ジャン・コルビジエの祈り
「中尉どのには、決まった恋人はいないんですか?」
こんな状況で訊く質問だろうか。隣国エルガードとの国境近く。正面切った戦闘を避けて、住民を退去させた村に潜み、敵軍を奇襲する作戦の最中に。
外は冷たい雨。エルガードの小隊がもうじき補給と休息の場所を求めてこの村に到着するはずだが、いまのところ外にその気配はない。
クロノス王国義勇軍歩兵隊中尉、ジャン・コルビジエは上向きに構えた銃の重みを確かめながら、話しかけてきた若者――エミール・コルデという名前で、少尉だ――に、穏やかな視線をくれた。
「いませんよ。決まった恋人も、決まっていない恋人も」
「そうじゃないかと思っていたんです」
コルデ少尉はずいぶんと嬉しそうだ。年齢こそジャンより一歳下だが、元子爵家出身――つまり身分制度の廃止前は貴族だったことを考えたら、もう少しお高くとまっていてもよさそうなのに、庶民出身の上官であるジャンに敬意を払いつつ親し気に接してくる……つまり、好感の持てる若者だった。
「だって中尉どのときたら、たまの休みも宿舎で寝ているばかりで、里帰りもしないし、だれかから手紙が来る様子もないし。いったいどうしてなんですか? 女に興味がないとか?」
「……ここで、僕の性癖の説明までしなければならないんでしょうか?」
「いいえ、とんでもない! 言い過ぎました、失礼いたしました!」
コルデが顔を赤くして、謝罪する。ジャンは内心苦笑した。自分は別に女性に興味がないわけではないし、出身地である首都に里帰りできないのは理由がある。
(うかつに帰ってロジャースに捕まったりしたら、義勇軍に戻れなくなっちまうかもしれないからな)
十年前に起きた革命の扇動者であるピエール・ロジャースは、共和国建国の立役者として現在、国内の政治を統括する議会の議長となっている。ジャンはかつてロジャースに心酔し、その手足となって働いたが、とある事件をきっかけにして完全に袂を分かっていた。
そのロジャースがこのところ、あからさまに軍にまわす予算を減らして、弱体化をはかっているふしがある。一兵卒から中尉にまで昇進したジャンは義勇軍のなかでも有名人なので、うかつに首都に帰れば格好の見せしめとして処刑台送りにされる可能性さえあった。
(罪状はいくらでもあるからな。おれが首都を出たのも、もとはといえば……あの人たちを目の前で死なせちまったせいだから)
死ぬのは怖くない、つもりだ。祖国を守るために命を落とすなら、本望だとさえ思っている。ただ、ロジャースの思惑で殺されるのだけは御免だった。
(いまさら、あの人たちの仇なんかとれるとは思っていねえけど……いまは、あの人たちの愛した国を守ってやるのが、おれにできる罪滅ぼしだ)
ジャンは靴屋の息子で、まともな教育など受けてきていない。ただ、人に相対するときは、ある人たちの真似をして高潔な振りを心がけてきたため、義勇軍のなかでもジャンの人柄を勘違いしている者は多かった。コルデも、そういう一人らしい。
「でも、もったいないなあ。中尉どのは見た目もいいし、振る舞いも素晴らしいし。その気になれば、どんな素敵な女の子でも恋人にできるでしょうに」
「任務に集中したほうがいいですよ、コルデ少尉。そろそろエルガード軍が現れてもおかしくない頃合いですから」
「わかっています。ただ、あのっ……中尉どの。もしよかったら、自分の頼みを聞いていただけませんか? 難しいことではないと思うので――もし自分がこの戦闘で死んだときは、自分の妹を中尉どのに引きとっていただけないかとか」
「僕は独身ですよ。故郷に家族もいないのに、どこにあなたの妹を引きとったらいいんですか」
「自分にはもう身分も家もありませんし、守らなければならないものといったら、たった一人の妹だけなのです。妹のエリーゼはいま、昔うちに仕えていた乳母の家で預かってもらっているのですが、もし自分がいなくなったら、あの子を守ってくれるものはなくなります。だから中尉どのがあの子を引きとって、将来、妻か恋人にすると約束してくださったら後顧の憂いなく作戦に臨めるんだけどなあ」
「憂いがあれば死ぬに死ねないというのなら、ぜひ、なにがなんでも生き延びるほうを選んでください。僕は妻も恋人もつくるつもりはないし、あなたをこんな作戦で失うのもお断りです」
「中尉どのはやっぱり、女に興味がないんですか?」
「お喋りの時間は終わりです――エルガード兵が来ました。そろそろ本番だ」
雨の中、男が一人、辺りを窺いながら村に近づいてきた。エルガード軍の斥候だ。もうじきここは戦場になる。どんなに生き延びたくとも、運が悪ければ死ぬし、死ぬつもりでいるのに生き延びてしまうものもいる――ジャン自身はずっと後者だった。
だから、と、ジャン・コルビジエ中尉は銃身に火薬を入れ、弾を込める隙に、左手でこっそりと胸元の十字架に触れて祈った。
おれの運をコルデに。神様、あなたのご加護を、守るべきひとがいるやつに分けてやってください。
*
革命前、コルデ子爵家に仕えていたという乳母の家は、無人だった。近所に聞いてまわったところ、その家の一人息子がほかの町で仕事をはじめたので、母親は一緒に暮らすためについていったそうだ。もう一人、若い娘が同じ家で暮らしていたはずではないかと訊くと、お喋り好きそうな婦人は声をひそめて、
「あんた、あの子の知り合いかなにかかね?」
「コルデ中尉は戦友でした」
「ああ……義勇軍に入っていたっていうものねえ。去年、戦で亡くなったっていう知らせがきたときはそりゃあ、みんな落ち込んでいたようだよ……だけど、仕送りがなくなった娘の面倒を、いつまでもみていられるほど暮らしに余裕があるわけでもなし。エリーゼちゃんは『花籠の館』に引きとってもらったっていうね」
「『花籠の館』?」
「昔のお城……いまの議事堂の近くにある娼館だよ。元貴族の娘たちを集めて花を売らせているんだって。こういっちゃなんだけど……哀れなものだよねえ。エリーゼちゃんはまだ十三歳だっていうのに、元子爵の家の出だっていうだけでまともな働き口も見つけられなくて、こそこそ生きなきゃならないなんて。……おっと、こんなことを言ったってばれると元貴族の味方をしたと思われて、査問会に呼びだされちゃうかもしれないから、聞かなかったことにしてちょうだい。兵隊のお兄さん、もしもこれからエリーゼちゃんを買いに行くつもりなら、優しくしてやっておくれよ」
「……ありがとうございます」
ジャンは丁寧に婦人に頭を下げた。
かつて自分たちが目指した国はどうなったのだろうか、と考える。国王や王妃をはじめとした、上流階級たちの我儘のせいで庶民の暮らしが立ち行かなくなり、戦にさえ巻き込まれる。そんな馬鹿な現状を打ち破るために革命を起こしたはずだったのに。
王族や貴族を政治から遠ざけ、議会を市民によるものにした。そうして得られたはずの自由と平等の国がいま――近所の人間がお互いを監視しあう、息苦しい国になろうとしている。
元凶は、ロジャースだ。政敵をすべて『王政派』とみなして消していき、貴族から没収した財産を味方に配り、専横を強めていくばかりの元『革命の指導者』。自由に慣れていない市民はまだロジャースの危険性に気づいておらず、気づくころにはもう手遅れになっているだろう。なにしろあの男は、義勇軍の再編成という名のもとに軍隊をも議長の支配下におこうとしているらしいので。
(かといって、市民が選んだ議長を力で引きずり下ろす真似が、ほんとうにいいのかどうか……)
悩ましく思いながら、いまジャンが歩いているのは『花籠の館』の庭園だった。旧友であり、現在共和国議会の議員を務めているクロードという男が常連だと言うので、連れてきてもらったのだ。『花籠の館』は顧客の紹介のある者しかなかに入れない仕組みらしい。
ジャンは革命の折、ロジャースの手下として目立つ働きをしたので名前を知られており、館の女主人は「『革命の英雄』様をお迎えできるなんて、この上ない光栄ですわ」などとお世辞を言っていた。しかしジャンの、エリーゼ・コルデという名の少女がここで働いているかどうかという問いかけには、
「コルビジエ様、お焦りにならないでくださいませ。サロンの娘たちを知るには、守らなくてはならない順序というものがありましてよ」
と、のらりくらりとかわして答えなかった。
(馬鹿らしい)
コルデの妹の消息を確かめられないのなら、娼館に用などない。華やかなドレス姿の娘たちも、テーブルに並べられたきらびやかな食器も腹立たしいばかりだった。用足しに行くと言ってサロンを出たのは、女主人が教えてくれないのなら、自分で捜すまでだと考えたからだ――戦友の、コルデの妹を。
コルデの乳母宅に行った際、近所に聞き込みをして、エリーゼの容姿の特徴を教えてもらっている。十三か四歳、赤っぽい金髪、痩せていて、そばかすで地味な顔……たぶん、兄そっくりなのだろう。
コルデに神の加護は届かなかった。作戦中には死ななかったのに、冷たい雨のなかでひいた風邪をこじらせて、じわじわと弱って死んでしまった。食糧も、薬も不足していたからだ。ロジャースが、義勇軍にまわすべき予算を減らしたせいで。
兄は戦場で弱って死んでいったのに、妹は、この『花籠の館』で……娼館とはいえ、華やかなドレスを着て、ご馳走を食べて暮らしているのだろうか?
うんざりだった。なにもかも。自分自身のこれまでの人生さえ、後悔ばかりでうんざりする。
(心酔した思想は偽物で、憎かったはずの人たちは高潔で……守ってやりたかったものは、何一つ守れずじまいだ)
コルデの妹に果たすべき用事を済ませたら、こんなところからさっさと出ていこう……そう考えて癖毛の頭を振り、顔をあげたときだった。
歌が聞こえた。
やや掠れているが、細くて高い、きれいな女性の声だ。
少女の声のようにも聞こえるから、もしかしたらコルデの妹かもしれない。声の向きから位置を探り、気配を消して近づいていく。戦場でいつもやってきたことだ。水を湛えた小さな噴水の向こうで、小柄な人が髪を梳いていた。まだ日は完全に暮れきっておらず、その髪の色が赤っぽくないことはわかった。地味で、闇に溶けそうな……灰色だろうか。痩せていて、少年のような体型なのに、佇まいが大人びている。男物らしいシャツ一枚の格好で、しどけなく素足をさらしているのは……彼女が娼婦で、仕事を終えたあとだからなのか?
そのひとが顔をあげた。視線をさ迷わせ、ジャンを見つける。くっきりとした、印象的な目。
瞳の色などわからないほど距離があるのに、どきっとした。ジャンを見つけた眼差しの強さと面立ちが、遠い記憶を呼び起こす。コルデではない。この人は、あの若者にはまったく似ていない。知らず、左手が服越しに、胸元の十字架を探っていた。
すぐにも駆け寄りたくなりそうな焦りを、理性で打ち消そうと試みる。
(落ちつけ。これはあの人じゃない、あの人は、川に落ちて死んだはずだ。どんなに探しても見つけられなかったあの人が、娼館なんかにいるはずない)
「そちらにいらっしゃるのは、お客様?」
歌うような声が、胸に刺さった。声すら似ていると感じるのは、『花籠の館』という場所にかけられた魔術のせいだろうか。
「それとも、迷子かしら。ご不浄でしたら、館のなかにありますよ」
「あ……いえ」
なんと声をかけたらいいだろうか。あなたの名前は? 『アンヌ=マリー』ではないのか……『失礼ですがあなたは、幽閉場所からの移送途中に川に落ちて死んだとされている、この国の元王女に似ていらっしゃいますね』とでも?
(阿呆か。訊いてどうなるっていうんだ)
この人が元王女だとしても、王族だとばれたら確実に牢獄に入れられるとわかっているご時世に、正体を明かすわけがない。だいいち、元王女は生きていたとしても、ジャンなど覚えていない。たった三回、いくつかの言葉を交わしたきりで別れた少年のことなど、記憶の片隅にすら残していないはずだ――それがジャンにとっては、生き方を変えるほどの出会いだったとしても。
(おれはあの人たちを尊敬していた。アンヌ=マリー王女と、弟のルイ=ニコラ王太子を。もしもこの女性を金で買えたとしたって、王女の代わりに抱くなんて真似、できるはずがない)
心が決まるとほっとして、同時に、華やかな場所へのむかつきが蘇ってきた。声をかけてくれた女性は親切そうだが、二度と関わることもない相手だ。気安さもあり、つい『花籠の館』という場所に対してのジャンの印象と批判めいたものを口に出してしまったところ……ものすごく、怒られた。
おまえはもの知らずの田舎者だと。革命で頼るものをなくした元貴族の娘たちが、どんな気持ちでここで生きているのか考えもしないのかと。
叱ってくれた彼女は娼婦ではなく……なんと『煙突掃除』を生業にしているという。名前はニナ。
ニナは……アンヌ=マリーの愛称? 別れ際に『煙突の妖精さん』がどうとか言っていたが……彼女の正体がなにかということはもう、どうでもよかった。
煙突掃除の依頼をすれば、もう一度会えるのだろうか。体を買うわけではないのだから、後ろめたさを感じずに……もう一度会ったら、また話をしてくれるだろうか。きっぱりした口調なのに可愛らしい声を、もっと聞いてみたかった。あの強い目で睨みつけてほしいし、説教もしてほしい。
(おれはあの女性に、惹かれたんだろうか)
これは恋というものだろうか、と、ジャンは生まれてはじめて意識した。
アンヌ=マリーを目の前で失ったときから封印してきた私情というものが、高潔さの仮面を壊して出てきてしまう。『煙突掃除人のニナ』にジャンが惹かれることを……ルイ=ニコラは、許してくれるだろうか。
ニナに諭されて『花籠の館』に戻り、娘たちの歓迎を改めて受けながら料理を食べ、少々の酒を口にするあいだもずっと悩んでいたおかげで――すっかり忘れていたのだった。コルデの妹の安否確認。
(まいったな。また連れて行けとクロードに頼むわけにもいかないし……そもそもそんなに手持ちの金もねえし。でも、ニナが『花籠の館』の間借り人なら、エリーゼ嬢のことも知っているかもしれないな)
コルデの母方の祖母は存命で、とある地方のシャトーで暮らしていた。彼女は平民出身だったため、革命の折の騒ぎに巻き込まれることを恐れて元子爵家とは距離を置いていたが、孫たちの安否をずっと気にかけていたらしい。エリーゼを手元に引きとれるならぜひそうしたいと言っていた。
(この知らせをどうにかして本人に伝えてやって……おれにできるのは、そこまでだ。こんな古い汚い家に、女性を引きとれるわけもないしな)
生まれ育った実家の靴屋は、両親亡き後無人のまま放置されており、埃だらけで冷え切っていた。ジャンは暗い階段をのぼって部屋に戻り、ベッドに腰かける。昨日、十年ぶりに帰郷してからシーツだけは新しいものに取り替えたので、いい夢が見られるかもしれなかった。首から外した十字架を顔の前にかざすと、窓から射す月明かりに、真紅のルビーがきらめいた。ジャンは目を閉じ、毎晩の習慣になっている祈りの言葉を呟く。いつもの人たちの名に、その夜からもう一つの名前も加わった。
「アンヌ=マリーとコルデの妹エリーゼと、それから『煙突掃除人のニナ』に……神のご加護を」
【おわり】