瑞鳥は霹靂を呼ぶ
香綺国の中央に位置する帝都『蓮陽』。皇帝が住まう龍栄城の近くに門を構える湊王府では、朝から大騒動が巻き起こっていた。
「殿下ー! 怜永殿下ー!」
「緋凰ー! 緋凰ってば、どこなのー!?」
香綺国皇帝の第三皇子、湊王怜永の名を呼ぶのは、怜永の侍衛、蓮利岳だ。対して『緋凰、緋凰』と連呼しているのは、十代半ばの猫目の美少女、彗苑。現在は様々な事情で緋凰と共に湊王府に間借りしている身だ。
『緋凰』とは和南島を拠点としている紅紗族の宗主の敬称で、本名は凌雀炎という。彗苑は雀炎が和南島から蓮陽へ渡る際に連れてきた妹のような存在だ。そんな二人が互いの主人を探して広い王府を駆けずり回っているのは、のっぴきならない事情があってのことだった。
なんと、二人にとって何よりも大事な怜永と雀炎が、湊王府から忽然と姿を消してしまったのだ。
「殿下-!!」
「緋凰ってば-!」
くしくも怜永の私室の前でバッタリと出くわした二人は、互いが親の敵のような顔で睨み合った。
「彗苑! まさか緋凰もいないのか!? ああ、なんということだ! またもや殿下は緋凰にたぶらかされて私を置き去りにしたというのか!」
「はぁ!? なに言ってるのよ! たぶらかしたのはあんたのところの殿下でしょ!」
「何を言う! 緋凰が来るまで殿下は私に黙って外出することなど一度もなかった! 今回もあの男は口八丁手八丁で殿下を連れ出したに違いない!」
「ちょっと、いいかげんにしないと怒るわよ! 緋凰をそこら辺の怪しい馬の骨みたいな言い方しないで!」
互いの主人が絆を深めていけばいくほど、二人の仲は反比例して犬と猿並みになっていく。
生真面目で何よりも主人を第一に考える利岳と、勝ち気で脊髄反射でものを言う彗苑は致命的に気が合わない。加えて、主人に急接近する『悪い虫』を排除する使命にかられている二人にとって、宿敵の腹心はまた宿敵なのだ。
怜永と雀炎の行方がわからないまま、喧々囂々と言い合っていると、二人を宥めるように落ち着いた女人の声が割って入ってきた。
「利岳様、彗苑さん。殿下と雀炎様なら馬で遠駆けに行かれましたよ」
さらりと二人の行方を教えてくれたのは、怜永が王府を構えた頃から忠実に仕える侍女の秀梅だ。
「馬で遠駆け!? だったら、なおさら侍衛の私がお供するべきだろう!」
利岳はあまりのことに愕然とした。自分の存在価値を見いだせず落ち込む利岳の横で、彗苑はムッと唇を突き出して両手を腰に当てる。
「遠駆け……ねぇ」
ポツリと呟いた彼女は、なにやら難しい顔で空を睨み、低く飛ぶとんびの姿を目で追った。
◇
湊王府が騒動の渦中にある中、香綺国第三皇子湊王怜永と、紅紗族の宗主である凌雀炎は、蓮陽から出て北に位置する高原へと馬を進めていた。
思えば王府を出てから一度も休憩をとっていない。さすがに疲れてきたので、怜永は馬の足をとめて周囲を見回した。
だだっ広い高原には茶屋どこらか民家も見当たらないが、小高い山の麓に唯一宿屋があった。さっそく一階の飯屋で腹ごなしをすることにした二人は、そのまま馬を走らせて宿屋に向かった。
馬を繋いで一階の飯屋に入ると、昼時を過ぎているためか客の数は少なかった。子連れの夫婦と旅人らしき男が一人いるだけだ。
席に腰掛けて適当に食事を頼むと、まるで用意されていたかのように饅頭と青梗菜の炒め物がすぐに出てきた。
「こっそり王府を抜け出して遠駆けに誘われたときは驚いたが、たまにはこうして目的もなく蓮陽から離れてみるのも悪くないな……」
皇子であることを隠しているため、出された食事は粗末なものだったが、怜永は気にせず口をつけた。元来、贅沢に固執しない性分なのだ。
「いつも利岳にべったりとくっつかれていては、お前とゆっくり話もできないからな。強引に出し抜きでもしないと、自由はえられない」
時々だが、雀炎はいたずらでもするように怜永と利岳を引き離そうとする節があった。
己の仕事を全うできない利岳には気の毒だが、自由を好む雀炎が侍衛を邪魔に感じるのはしかたがない気がした。
「今頃、利岳は怒っているだろうな……」
わかっていることだが心配をかけて申し訳ない気分になっていると、雀炎がクスリと笑った。
「そんな顔をされては、まるで箱入りで育った良い子を悪い道に誘う悪ガキになった気分だ」
まさしくその通りではないかと怜永は思ったが、微妙な笑みを浮かべて黙った。その悪ガキに、のこのこついてきたのは自分だ。自己責任以外のなにものでもないので、誰も責められない。
「もう少し馬を走らせたら王府に帰ろう。さすがに夜になっては困るだろ?」
「……そうだな」
雀炎はなぜか曖昧な返事をして青梗菜を口に運んだ。――と、その時。
くいくいっと、怜永の綺麗な外衣の袖を引っ張る者が現れた。見下ろすと、三歳くらいの女の子が、怜永に白い小さな花を差し出していた。親子連れの子供がいつの間にか近づいてきたらしい。
怜永は戸惑いつつ笑顔を向けた。
「私にくれるのか?」
そう尋ねると、女の子はもじもじしながらコクリと頷いた。肌が白く、右目の下に目立つ黒子があるなんとも可愛らしい子だ。
「ありがとう」
優しく言って受け取ると、女の子はまたコクリと頷いた。ひょっとして、口がきけないのだろうか。怜永が女の子の頭を撫でると、雀炎が小さく吹き出した。
「さすがだな。お前の美貌は、こんな幼い娘まで虜にしてしまうらしい」
「子供相手に何を言ってるんだ」
からかわれて頬を染めていると、女の子の両親が申しわけなさそうに近づいてきた。
「まぁまぁ、この子ったら。何をしているの! 公子様、ご迷惑をおかけしてすみません」
「人懐っこい子でして、誰にでもこうしてついていっちまうんですよ」
両親は必要以上に恐縮して女の子を引き寄せた。
「なにも謝る必要はない。とてもかわいらしい花をもらって、ホッコリしていたところだ」
名も知らない花を見つめながら、怜永は言う。
一本の茎に幾つもの小さな花を咲かせた珍しい野の花だ。花びらは純白で、絹のような光沢が目を引いた。
穏やかに喜ぶ怜永に、父親は安堵したのかへラッと笑った。
「その花は、うちらの村の周辺に咲いてるものなんですよ。平地じゃ滅多に見られるものじゃないとか……。山の中腹にある村なので、初めて来る方はよく道に迷うんですが、この花を目印にすれば辿り付けますよ」
「花が目印とは、幻想的だな」
「へへ、そうでしょう?」
愛想のいい父親に、母親が急かすように声をかけた。
「あんた、もう行かなきゃ」
「ああ、わかってるよ。――それじゃ、わたしらは先を急ぐので、これで」
父親は丁寧に頭を下げて子供を抱き上げた。
手を振る子供につられて、怜永も手を振る。
親子が宿屋から去ると、雀炎はなにやら考え込むように花を見つめた。
「どうした? 自分だけ花をもらえなかったから妬いてるのか?」
雀炎は少し虚を衝かれたようだった。そんなこと思いもしなかったらしい。
「――本当にその通りだな。あの娘も見る目がない」
冗談を冗談で返され、怜永が笑っていると、しばらくして宿の扉が乱暴に開いた。
「あの、あの……!!」
動転したように飛び込んできたのは二十代後半の女人だ。女人は真っ青な顔をして宿屋の店主にすがりついた。
「す、すみません。幼い女の子を見ませんでしたか!?」
「お、女の子かい?」
女人の必死の形相に気圧されたように店主が尋ねる。
「赤い服を着た三つの女の子です! 村の近くで山菜採りをしていたら、いなくなってしまって……!」
それを聞いて、怜永と雀炎は顔を見合わせた。思えば先ほどの女の子も赤い服を着ていた。
不穏な空気を感じとり、怜永は女人に尋ねた。
「あなたは、この山の中腹にある村に住んでいるのか?」
「は、はい。そうです!」
「女の子の右目の下に黒子はあるか?」
「はい! あります!」
女人は店主よりも怜永が頼りになると思ったのか駆け寄ってきた。
「公子様、娘をご存じなのですか?」
「先ほど両親と共にいた子があなたの娘の特徴によく似ていたんだが……」
「そんなバカな! あの子の母親は私です! きっと拐かされたんです!」
女人が叫ぶや否や、立ち上がって親子連れのあとを追おうとした怜永の手を雀炎が強く掴んだ。
「落ち着け。夫婦が去ってから時間が経っている。それに、この広い高原だ。闇雲に探しても見つかるとは思えない」
「だが……!」
「大丈夫だ。奴らはすぐに帰ってくる」
「――は?」
雀炎が何を言っているのかわからず、怜永も女人も戸惑った。
拐かしは時間の問題だ。暢気に待ってはいられない。それにすぐに帰ってくるとはどういう意味だ。
怜永が焦って雀炎を問い詰めようとしたとき、なにやら外からゴロゴロと低く嫌な音が鳴り出した。とっさに窓の外を見ると、遠くで稲光が見えた。
「これは……」
とうとう突然の豪雨が宿の屋根を叩き始め、怜永は唖然とした。
「さっきまで晴れていたのに……」
こんなに大ぶりの雨では外に出るのは困難だ。それに避雷針となるものが何もない高原では雷に撃たれる可能性が高い。
これでは夫婦を探しに行けないではないか。
「ああ、蘭蘭……」
女人が娘の名を呼んで泣き崩れる。怜永は気の毒になって店主に茶を持ってくるように頼んだ。
彼女は窶れた様子で椅子に腰掛けたが、出された茶には口をつけようとしなかった。疲弊している彼女を宥めるしかない自分を歯痒く感じていると、四半刻ほどたって宿の扉が大きく開いた。
「いやあ、突然の豪雨で参りました! 雷にうたれるんじゃないかとヒヤヒヤしましたよ」
そう言って入ってきたのは、女人の娘を拐かしたと思われる父親ではないか。続いて入ってきたのは母親と娘だ。
女人は娘の顔を見たとたん、目を輝かせた。
「蘭蘭!」
「な、なんですか、あなた!」
子供をしっかりと抱いた母親は、突然娘を奪おうとした女人を突き飛ばした。
「蘭蘭は私の子よ! 返して!」
女人は大声で叫んだ。母親の胸で眠っていた娘は、女人の声で目を覚まし「うーうー」と両手を女人に向けて号泣した。
「蘭蘭!」
無我夢中で娘を奪おうとする女人に母親も懸命に応戦する。
「やめて! この子はうちの子よ! あなた頭がおかしいんじゃないの!?」
「嘘をつかないで! 蘭蘭は私の子よ!」
「――やめろ」
女二人の金切り声を遮るように、雀炎はゆっくりと立ち上がった。
「まず一つ言っておくが、少なくともその娘はあんたたち夫婦の血を分けた子じゃない」
言い切った雀炎に、母親は目を見開いた。
「何を言っているんですか。この子は私がお腹を痛めて産んだ子です!」
「いいや、違う」
雀炎はきっぱりと否定し、泣いている娘に近づいた。
「この子の耳を見ろ。かなりの福耳だ。見るとあんたたち夫婦はどちらも福耳じゃないだろ? 福耳の子は両親どちらかが福耳じゃないと産まれる可能性は極めて少ない」
夫婦はギョッとしたように娘の耳を見た。怜永も思わず娘の耳に見入る。なるほど、幼くても目立つ耳たぶの大きさだ。
「反対に、こちらの女人はかなりの福耳だ。これだけ見てもどちらが親かは明白だろう」
「そ、それは……」
雀炎の鋭い目つきに、夫婦は怯む。
「こ、この子に事実を伏せておきたくて黙っていましたが、実は養子なんです! わ、わたしら夫婦は子供に恵まれなくて……」
父親の苦しい言いわけを聞いて怜永は眉をひそめた。だが、雀炎はそんなことは想定していたとばかりに彼らを一蹴する。
「さっきは、その可能性もあると思って黙っていたが、こうなってはその言葉をすんなりと受け入れることはできないな」
「雀炎……」
いったいどうするのかと怜永が囁くと、雀炎は口角を上げて夫婦を見据えた。
「お前たち夫婦は、もう一つ嘘をついていることに気がついているか?」
「う、嘘?」
「――何を言ってるんだ、あんた……」
じりじりと後ずさる夫婦の背後に、さりげなく客の男が回った。夫婦が逃げないようにしてくれているのだろう。
余計な口出しはしてこないが、なんとも気の利く男だ。
雀炎は感心しつつ、怜永に掌を差し出した。
「怜永、あの子からもらった花を貸してくれ」
「花?」
こんなものをどうするのかと思いつつ怜永が白い花を雀炎に渡すと、彼は店主に桶一杯の水を持ってこさせた。
「あんたたちはこの花が村周辺にしか咲かないと言っていたな。――これは山荷葉という高山植物だ。標高が高く冷涼な山地にしか生息しない。山の中腹にある村周辺に咲いているのも頷ける」
「だ、だろう?」
父親はどこか安堵しように顎をあげた。自分たちの言っていることに嘘偽りなどないと逆に自信を持ったようだ。
雀炎は皮肉に笑みを刻んだ。
「だが、見ろ……」
おもむろに白い花に桶の水を掛けた雀炎に一同は愕然とした。なんと、しばらくして純白の花びらが消えてしまったのだ。
「なんだ、これは。よ、妖術か!?」
仰天する怜永に、雀炎は呆れた。
「お前は俺のすることをよく妖術などと言うが、そんなわけがない。全ては自然の摂理だ」
「だが、こうして花が消えたじゃないか」
「よく見てみろ」
雀炎は茎だけになった花を怜永に差し出した。目を凝らしてみて怜永は思わず息を呑んだ。なんと、花びらは消えたわけではなかった。透明になって、そこに存在していたのだ。 硝子のように透き通った花弁には、露が乗り、なんとも美しい。
「これは……」
呆気にとられる一同に、女人が補足をするように口を開いた。
「山荷葉は雨に濡れると白い花びらが硝子のように透き通るんです……」
「そのとおりだ。山荷葉は蓮に似た大きな葉を持ち、一本の茎に複数の純白の花を咲かせる。――だが、低温湿地の条件を満たせば雨に濡れて透明になる。そんないつ消えるかわからない花を、あんたたちは村に初めて来た者たちの目印になると言ったんだ。雨が降ると消える花が目印になんかなるわけがない。しかも、山荷葉の花が咲いている時期はごく短い。何をもって目印だと?」
「……っ!」
「少なくとも、この花と共に生きてきた村人なら、言わない台詞だろうな」
夫婦は蒼白になった。
「つまり、あんたたちは山荷葉の特性を知らない余所者ということだ。おおかた、白い花に導かれて偶然辿り着いた村で、金になりそうな子を拐かしてきたんだろう」
結論を突きつけた雀炎に夫婦は慌てて踵を返した。客の男を突き飛ばして逃げようとした夫婦の前に、素早く怜永が立ちはだかる。怜永が剣を抜くと、二人は観念したようにその場に崩れ落ちた。
「蘭蘭!」
自由になった我が子を女人が無我夢中で抱きしめた。娘は「うーうー!」と言って泣いている。まさしく幼子が母を呼ぶ声だった。
怜永と雀炎は大人しくなった夫婦にきつく縄を掛ける。彼らを役人に突き出すように宿主に頼むと、宿主は快く引き受けてくれた。
「公子様。ありがとうございました! ありがとうございました!」
女人は泣きながら何度も二人に頭を下げた。母親の涙に子供が不安そうな顔をしていたので、怜永は山荷葉を女の子に返してやった。美しい硝子のようになった花に、女の子は両手を叩いて喜んだ。
「――さすが叡智溢れる紅紗族の緋凰だな、雀炎。本当にお前の知識には頭が下がる」
手放しで雀炎を褒めると、彼は目を細めた。たいしたことではないと言いたげなその顔を見ている内に、怜永はふと引っかかりを覚えた。
「だが、どうして二人が宿に帰ってくるとわかったんだ?」
「――ああ。簡単なことだ。この高原はだだっ広く、周辺の建物はこの宿以外にない。雷が鳴るような豪雨に見舞われては、しぶしぶでも宿に帰ってくるしかないだろ?」
「なるほど……」
なら、そう言ってくれればよかったのにと怜永は不満を漏らした。
夫婦が帰ってくる保証がない間、皆はずっとヒヤヒヤしていたのだ。雀炎が一言豪雨になると教えてくれれば、安心して待てたものを……と思った瞬間、怜永はハッと顔を上げた。
「雀炎、お前――天候まで読めるのか?」
「……」
雀炎は答える気がないのか、黙って小首を傾げた。
「とぼけるな。豪雨になるとわかっていたなら、どうして馬で遠駆けなんて……」
怜永の抗議を聞いているのかいないのか、雀炎が今思いついたようにわざとらしく言った。
「困ったな、怜永。これでは馬を走らせるどころじゃない。しかたがないから、今日はここに泊まろう」
「は……はぁぁぁ!?」
ただでさえ大きな目をこれでもかと見開く怜永を無視して、雀炎は上機嫌で店主を呼んだ。
「すまないが、しばらく雨は止みそうもない。一部屋用意してくれないか?」
「はいはい」
宿主は揉み手で頷くと、素早く宿帳を持って来た。
「ま、待ってくれ雀炎! さすがに朝帰りは利岳が怒りくるう…!」
怜永の意見は聞く気がないらしく、雀炎はさっさと宿帳に自分の名を書いてしまった。
「雀炎!」
怒る怜永に、雀炎は聞き分けがない子に言い聞かせるような表情でやれやれと肩をすくめた。
「どうしても帰りたいなら帰ってもいいが、この雷雨では危険すぎるだろう?」
「そうだが……」
「そこまで言うならしかたない。豪雨の中に殿下を一人で放り出すわけにはいかないからな。俺も共に帰ろう……」
「じゃ、雀炎……」
外ではガラガラピッシャーン! っと恐ろしい轟音が鳴り響いている。
帰ろうと言われても、どうやって? と頭を抱えざるをえない。
雷が近づくたびに王府への帰還が遠のいていく。
怜永はとうとう諦めて、雀炎を軽く睨み付けた。
「策士め……」
皮肉が通じているのかいないのか、雀炎は「殿下は聞き分けがよくて助かる」などと偉そうにのたまった。
まんまと策に引っかかった己を責めていると、さすがに見かねたのか雀炎がボソッと呟いた。
「本当は満開の山荷葉が消える姿をお前に見せたかったんだ……」
「え?」
「聞いた話では、それは美しく壮麗な光景だとか……。だが、あの夫婦のせいで種を明かしてしまったからな。俺としてはおもしろくない」
口調は淡々としているが、雀炎はどこか拗ねているように見えた。彼がわざわざこんな場所に連れてきた理由を知り、怜永はこれ以上怒れなくなってしまった。
「どのみち、こんな雷雨では花を愛でるどころじゃないだろ?」
「ああ。俺としたことが、珍しく空の気配を読み違えた」
「……」
嘘か真実か。
雀炎の本心はいつもわからない。この状況で理解できるのは、怜永の選択が一つしかないということだけだ。
妙にくすぐったい気分になり、怜永は苦笑した。店主に酒を頼み、二人は二階にある部屋へと上がる。
王府に帰れば利岳から説教をくらうのは目に見えていたが、もう、それもどうでもよくなった。
明日のことは明日考える。それもまた『自由』というものなのだから。
◇
それは、怜永たちが誘拐犯を捕らえた二刻ほど前の事だった。
青々とした空を見上げる彗苑に秀梅が思い出したように言った。
「そういえば、雀炎様は太陽の周りに虹色の光の輪があるのを見つけて、たいそう嬉しそうにされてましたよ」
「……やっぱり」
彗苑は両腕を組んで頬を膨らませた。
「――に、虹色の光? なんのことだ?」
利岳が問うと、彗苑は苛立ちを隠せずに吐き捨てた。
「太陽の周りに薄い雲がかかると虹色の光の輪が発生するの。太陽が傘を被ると雨が降る。紅紗族では常識よ……」
「あ、雨だと!? 殿下たちは遠駆けをしてるんだぞ!」
「やられたわ……! 風も湿ってるし、とんびも低く飛んでる。これは豪雨になるわね」
「ご、豪雨? ――そ、それは、つまり……」
恐る恐る問う利岳に、彗苑は目を吊り上げて断言した。
「今夜、二人は間違いなく帰ってこないわ!」
「な、なんだとぉぉぉぉぉぉぉ!? おのれ、緋凰! 今度こそ、殺ーす!!」
怒りを爆発させた利岳の絶叫が、湊王府中に響き渡った。
叡智溢れる紅紗族の緋凰は傑物だ。そんな彼が本気になって策を練れば、誰も抗える者はいない。
名ばかりとなった侍衛、蓮利岳は、大事な大事な怜永殿下の身を案じるあまり、一睡もできない夜を過ごすハメになるのだが、それはまだ数刻先の話だった。
【おわり】