、言葉が、頭の中にバラバラと降って、その映像や音声がうるさくてしょうがなかった。うるさい黙れと頭の中の村瀬に怒鳴っても、ちっとも言うことを聞きやしなかった。

 アラーム音で目を覚ますと、頭が重かった。まさかと思って熱を測ると、三十八度五分あった。考え事をしすぎて、知恵熱が出たらしい。
 体温計に表示された温度を見て、ほっとしてしまった。これで学校を休む理由ができた。少なくとも今日はまだ、村瀬と顔を合わせずに済む。考える時間がほしかった。村瀬はもう終わらせたつもりになってるから、そうしたくないなら僕から何か言わなくちゃいけない。でも、何を? ていうかなんで僕が、村瀬が始めたことなのに、とぼやけた視界で天井を(にら)んだ。
 そうだ、とりあえずミートローフを埋めなくちゃ。
 ベッドの上で体を起こそうとすると、ぐらりと視界が揺れた。僕の体はバランスを崩し、ベッドボードに頭をぶつけて転がった。吐き気が食道を()い上ってきて、もう一度起き上がろうという気力を奪っていった。
 知恵熱にしては、ちょっと大げさすぎやしないか。
 目の中で天井が回り始める。もしかしてこれって、結構まずいかもしれない。キッチンに行かなくちゃ、肉を埋めなくちゃと思いながらも、僕のまぶたは強制的に引き下ろされていった。
 気絶か眠りか(あい)(まい)なそれを繰り返し、(りん)(かく)のぼやけた夢を見た。冷蔵庫の中でミートローフが本物の猫に変わっていて、ここから出してほしいとにゃあにゃあ鳴いている夢。なぜか大きく育ちすぎて、冷蔵庫の中でみちみちに詰まってしまうのだ。助け出そうと扉を開けると、人くらい大きくなった猫が(おお)いかぶさってきて、がぶりと僕の肩を()んだ。

 再び目を覚ました時には、部屋の中は暗かった。
 冷えた汗に、ぶるりと体を震わせる。
 おそるおそる体を起こしてみても、気分は悪くなかった。もう熱はすっかり下がったらしい。ひどく腹が減っていた。(もう)(ろう)とした意識のまま、キッチンまで這っていって、レトルトの(かゆ)を温めずにそのまま吸ったような記憶はあった。でもそれがいつのことなのか、熱を出してからどれくらい経っているのかもわからなかった。部屋が明るくなったり暗くなったりしていた気がするから、少なくとも数日は過ぎているだろう。
 外から町内放送が聞こえてくる。いつもの、行方(ゆくえ)不明の高齢者を探している時とは(こわ)()が違った。ボリュームが大きすぎるせいで、放送はこの世の終わりを引き連れてきた化け物の声そのものみたいにうなっていた。たぶん、この音で起こされたのだ。
 何をわめいてるんだと耳を澄ますと、かろうじて「外に出るな、戸締まりを厳重にしろ」と繰り返していることがわかった。
 僕が寝ている間にいったい何が起こったんだろう。文化祭はどうなった? 村瀬の顔が(のう)()に浮かぶと、なんだかすでに懐かしいような気がした。
 そうだ、文化祭も村瀬も問題だけど、ミートローフだ。
 慌ててベッドから降りようとしたその時、救急車のサイレンが通りを走り抜け、暗い部屋を赤色灯が照らし出した。
 そういえば、母さんはどうしてるんだろう。この妙な状況でも僕を起こしにこないということは、僕と同じようにダウンしてるんだろうか。
 その時、ごとん、とドアの向こうで何か重いものが落ちるような音がした。
「母さん?」
 返事はなかった。どん、どん、と物音はキッチンの方へ向かっていった。
 そしてまた、静かになった。
 母さんの足音にしては、何かが変だった。まるで、体の操縦に不慣れな化け物が、なんとか足に言うことを聞かせて歩いてるみたいな音に聞こえた。
 そう、たとえば──ゾンビとか。
 なに考えてるんだ、(いん)(ぼう)(ろん)に毒されすぎだと自分の思い付きを笑いながら、僕は首筋にうっすらと汗をかいていた。
 ごとん、とキッチンから何か重量のあるものが落ちる音がした。
 たまらなくなって、よせばいいのに僕は自室のドアを開けた。母さんの部屋のドアが開いていた。おそるおそる中を覗き込むと、ベッドはもぬけの(から)だった。窓辺ではためくカーテンの向こうで、町内放送ががなりたてている。外出は避けて、戸締まりの徹底を──
 僕は慌てて窓をぴしゃりと閉めた。放送の声が遠くなる。
 なんとなくそうしなくてはいけない気がして、足音を殺してキッチンに向かった。
 キッチンはほの明るかった。開いたままになった冷蔵庫から、光が()れていた。
 その真ん前に、母さんがぺたりと座り込んでいる。
 ピーピーと、冷蔵庫が開きっぱなしを知らせる電子音を鳴らし続けていた。まるで、子猫が母親を探して鳴くみたいに。けれど母さんはそんな音など耳に入らないかのように、何かの(かたまり)を抱えて食べていた。僕には幼い頃から口うるさく(ぎょう)()(しつ)けたくせに、ぺちゃぺちゃと下品な音を立て髪を振り乱し、一心不乱に口に運んでいた。
 あれは、ミートローフだ。僕が腐らせて捨てそこなったミートローフを、母さんが手で引きちぎって口に運んでいる。
 僕はおかしくなってしまったんだろうか。ずっと母さんは頭が変なんだと思っていたけど、本当は、僕の方こそ?
 だってこんなの、現実とは思えない。
 昨日、村瀬と並んで眺めていた(しん)宿(じゅく)の雑踏が懐かしかった。なんならあの香水くさいホストクラブだっていい、ここじゃないどこかへ行きたかった。
 父さん、と僕は口の中でつぶやいた。
 父さんはこんな日がいずれ来ることを知っていたんだろうか。知っていて、あのDVDで僕に予習しろとでもいうことだったんだろうか?
 ちぎるのがもどかしくなったみたいで、母さんは(にく)(かい)を抱えて直接かぶりついた。
 僕はなんだか笑ってしまった。ぜんぜん笑っている場合じゃないのに。
「こう」なっても、母さんにとっては肉といえば農薬不使用で育てた牧草だけを()んだ牛や豚の肉なのだ。「こう」なった人が真っ先に手を伸ばすべき「肉」は、ここにこうして立っているのに。
 その時、ピンポーン、とやけにまのびした音でインターホンが鳴った。
 音に反応したのか、母さんが不意に振り返った。
 目と目が、宙でかち合う。
 母さんの顔はすでに崩れ始めていた。あのゾンビもどきのホストなんかと比べ物にならないリアルさで、もう少しウソっぽかったらよかったと思えるくらいだった。
 つまり、本物以外の何物でもなかった。
 母さんはむさぼっていたミートローフを取り落とすと、僕の方に向かって赤ちゃんみたいに這ってきた。
 ぼうっと眺めていると、母さんの手が伸び、僕の足首をつかもうとした。
 一歩後ずさると、ダイニングセットの()()が鳴った。
「母さん、ごめん。もっと早くに言うべきだったんだ。僕は母さんのやり方には付き合えない。母さんは母さんのしたいようにしたらいいけど、僕は僕でやってくよ」
 母さんが僕の言葉に怒ったかのように立ち上がり、覆いかぶさってこようとするのを避ける。
「母さん、元気で。たぶんあんまり好き嫌いしない方が、生き残れると思うよ」
 もう一度、インターホンが鳴った。
 何度も何度も、連続して鳴らされる。
 母さんをキッチンに残し、玄関へ走った。
 インターホンのチャイムと、ドアを叩く音が響いている。その()かすような音には、聞き覚えがあった。去年の夏の日に、あの静かすぎるマンションの廊下で聞いた。
 迷いなくチェーンを外し、(かぎ)を開ける。
「新!」
 そこにあった顔を見て、腰を抜かしそうになった。その整った顔に、「母さん」に負けず劣らずリアルな傷口が、(ほお)にぱっくりと開いていた。
 伸ばされた手を避けようとすると、そいつ──村瀬は焦れたように叫んだ。
「ちがう! これは文化祭用に女子にやってもらったメイク! 俺は無事!」
「なんだ、驚かせんなよ
 その場にへたりこみそうになるのを、村瀬が手を引いて()()した。
「こっちのセリフだって! ここ数日学校来なくて、俺はてっきり新が
 あ、あ、という化け物じみた声が背後でしたので、母さんが追いついてきたのだとわかった。村瀬の顔がこわばる。
「大丈夫。噛まれてないし、もうお別れはした。行こう」
 反対に僕の方が村瀬の手を引いて、外へ出た。
「いったい、何が起きてんだ?」
 何がおかしいのか、はは、と村瀬は小さく笑った。
「この状況、俺より新の方が絶対詳しいよ。文化祭中に突然帰るように言われてさ。電車は動いてないし、スマホ見たらわけわかんない動画がいっぱい流れてくるし
 だいたいわかった、と僕はうなずいた。わかりたくなんてないけれど。
「とにかく、新がゾンビになってなくてよかった」
「お互いに」
「うん。だってまだ、返事もらってないし」
 村瀬の語尾を轢き殺すような猛スピードで軽自動車が走ってきて、僕の家の前で停まった。
 窓が開いて、乗って、と運転席で叫んだ顔と、助手席でげっそりしている顔には両方見覚えがあった。僕は村瀬に押し込まれるようにして、後部座席に座った。
「姉ちゃん、どうしてもそいつ連れてくの?」
 村瀬の姉貴は、ハンドルを握りながら肩をすくめた。
「いいでしょ別に、あたしの車だし。心配しなくても、余計なことしたらゾンビの(えさ)にするから」
 エセゾンビから人間に戻ったホストの人は顔を赤くしたけど、何も言わなかった。この車から()り出されたら困るのだろう。
 村瀬の姉貴に自由になってほしいとは思ったけど、いくらなんでもふっきれすぎじゃないだろうか。
「とりあえず、どこ向かう?」
「関西はまだ結構安全なんだって。避難所もあるってさ。だからとりあえず西の方、かな」
 おおざっぱすぎるわよ、と文句を言いながら村瀬の姉ちゃんはエンジンをふかした。
「あ、でもその前に」
 僕が思わず口を挟むと、村瀬は僕の顔を見て、にやっと笑った。
「姉ちゃん、最寄りのホームセンター寄って」
「ホームセンター? なんでよ、危ないでしょ」
「それがお決まりだからさ」
 意味わかんない、と村瀬の姉貴はぼやき、車は法定速度をはるかに無視したスピードで走り出した。
 シートベルトをしていなかった僕と村瀬は互いに頭をぶつけることになった。
 村瀬と顔を見合わせ、笑った。高く笑った。バックミラーに映る、村瀬の姉貴も笑っていた。笑うしかないだろ、こんなの。ホストの人がしつこく鼻をすする音を塗りつぶすように、壊れてしまった世界を祝うように、僕らはいつまでもげらげら笑っていた。

【おわり】