雪が降ってる

髪ってここまで傷むものなんだなあ、と牡丹の頭部を濡らしながら七緒は考える。ウィッグの手入れにお湯をつかうのはよくないと聞いたことがあったから、冬場には堪えるけれど蛇口をひねって冷水を出す。
牡丹の髪はウィッグとはまた違うのだろうけれど。取り外しができたら便利だろうとは思う。
椅子に座らせ、洗面台に向かって牡丹をうつむかせる。苦しそうな体勢で申し訳なくなるが、美容室のような気の利いた椅子はないのでしかたがない。そもそもアンドロイドである牡丹は、苦しいと感じることもないのだった。
髪を濡らし終わって、牡丹が顔を上げる。肩にかけたタオルにぽたぽたと水が落ちていった。トリートメントを手に取って、つむじのあたりからなじませていく。
「七緒、手つきが雑だね」
文句のようで、鏡に映る牡丹は笑っていた。さらさら・なめらか・つややかと人工毛専用のトリートメントには書いてあるけれど、いくら髪に液剤をなじませてもそんなふうにはならない。だから七緒は少しあきらめていて、雑だと指摘されても否定はできなかった。
「正直、洗う意味ないなって思ってきた」
「でも七緒は僕の髪を洗ったほうがいいよ」
「なんで?」
「楽しそうにするから」
不遜な態度をとるなあと何度思ったか知れない。けれど、そういう人格なのだと自分に言い聞かせると、あきれることも怒ることも無意味に思えた。
「七緒は献身的な行為が好き?」
トリートメントをつけたあとは、いつも少し時間を置く。鏡の前でおとなしく座る牡丹がたずねてきた。
「献身的って、おれそんな立派な人間じゃないけど」
「立派じゃなくてもいいんだよ」
不遜だけれど、どこかAIくさくもある。立派じゃなくてもいいんだよ。そんなことをわざわざ口にされると、なんとなく白けた気持ちにもなる。もっともらしくて嘘っぽい。そう思ってしまうのかもしれなかった。
脱衣所は冷える。今日は朝から雪が降っていて、気温も低かった。七緒がくしゃみをすると、
「風邪ひいた?」
牡丹が反応して、ゆっくりと振り返る。その口角が上がっていた。七緒が体調を崩すと、牡丹は心配するよりうれしそうにする。看病という行為にあこがれがあるらしい。そちらのほうがよっぽど献身的ではないかと七緒は思う。
「どうかな。ただ身体が冷えただけだと思うけど」
「なんだ」
なんだ、とは失礼な一言である。風邪ひくと大変なんだよと伝えると、「風邪をひける身体でいいなあ」と、やはり楽しそうに言う。
「もう五分経ったよ」
牡丹が言うからには、本当にきっかり五分経ったのだろう。それでも五分以上の時間が流れていたと感じる。牡丹と話していると、ときどき時間がひろがっていくような感覚になった。
「牡丹って時間の感覚あるの?」
蛇口から水を流して温度を確認する。冷たい。牡丹を再びうつむかせ、流水に近づけた。頭をざぶざぶと洗われている状況でも、なにを気にするふうでもなく「ないよ」と普段と変わらない調子で返してくる。
時間の感覚がないという、その感覚がわからない。洗っている最中、また鼻がむずがゆくなって、さっきよりも小さくくしゃみをした。それは流水の音に消されたようで、今度は牡丹は反応しなかった。
水を止めると、牡丹が顔を上げる。鏡に映る姿を見つめても、不思議と目が合わない。
前髪から水が滴っても、牡丹はとくに鬱陶しがったりはしない。決められたようなタイミングでまばたきを数回おこなうだけだ。
自分でもできるだろうに、牡丹は七緒に髪も拭かせる。妙に硬い頭部を撫でるように拭きながら、
「時間の感覚がないって、想像できないな」
七緒がこぼす。すると牡丹がすぐに口をひらいた。
「たとえば七緒たちは、今っていう時間を連続的に感じているよね。そう自覚しているかは別として。過去も現在も未来も、脈々とつながっているなかで生きてる。でも僕たちは、今が瞬間的にあるだけなんだよ。過去や未来というものを感じない。たとえば今は十一時二十三分三十秒、三十三秒になった。今が広がっていかないと言ったら伝わる?」
わかるようなわからないような牡丹の理屈だった。ただ牡丹は、わからないという答えを好まない。わからなくても言葉にしてといつも言う。
「積み重ねがないってこと? 思い出をつくるっていうより、記録してるイメージかな」
「そうだね。記録よりは学習してるって言ったほうがしっくりくるけど」
学習。人間同士だったらつかわなそうな言葉だと思った。それは理解するともまた違うんだろう。
洗面台には、牡丹の髪の毛が何本か落ちていた。抜けたことを謝ると、「いいよ」と本当になにも気にしていない様子で言う。
「過去も未来もないって、さびしいんじゃない?」
「七緒はそう感じるんだね」
牡丹が目を細めた。
「つねに今があるっていうのもいいものだよ。更新され続けていて、ずっと新鮮だから」
「だから牡丹ってなにかに飽きたりしないんだ」
いろんなものに興味を示す牡丹は、七緒が声をかけないかぎり同じものをさわったり見つめ続けたりする。
「飽きないね。ずっと飽きない」
今しかないと言いながら、それでも「ずっと」という言葉を自然につかう。こういうとき、こちらに合わせてもらっている、と感じた。
「でも、飽きることができないっていうのは悔しいね。知らない感覚だ」
そんなことを悔しがるのは牡丹くらいだ。本当に感情がないんだろうか。そうやってつい疑ってしまうようなことを、牡丹はいつも口にする。
「感覚の違いって、埋められないのかな」
「僕と七緒の?」
「うん」
「埋められないだろうね」
あっさりと牡丹が言う。
「でもそれは人間同士でも同じでしょ?」
髪を拭き終えたところで、牡丹が立ち上がった。生乾きの髪はさらさらとは言えないけれど、いい香りがする。
「感覚が全員同じだなんて、人間でいる意味ないよ。違う感覚を持つからおもしろいのに。厳密に言うと、AI同士だって完全に同じ感覚にはならないんだよ。思考パターンとかデータはそれぞれ違うから」
違いをむなしく思っていても、牡丹はすぐにその感覚を反転させる。空虚さと一瞬の充足感が交互におとずれる。
そんな七緒の心持ちを具体的に想像しているわけではないだろうけれど、牡丹はことさら明るく笑った。
「冷たいとか寒いとか気持ちがいいとかは感じられないけど、七緒の手がどんなふうに動いているかはわかるよ」
牡丹の口の端が引き上がっていく。やさしい笑顔だと思った。
「七緒が髪を洗ってくれるの、うれしいよ」
言葉というのは厄介だ。感情がないはずの牡丹が、本当にうれしがっているように見える。
居間に戻ると、
「雪が降ってる」
と言いながら、牡丹がそのまま庭に出た。風邪ひくよという意味のない言葉をのみこんで、七緒もあとを追い縁側で牡丹の姿を眺めた。
外の空気がひんやりと肌に刺さる。空からしらしらとこぼれてくる雪を、牡丹が手のひらですくっていた。
「七緒」
牡丹が名前を呼ぶ。
「今、どんな気持ち?」
十一時五十三分。牡丹の感覚を真似てみようと現在時刻を思い浮かべてみたが、とくに感慨もない。
「雪が降ってる」
かわりに牡丹の言葉をなぞった。今、雪が降ってる。それをふたりで見ている。
小さな庭には、言葉のとおり雪が降り続けていた。
【おわり】