惜別の晩夏


「レイモンド! 教えてくれる? 昨日薦めてもらった本のことなんだけど、気になって気になって、ゆうべはなかなか眠れなかったの!」
 その頃、レイモンドの毎日は、少女の明るい声で始まるのが常だった。
 艶やかな銀髪にアイスブルーの瞳をもつ十歳の少女は、十六歳の彼にとって妹のような存在だったが、尽きることのない好奇心と向学心は、時に彼が舌を巻くほどだった。
「この本だと、月光樹(げっこうじゅ)の葉を煎じるさい、魔力をくわえるとかえって薬の効果が弱まるって書いてあるわよね。でも、うちで使ってる月光樹の魔法薬は、執事のエバンスが魔力をくわえて作ってるけど、すごく効果があるわ。ここに書いてあることってほんと?」
 大きな瞳に疑問をいっぱいにたたえるコーデリアに彼は微笑み、かがみこんだ。
「どれ、見せてごらん」
 コーデリアが胸に抱えている本を受け取ると、レイモンドは書庫に(しつら)えられた椅子に腰かけ、頁をめくる。該当の頁に当たると、コーデリアがせっつくように横合いから覗き込んで、指さした。
「ほら、ね?」
「ああこれは紛らわしいな。この文章は正確に言うと、魔力をくわえることで効果が弱まるという意味じゃなくて、強すぎる魔力によって薬液の濃度が濃くなることで効果が弱まる、という意味なんだ。執事のエバンスはあまり魔力が強くないと言っていたよね。彼の作る魔法薬に効果があるのはそのせいだと思うよ」
「魔力が弱いのに、いい魔法薬が作れるの?」
 彼から本を受け取ると、コーデリアはびっくりしたように質問する。
「魔法薬の品質は、魔力と薬草の配分によって決まるからね。必ずしも、強い魔力があればいい薬が作れるわけじゃない。魔力と薬草の配分について知りたければ、魔法薬学全集のモード・ウィンスロウの巻を読んでみるといいよ。少し難しいけど、くわしい研究が載っているから」
「読んでみるわ! ありがとう、レイモンド」
 目を輝かせて答えると、コーデリアは本を抱えて書庫の奥へと駆けてゆく。
 夏の間、レイモンドがアッシュバトン子爵のカントリーハウスに滞在しているのは、彼の学友に関してどうしても調べたいことがあるからだった。王国でも有数の蔵書を誇るアッシュバトン子爵の書庫でなら、学院でもわからなかった疑問の答えも得られるのではないかと思ったのである。
 子爵家の書庫は広大で、疑問に答える本はなかなか見つからなかったが、彼が()むことがなかったのは、子爵令嬢コーデリアの存在があったからだ。
 噴水の見える窓辺に腰かけ、足をぶらぶらさせながら飽きずに本を読む姿は微笑ましかったし、わからないことがあるとためらいなく質問をぶつけてくる姿勢は、彼にとっても大いに刺激になった。
「ねえ、レイモンド。私って、変だと思う?」
 ある昼下がり、窓辺の椅子に座り、自信なさそうにコーデリアが尋ねたのは、いつも迷いない彼女には珍しいことだった。
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
 レイモンドが逆に問いかけると、コーデリアは「だって」と唇をとがらせて下を向く。
「貴族のご令嬢なら礼儀作法だとか、刺繍やダンスの練習をもっとがんばらなくてはだめだってミス・ベネットが言うの。書庫にこもって本ばかり読んでいたら、変わり者だと噂になって、お年頃になってからのご縁談にもさしさわりがございますよって」
「さしさわり、ね」
 彼は苦笑をうかべた。
 コーデリアの家庭教師ミス・ベネットは、コーデリアが刺繍の課題をさぼって本ばかり読み、寝る前まで本を手放さないと、よくこぼしている。魔力の有無や優劣によって貴族の格が問われるこの国で、貴族の令嬢には、勉学よりも良家に嫁いで魔力の強い子供を産むことが求められるのは確かだ。けれど。
「きみに薦めた本のモード・ウィンスロウも、女性だけれど魔法薬学で大きな功績を残したし、本ばかり読むのがそんなにいけないことだと僕は思わないな」
「ほんとう?」
「うん。それに、きみの結婚相手がダンスや刺繍を好むとは限らないだろう? ようは、本ばかり読んでいるご令嬢のほうが魅力的だっていう相手を見つければいいだけさ」
 レイモンドの答えに、沈んでいたのが嘘のように、コーデリアの顔が明るくなる。
「それってお父さまのことね? お父さまも本ばかり読んでいるから、おんなじくらい本を読むお母さまとお話しするのが、昔から大好きだったって!」
「そうだね。アッシュバトン子爵のようなひとなら、きみが書庫にこもっていても変わり者だなんて言わないだろう」
 思わず目を細め、レイモンドが銀髪の頭を撫でると、コーデリアはくすぐったそうに身をすくめ、まっすぐ彼を見あげた。
「レイモンドもよ」
「え?」
「レイモンドも私のこと、変わり者だなんて言わなかったもの。私、お年頃になったらレイモンドみたいな人と結婚するわ」
 どこまで本気なのやら。大胆な宣言にまばたくと、レイモンドは表情をほころばせた。
「それは、光栄だね」
 コーデリアは彼の返答ににっこりすると、窓辺の椅子からはずみをつけて立ち上がる。
 彼がさっき薦めた本を取りに行くのだろう。
「ねえレイモンド。明日もまた、たくさん本のお話ししてね」
 書棚のほうへ歩きかけると、ふいにくるりと振り向き、コーデリアが言った。
「ああ、もちろん」
「明日も、明後日もよ!」
「約束する」
 幼さの残る念押しに彼が(りち)()に答えると、ようやくコーデリアは満足した様子で、青いドレスの裾を(ひるがえ)し、書庫の奥へと駆けてゆく。
 コーデリアと同じように、この時、彼もまた明日も明後日も同じように穏やかな日々が続くのだと思っていた。
 決定的な知らせを受け取る、あの日までは。


 降りしきる雨の中、銃声が(とどろ)き、左肩に焼けつくような痛みが走った。
「ぐっ!」
 衝撃で横倒しになった彼の耳に、いくつもの足音がこだまする。
 このままここにいれば殺される。
 気絶しそうなほどの痛みをこらえ、レイモンドは泥の中を這いつくばるように身を隠した。
 頭の中には疑問と恐怖と怒りが渦巻いている。
 なぜ、こんなことになったのか。一体、何が起きているのか。
 別荘で落ち合う予定のアッシュバトン夫妻がいつまでたっても姿を見せないことに不安を覚え、馬を駆って捜索に出た頃には、雨は一段と激しさを増していた。
 崖から転落したと思しき馬車の事故現場を発見し、無我夢中で駆けつけたが、子爵は既に絶命しており、アッシュバトン夫人は土砂に埋まって動けなくなっていた。
 軽傷だったコーデリアをどうにか救い出し、雨の当たらない場所へ運んだのはつい先ほどのこと。
 事故現場に再び戻り、アッシュバトン夫人を土砂の中から救い出したところで、レイモンドは突然何者かに撃たれたのだ。
 肩に手を当て、魔力で治癒を試みるが、治癒魔法を阻害する魔弾を使用しているのか、一向に痛みは引かない。
 魔弾には毒も仕込まれていたのだろう。ふらつく体は思うように動かず、追っ手を()くのも一苦労だった。
 それでも、コーデリアだけは助けなければと木立の奥へ進んだレイモンドは足を止める。
 コーデリアを待たせた岩陰に、深緑の(がい)(とう)をまとった人影を見つけたのだ。
 震える肩を抱き、しきりとコーデリアに話しかける男の姿を見たとたん、レイモンドに衝撃が走った。
「エリック!」
 喉の奥で呼んだ名は、獣の(うな)りのようだった。
 なぜ、レイモンドの父は捕らえられたのか。なぜ、アッシュバトン一家は事故に巻き込まれたのか。
 学友の姿を見た瞬間、すべてを理解した彼が、衝動のまま飛び出そうとした、その時。
「いたぞ!」
「追え!」
 複数の声と足音に我に返り、彼はほとんど反射的に逆方向へと駆け出した。
 いくつもの魔弾が体をかすめ、レイモンドは必死で足を動かす。
 樹林に降り注ぐ雨が顔を濡らし、雨粒とも、涙ともつかない何かが頬を伝った。
「許さない
 このままでは終われない。このまま死ぬわけにはいかない。
 彼からすべてを奪ったものに、(てっ)(つい)を降す。
 そして取り戻すのだ。たった一人残された、光のような少女を。
 (くさび)のように己の奥深くに誓いを刻み、血まみれの体を引きずりながら、彼は逃げ続けた。

 それは、忘れえぬ夏の終わり。
 彼とコーデリアがかけがえのないものを(うしな)った、晩夏の出来事だった。

【おわり】