最川堂の年末、恐怖の忘年会
十二月上旬。
詩央は、パソコンのモニター画面をにらみ、眉間に皺をよせていた。おかしい。この計算式、いつからずれてるんだろう。今年の本社の清掃費がゼロふたつぶんくらい多くなっている。
まさか先月もか。本当に勘弁してほしい。経理部員に報告したファイルも同じだろうか。
あわてて内容を確認していると、内線電話が鳴った。
「はい。総務部朝井です」
「お疲れ様です。研修中の三上です。すみません。過去の忘年会の動画の保管場所、どこでしょうか。総務部が管理してるって聞いたんですけど……」
ああ、この時期がきたかと詩央は思った。今年の新人のスタートダッシュは例年よりも遅めである。
電話をかけてきたのは、今年入社の新卒社員、三上蘭。研修中で、まだ配属先が決まっていない。よく面倒な役割を押しつけられてしまう子で、この電話もその性質上のものだと思われる。
「ありますよ。でも、いろいろあって厳重に保管しておかなくちゃいけない決まりみたいで」
「はあ」
わけがわからないのだろう。詩央とてそうである。
たかだか忘年会の出し物の動画を見るのに、他の社員の許可をとる必要ってあるのだろうか。
「とにかく、一度総務部に来ていただけますか」
詩央は受話器を置くと、古びた共有パソコンの前に移動した。
【※取扱注意 忘年会動画集】
一年に一度しかアクセスしないファイルの中には、容量の重たい動画データが、年度別にずらりと並んでいた。
*
「新人の出し物。いい加減やめた方がいいって私さんざん提言しているのに、もうきれいなくらい無視」
会社からほどよく離れた、イタリアンレストラン。
人事部の東類子は、ワインをあおると、深いため息をつく。
「いつの時代かって話よね。今時新人に芸をさせるなんて、時代錯誤もいいところだわ」
年末の最終営業日。最川堂では毎年、都内某所の有名ホテルの大宴会場を借り切って、忘年会を行うのだ。ここ二年はコロナ流行の影響で会場を分けたり、遠方の社員は参加を諦めてもらうかわりに粗品を送ったりしていたが、基本的に年の終わりはみんなで迎えるのが最川堂式なのである。
「悪しき風習ですよ」
物流部の鼎みつばも、目をつりあげている。
「私、アニメキャラのコスプレさせられて、ティックトックで若者がやってるよくわからない踊りさせられたんですよ」
「鼎さんだって、十分若者じゃ……」
みつばはまだ入社二年目である。昨年の忘年会は、彼女たちが主役だった。
詩央が口をはさむと、みつばは目をつりあげる。
「若い人はこういうの得意でしょ、今はみんな撮るんだよねって、中途採用のおじさんたちに言われて、私さんざん、見たくもないショート動画見まくったんですよ! 私もう学生じゃないし、ぼけーっと動画見てる時間なんてないですよ。もう披露したら披露したで、たいていの社員さんは元ネタわからなくて、悲惨なくらいすべって」
みつばはオイルソースパスタをびよびよと跳ねさせているのに、まったく服にかかっていない。
ちょっと手元がすべっただけでしみを作った詩央は、それを不思議に思い凝視する。
同じものを食べているのに、器用に災難から逃れる人はいったいどういった仕組みなのか。
「あ~。そこを、七星くんが拾ってくれたんだっけねぇ」
「そんなこともありましたねぇ」
営業部のアルバイト社員、駒沢朱里が、今しがた思い出したかのようにうなずいた。
「たしか、うちの田畑くんもみつばさんと同期で、へにょへにょ踊ってましたよ。最高にスベってるなぁと思って見てましたぁ」
フリルのついた襟つきブラウスに、アーガイル柄のカーディガン。砂糖菓子のような見た目の朱里は、発言にはまったく砂糖をコーティングすることはない。素のまま、ダイレクトに感想を述べる。
「駒ちゃん、きっついなぁ。私も一緒にスベったんだよ」
「みつばさんの発案じゃないってわかってましたからぁ。同期ってことになってるけど、中途採用のおじさんたちって人生の先輩ですし、押し切られたら寒いネタも断れないですよねぇ」
「冷めきった宴会場で、七星主任が助けに入って……あの時は助かりましたよ。かっこいいって思っちゃいました。イケメンだし」
営業部のエース、アイドル顔で犬のように人なつっこい七星悠馬。ホテルの宴会場で、しんと静まりかえった最悪に気まずい雰囲気を、司会のマイクを奪い取って取り返した。
『はいっ、ここまでがクイズ! 今新人さんたちが披露した曲の正式名称がわかる方! 正解者には、なんと豪華景品が出るんですよね、社長!?』
社長こと最川藤十郎も驚きの無茶ぶりだったようで、飲みかけのビールを噴き出しそうになっていた。
ナプキンで口元をぬぐい、財布から五万円を取り出すと、「取締役および部長、次長までの社員。カンパ求めます」と声をあげたのである。
社長のテーブルの上には、みるみる一万円札が積み上がって行く。ホテルマンもドン引きの、圧巻の光景だった。
「金に目がくらんで、大盛り上がりになりましたもんねぇ」
「あれは七星くん、あとから結構怒られたらしいけどね」
類子は苦笑いをしている。
後輩がみじめな思いをしないようにと咄嗟の行動だったらしいが、さすがに出しゃばりすぎたのか、悠馬は上司からお小言をもらったようである。
「でも七星主任のおかげで、後からどんな芸してもみんな真剣に盛り上げてくれちゃうから助かりました。正直もう思い出したくもないし、次の新人のために動画撮ってるじゃないですか、あれ。絶対誰にも見られたくないのに」
ぼやくみつばに対し、詩央はなだめるように言った。
「まぁ、総務部で保管してるんで、そんなにしょっちゅう見られることってないですよ」
「あれって、以前は社員なら誰でもアクセスできましたよね?」
みつばと同じ物流部の金川京子は、詩央よりも先輩の社員である。その当時は、参考のために過去の動画を見るときに、総務部の許可はいらなかったらしい。
「クレームつけたのよ。あなたの同期が」
類子はなんてことのないように言う。
「私の同期?」
「いるでしょ。有名人の唐飛龍」
「ああー。言いそう! 絶対言うタイプ!」
どこが面白かったのか京子は爆笑し、朱里まで声色をかえて「ちょっとよろしいですか。まず、この忘年会の動画を残す意義について、誰かご存じの方は?」と唐っぽい口調で話し始めたので、笑いが四人をとめどなく循環した。酒が入っている状態の身内ネタは、それがけしてたいしたものでもなくても、面白さが倍増する。
唐飛龍は、最川堂の若手社員の中でも実力派だ。商品開発部に所属し、まだ二十代でありながら、すでに二つのヒット商品を世に送り出してきた。誰もが一目置く人材だが、歯に衣着せぬ物言いで次々と敵を作り、多くの社員の度肝を抜いてきた……らしい。
(そのあたりのことは、ちょくちょく耳には入ってくるんだけど、本人のことはまだよく知らないんだよね)
しかし、同期の京子にとっては、研修期間を終えた今も、まだ唐に対する鮮烈な印象が残っているのだろう。
「もう、唐が口を開けば何か問題が起きたもんね。研修期間中は」
「そうだったんですか……」
「まあ、あいつのおかげでこっちは目立たずにすんで助かったけど。とにかくプライドが高いのよ。出し物の様子なんて残されたら恥だから絶対残したくないという、ただそれだけの理由なのにいちいち理屈こねそう、あの人」
朱里はうなずいて、とがった口調でしゃべりだす。
『そもそも、忘年会で新人が芸を披露するということ自体、パワハラの一貫になると思います。忘年会に新人が強制参加しなければならない件についても、あわせて再検討いただきたい』
「駒ちゃん、もういいから。絶対言いそうだし面白すぎるから」
朱里がしつこく役柄・唐飛龍を続けているので、ストップが入った。女優志望の彼女は、役づくりの勉強のために最川堂にアルバイトに来ている変わり者で、シフトのある日はじっと社員を観察し、そうでない時はこうしてちょっとした演技を披露してくれるのである。
「で、結局金川さんと唐係長の代って、何やったんですか? 出し物」
「化粧品成分クイズ。またの名を唐の抜き打ち尋問」
「きっつう」
ラベルに書いてある成分表を黒塗りで隠し、軽快な音楽と共にひとつひとつのテーブルをまわって唐が問いただしていったという。音楽の選定や司会進行、ちょっとした景品の用意は唐以外の社員が担当した。
たしかにこれならダンスを披露するよりも準備期間はいらないし、用意するものも自社製品と、クイズ正解者に対する粗品だけでいい。宴会芸というと、とにかく楽しく場を盛り上げることを求められると考えがちだが、酒でゆるんだ空気をあえて締め直すという試みは、適度な緊張感を生み、悪くない結果になることもある。出し物に対する時間と予算の両方をカットするという、ある種の賭けに出たのだろう。
「今日は無礼講ですよね」と言い添えて、唐は、答えられない社員には辛辣な嫌みをかましていたそうだ。
「新人のくせにやばすぎますねぇ。私の想像の更に先をいってましたぁ」
普段の言葉使いに戻った朱里が感心したようにうなずいている。
「いや、さすがに営業だって、成分表は暗記してないでしょ」
「それが、すらすら答えちゃった奴がいるのよ」
「マジですか、誰?」
類子と京子は顔を見合わせている。
「兵藤センター長よ」
「えーーっ。なんで!?」
「なんでって思うでしょ。あのときの兵藤センター長、笑ってたけどちょっと怖かったわ……」
兵藤光淳。埼玉のカスタマーセンターの所長で、甘い美声と抑揚のある喋り方で、数々の難ある顧客をいなしてきた辣腕の社員だ。
兵藤は涼しい顔ですべての成分を正確に、配合量順に答えると、こう言ったのだという。
『お客さまから、半年に一度は似たようなお声が寄せられます。製品の成分についてお答えする際にお時間を頂戴すると、ひどくお叱りを受けるのです。一例として、頂戴したお言葉をそのまま申し上げます。『お前は会社の商品についてよく知りもせずに、電話を取っているのか』と。なので、私はすべての商品について、成分を暗記して臨んでおります』
兵藤は最後に仏のスマイルを見せると、なにごともなかったかのように差し出されたマイクを唐へ返した。
景品係は、おそるおそる粗品のボールペンと入浴剤を置いていったという。
「なるほどぉ。暗に、『お前の出し物は頭のおかしいクレーマーの口上と大して変わらない。面白くもない芸に巻き込んでくるな』と、兵藤センター長はおっしゃりたかったわけですねぇ」
「駒ちゃん、切れ味鋭いから」
プライドを傷つけられたらしき唐は、忘年会の出し物について、門外不出の保存方法を取るように、総務部にクレームを入れたらしい。
「これは、朝井さんが入社する前の話ね。朝井さんの前に総務部にいた社員が、そういうことがあって忘年会のファイルは総務部の古いパソコンに置くことになったって、私に教えてくれたのよ」
類子はそう締めくくった。
「そういった経緯があったんですか……」
別に知らなくてもよかった会社の歴史を垣間見た気がした。
「詩央さんは、忘年会のファイル見放題ですよねぇ。こっそり見たりしないんですかぁ?」
朱里がわくわくとたずねる。
「見放題って言ったって、自分が新人の時に一年前の先輩のやつを参考に見ただけだよ」
普段は気にも留めていないし、忘れ去っているファイルである。
新人たちとて、ネタかぶりを気にして動画を見ているのであって、せいぜいさかのぼるのは二年前くらい。あとは自分たちのネタを練る時間にあてていて、詩央もご多分に漏れずであった。
みつばは食べきったパスタの皿を隅に寄せている。
「朝井さんは、忘年会何やったんですか?」
詩央の宴会芸を生で見ているのは、彼女より以前に入社した類子と京子だけだ。
「あー。私の時は、ほら、最川堂がスポンサーになっていたドラマがあったじゃない? そのモノマネをやったんだよね。放送開始したのが、ちょうど私が大学四年生のときで……入社したときにはもう、忘年会はこれでいくしかないって前々から決まってたから、先輩の動画をじっくり見なかったかも……一応前年に先輩が同じネタをやってないかはチェックしたけど、ギリギリ大丈夫だったみたい」
「いーなーっ! 社員のほとんどが、それ見てるじゃないですか。絶対スベらないですよ」
ずるいずるいと、みつばがくちびるをとがらせる。
「社がスポンサーやってるドラマのネタなんて、見てる側もしらけるわけにもいかないテーマだしね。無理やりにでも盛り上げないと。社会人として」
「たしかに」
類子と京子もうなずいている。
「やる方も緊張しましたけど、見せられる方も試されるテーマでしたよね……」
同期社員で一番華やかな村上凛音がヒロイン役で、そっくりに髪を巻いて登場したときはかなりウケていた。秘書課に配属された凛音が今も似たような髪型をしているのは、あのときの喝采を覚えているからかもしれない……というのはうがちすぎだろうか。
ホテルの宴会場をランウェイに見立て、ドラマに出ていた登場人物そっくりの衣装を着た新人たちが各テーブルをまわって、キメ台詞を言うだけの出し物だったが、女装男装なんでもござれで、無理やりな扮装をしている社員が笑いをとっていた。
「朝井さんは音響やってたよね?」
「はい。役者とかできるタイプじゃないし、私」
宴会芸までわき役、黒子が徹底している詩央である。
「でも、ドラマが好きで採用試験受けたので、裏方も結構楽しかったですよ」
あのドラマを好きになったきっかけは、なにを隠そう長年ファンをしている地下アイドル『ドルコレ』のかわゆりが出演したからである。各登場人物の入場時にはドラマ主題歌とは別にこっそりドルコレの曲を流したのだが、残念ながら酒に飲まれた社員たちはなにが流れようとおかまいなしで、写真を撮ったり肩を汲んだりお酌したりと大忙しであった。
「実は、社長がね。裏で音響やってるのは誰かって、聞いてきたのよね。あの年」
類子はワインをかたむけて、しみじみと不思議そうだ。
「そんなの聞いてどうするんだと思ったけど、『総務部の朝井さんですよ』って答えたら、二度ほどうなずかれて、自席に戻られたの。何だったのかしら」
「えっ、怖い。なんでいまさらそんな話するんですか、類子さん」
詩央が青ざめた。まさか音響に不手際があり、社長が名前を確かめに来たのではないのか。
「あのときは、こうして飲みに行く仲じゃなかったじゃない? 朝井さんもいつのまにか、愚痴聞き地蔵と呼ばれるまでになっちゃったけど」
「あの、それ誉め言葉じゃないと思うんですよね……」
「いいじゃないですか~! 一度聴いたら忘れないあだ名ですよ」
朱里はうなずいて、デザートのティラミスにフォークを差し入れている。
「えっ、結局社長は何だったんでしょうか!?」
「さぁ……」
――まさか、今回の『密命』の件に関係していたりしないよね。
詩央は悶々としたが、なにせもう四年も前の話である。至らない音響担当のことも、社長はすっかり忘れているだろう。というか、もし不手際があったのなら、忘れてくださいお願いします。
改めて手を合わせると、詩央はもくもくとデザートのティラミスにとりかかった。
次の決算日までに、三人の養子の中からただひとり、次の社長を選ぶ。
そう、過去の忘年会でも話題をさらった三人。七星悠馬、兵藤光淳、唐飛龍。この三人の中の誰かが、次の最川堂を担うことになる。
そしてなぜか、次の社長を、目立たぬ平社員、社員の愚痴を聞くことしか能がない詩央が指名することになっている――。
責任重大。背筋の凍るような密命がくだされてから、そう日は経っていない。
しかし詩央にとってのタイムリミットも、刻々と近づいているのだ。
冷たいティラミスが、ゆっくりと胃へ滑り落ちてゆく。後戻りのできない時間のように。
最川堂の年末は、もうすぐそこである。
【おわり】