地下の星のお姫様
毎週水曜日に彼女は踊る。
狭いステージの上で、仲間たちと踊る。
わずかな観客に見守られながら、もがくように踊っている。
十年前、彼女はお姫様だった。
こんな場所で自分が踊ることになるなんて、少しも想像していなかっただろう。
野暮ったいセーラー服に薄い体をおさめていた彼女は、今年で二十五になる。
二十五の彼女は、ドレスの紛い物みたいな衣装に身を包んでいる。まつげはマスカラとつけまで厚ぼったくかさましされ、髪型なんてツインテールだ。何も手を加えなくても輝いて見えた顔は、似合わない服やメイクで台無しにされている。
でも仕方ない。お姫様でなくなった彼女は、そうしないと生きていけない。安っぽくてサイズの合ってない衣裳と、凜とした顔立ちに似合わない甘すぎるメイクが、かろうじて今の彼女を生かしている。
彼女のメンバーカラーである赤のペンライトをぎこちなく振ると、何度も目が合った。視線が交差する度に、彼女は笑った。媚びが糸を引くような、べとついた笑みだった。昔は周りに媚びさせることしか知らなかったはずの彼女が、いったいいつの間にこんな笑い方を覚えたのだろう。
自然と口角が引き上がる。笑い返されたと思ったのか、彼女はサービスとばかりにウインクを飛ばした。
恍惚がつま先を痺れさせる。神様、と叫び出したくなる。
スピーカーを震わす爆音が、骨にまで響いた。
ステージの上で彼女の仲間が叫ぶ。
「みんなー、まだまだいけるよねーっ!?」
まばらな観客たちが人数の少なさを声量でカバーしようと、地鳴りのような声で応えた。
それじゃあいっくよー、と彼女たちは拳を天に向かって突き上げる。
私も赤いペンライトを、大きく頭上に振りかざした。
「真木さん、あのね、この間も言ったと思うんだけど」
金曜の朝、隣席の山本さんが言いにくそうに切り出した。周囲の人たちはそれぞれの仕事に集中するふりをしながら、聞き耳を立てている。
「さっき提出してもらった資料、開いてみてくれる?」
それは私が昨日九時までかかって仕上げたものだった。嫌な予感に喉が詰まり、「何か間違ってましたか」と答える声が掠れた。
「間違ってるっていうか、売価じゃなくて原価で計算しちゃってるみたいで……」
後は言わなくてもわかるよね、というように山本さんは均一にカールさせたまつげを瞬かせた。
「す、すみません」
先週も同じミスを山本さんに注意されたばかりだった。その時山本さんが着ていた淡いイエローベージュのカーディガンの色は思い出せるのに、どうして「原価じゃなくて売値を入力して」という単純な指示を忘れるのだろう。
「それで、悪いんだけど。週明けには使う資料だから、今日中に直してほしくて」
「わ、わかりました。すぐにやります、すみません」
「今度はさ、できあがったらチェックさせてくれる? 早めにもらえると助かるなあ」
山本さんはお子さんがまだ三歳なので、時短勤務で四時には帰る。そうすると最低でも二時までには渡した方がいいから、すぐにとりかからないといけない。今日やろうと思っていた作業は後回しにして、あ、でも営業に回す用のデータ入力も昼までにはやらないといけないし、楠木さんに振られた仕事は期限はまだだけどそろそろ手を付けないと機嫌が悪くなりそうだし、と考え始めると何からやっていいのかもうわからなかった。
「真木さん、無理そう?」
山本さんの綺麗な形の眉がハの字にひそめられる。
すぐに返事ができないでいると、山本さんはため息を吐いて椅子を引いた。
「データ送ってもらえる? 今回は私がやっちゃうから」
「あ、いえ、できます! 直しますから」
けれど、山本さんは自分のパソコンに向かったまま返事をしなかった。あの、と声をかけても反応がない。仕方がないので、間違った資料データを山本さんのパソコンへドロップする。送りました、とつぶやくと「うん」という声だけがかえってきた。
今回は私が直す、と山本さんは言った。だけど前回も手間取る私を山本さんは三時まで待ち、三時きっかりに「私が直すから」と言ってデータを取り上げた。
出社したばかりなのに、もう家に帰りたい。
見たくもないのに、向かいの席の石森さんが「いつも大変だね」と山本さんに目配せしているのが視界に入ってしまう。山本さんは「後輩のフォローも仕事の内だから」みたいなデキる人っぽく笑い返す。でもそれは相手が石森さんだからで、私相手には相当イラついている。それも当然だ、一度ならず二度までも同じ間違いの尻ぬぐいをさせられるのだから。おまけに新人ならまだしも、私はすでに入社して三年になる。
誰かが忍び笑いを漏らした気がした。気のせいかもしれないと言い聞かせても、羞恥心が顔をうつむかせた。思わず席を立ち、洗面所に向かう。
個室に入ると、今ごろ部署のみんなが顔を見合わせ「真木さんねえ、いつまでたってもねえ」とささやき交わしているような気がして、便座から立ち上がれなくなった。
下腹がかすかに疼く。
そういえばそろそろ生理の時期だったかもしれない。今日はナプキンを持っていない。せめてどうか昼休みまでは始まりませんように。そう祈りながらストッキングを引き上げた拍子に伝線した。
三年経っても、ストッキング一つまともに扱えない。
トイレットペーパーで鼻をかんでお手洗いを出ると、同期の藤島くんとすれ違った。
「おはよ。あれ、真木さんなんか元気ない? 大丈夫?」
藤島くんは、仕事ができない上にかわいくもない私にも優しい。特別イケメンではないけどやわらかい雰囲気で、みんなに好かれる人だ。社内で唯一、藤島くんとだけは緊張せずにしゃべれる。
「ううん、大丈夫。ただちょっと、またミスして先輩に迷惑かけちゃって……」
「仕事はフォローし合うのが当たり前でしょ。気にすることないって」
「うん……。ありがとう」
「もうすぐ盆休みだしさ。ゆっくりしなね」
無理しないで、と軽く手を振って藤島くんは行ってしまった。
優しさは有り難いが、たぶん藤島くんも私と同じ部署になったら呆れてそんなことは言ってくれなくなるだろう。この先一生同じ部署に配属されませんように、とハンカチを握りしめた。
もう転職した方がいいのかな、と思いつつまた就活しないといけないことを思うと気が重かった。それに職場を変わったところで、私の仕事のできなさが消えてなくなるわけでもない。ちょっとくらい気まずくても、今の職場にしがみついた方がたぶんましだろう。
鬱々とした気分を引きずったまま、盆休みを迎えた。予定のない私は、おとなしく北関東の田舎に帰省した。
帰ってきても特にすることはない。地元に、大人になってまで会う約束をするような友人はいない(東京にだっていないけど)。
少しでも暇を埋めようと、夕食後にアイスを買いにスーパーに出かけた。
「え、真木さん? 久しぶりじゃん!」
そこで中学の同級生である木村さんに声をかけられた。久しぶり、元気、今どこ住んで何やってんの、と基本のセットを一息にしゃべり終えると、木村さんは指輪の光る左手薬指をさりげない仕草で見せながら「私はさ、結婚して東京からこっち戻ってきたんだよね」と切り出した。反対側の手には、三歳くらいの男の子の手が握られている。
「あ、そうなんだ」
地味な私と違って活発だった木村さんとは、中学時代はろくに口をきいた覚えがなかった。あの頃交わしたどの会話よりも、今のこれが一番親密で長い会話な気がする。
「真木さんは東京で頑張っててえらいよ。あたし一年も持たないで疲れちゃってさ」
木村さんは、記憶の中よりも肉のついた顔で笑った。
「で、結局妊娠して地元戻ってきた。旦那、高校の時の彼氏なんだけどね。どうせこうなるなら、東京で就職なんかするんじゃなかったわ」
そうかもね、と答えた私の声は弱々しかった。言葉とは裏腹に、木村さんの声にはどこか勝ち誇ったような響きがあった。
「いいな。私も地元に帰ってきたいよ」
「たしかに、一回地元出た奴もなんだかんだ戻ってきたりしてるよね」
結局みんな根が田舎者なんだ、と木村さんは笑った。
「今もまだ東京いるのって、真木さんと山田と、あと……百合香もそうか」
百合香。
人の名前をすぐに忘れる私でも、その響きは覚えていた。
三峰百合香。
私たちの中学に君臨していたお姫様の名だ。彼女のその地位は、生まれながらのものだった。ずば抜けて美しい容姿が、その地位の根拠であり証明だった。歯並びだけが少し悪くて、笑うと唇の端に白い歯がのぞいた。けれど尖った八重歯の先っぽは、完璧な顔を余計に魅力的に見せるだけだった。
彼女はいつも人に囲まれていた。その顔ぶれは男子も女子も、クラスのてっぺんにいる人たちばかりだった。彼女は中でもお気に入りの男子を隣に置いた。彼女に侍ることを許された男子たちはみんな、その地位を射止めようと目をぎらつかせていた。そのポジションは彼氏と呼ばれてはいたけれど、私の目にはまるで愛玩犬のように映った。いっとき、耳の後ろをかいて喜ばせてあげるだけの犬。その証拠に、「彼氏」は頻繁に入れ替わった。
ともすれば彼女の容姿や行いは同性から反発を呼びそうだったけど、中学の皆は攻撃するよりもほめちぎることで、三峰百合香を自分から遠ざけていた。
『百合香が一番かわいい』『並んだらあたしらガチでモブじゃん』『三峰さんにこんな田舎似合わないよね』『整形級』『その辺のアイドルよりかわいい』『東京行ったら絶対スカウトされるよ』『美人すぎて心配』『三峰さんに告るとか身の程知らずでしょ』
それらの言葉が、三峰百合香を私たちの頭上に押し上げていた。
「三峰さん、懐かしいな。元気にしてるの?」
何がおかしいのか、木村さんはくすくす笑い出した。十年前なら、誰もお姫様の前でそんな風には笑わなかった。
「元気元気、ちょー元気だよ。知ってる? 百合香が今なにしてるか」
私は無言で首を横に振った。
中学時代の私は、三峰百合香を避けていた。彼女がそばを通ると目を伏せた。彼女について余計なことを言えば、取り巻きに睨まれるのは目に見えていたからだ。その習慣は今も体に染みついたままらしかった。
「東京で働いてるんじゃないの?」
「働いてる……や、まあ働いてんだろうけどさ」
木村さんがスマホで何かを検索しだすと、手を繋いだ子が恥ずかしそうに服の裾を引っぱった。
「ママ、おしっこ」
「ええ? さっき行ったばっかじゃん」
でもがまんできない、と男の子はうっすらと涙を浮かべた。もう、と木村さんは息子を抱き上げる。
「ごめん、もう行かなきゃ。後でメッセ送っとくから、絶対見て。まじ笑えるから」
一方的にそう言うと、木村さんは息子を抱えて行ってしまった。
アイスを提げて実家の玄関に着いたところで、スマホが震えた。
『さっき言ってたやつ、これ! 感想聞かせてね』
歯をむき出しにして笑う絵文字が末尾にくっついていた。いったいいつ木村さんとID交換したんだっけ。自室に戻り、ベッドの上でアイスのパッケージをむきながら考えても、思い出せなかった。
口ぶりからすると、三峰百合香はあの容姿を生かして人に言えないような仕事をしているのかもしれない。
たぶん見ない方がいいんだろうなと予感しながら、送られてきたURLをタップした。いきなりどぎつい肌色が画面に表示されてもいいように心構えをし、スマホの音を消して待った。けれど飛ばされた動画投稿サイトは誰もが知っている子供も見るもので、画面は肌色ではなく赤一色に染まった。
狭いライブハウスのステージを映しているのだとわかった。
赤い光の中に、五人分のシルエットが黒く映りこむ。スマホのサウンドを戻したところで、素人感まるだしのカメラが揺れ、爆音が鳴り響いた。
『みんな、今宵も我々の館へようこそ~!』
甲高い声が叫ぶと、照明が点いて五人の顔が白く映し出された。
全員が涙袋を強調し濃くアイラインを描いた独特のメイクをしていて、髪型の違いがなければすぐに誰が誰だかわからなくなりそうだった。
『それじゃ、最初から飛ばしてくよ!』
『着いてきてね、漆黒の翼で!』
『ふぉ~ちゅん♡ヴぁんぱいあ!』
五人が一斉にターンして後ろを向くと、ぺらぺらの黒いスカートが揃ってなびいた。
不安定な音程で歌い始めた一人がこちらを振り返り、フレームががたつきながらもアップになる。その口元で、八重歯が光った。
「あ」
早くも溶けだしたバニラアイスが、ぽたりと画面にしたたった。
それは、私の知る姿から十年分の歳をとった三峰百合香の顔だった。
踊る彼女が揺らす髪は、中学時代にみんなが羨ましがったサラサラの黒髪ではなく、茶髪に赤メッシュ、毛先がウェーブしたツインテールだった。
ソロパートを歌い終えると三峰百合香は画面から消え、見知らぬ女の子に切り替わった。
ティッシュでアイスをふき取り、三峰百合香のアップまで戻る。もう一度再生すれば、こちらを振り返る顔が別人のものに変わっている気がした。けれどスマホに映し出される白い顔は、さっきと変わらず三峰百合香その人でしかなかった。
いつの間にかアイスを食べ終わり、手には棒だけが残っていた。口の中が甘ったるい。
詳しくない私にも、これがいわゆる地下アイドルと呼ばれる人たちのステージなんだとわかった。どうやらアイドル側の彼女たちは何百年も生きるヴァンパイアで、ファンはその下僕という設定らしい。
気付いたことがある。
三峰百合香は、十年前ほどには美しくなかった。顔立ちが変わったわけでもないのに、かつて持っていた、会う人すべてを魅了する輝きは失せていた。普通の人と比べれば、今だってかわいい。だけど十年前と同一人物とは思えない。彼女をお姫様でいさせた魔法は、どうやら有限のものだったらしい。ブレイクした子役が、大人になると姿を消すことは多い。三峰百合香も、そういう子供の時にだけ輝くタイプだったのだろうか。それとも、田舎の中学にいたからあんなに魅力的に見えただけだったんだろうか。
三分ほどであっけなく終わってしまった動画を、もう一度繰り返す。終われば、もう一度。繰り返し繰り返し、何度も三分をループした。
三峰百合香がそこにいるという驚きが落ち着くと、粗が目につくようになった。マイクの音が割れ、歌詞はほとんど聞き取れない。ダンスは揃っているが、だからといって目を引くわけでもない。時おり映り込む客席に、人の姿はまばらだ。けれどその少ない人々が一心不乱に、もしかするとステージ上の女の子たちよりも激しくペンライトを振って踊る姿は異様だった。
何度目かの再生が終わり、スマホの液晶は暗くなった。
おそるおそる、彼女たちが連呼していたグループ名を検索窓に打ち込む。
『フォーチュンバンパイア』
それらしきものはヒットしない。検索結果の上位に並ぶのは、数年前に流行ったアニメの劇中歌のことばかりだった。検索ワードを追加する。
『フォーチュンバンパイア 地下アイドル』
そこでやっと公式サイトがヒットし、彼女たちのグループ名表記が正しくは「ふぉ~ちゅん♡ヴぁんぱいあ」であることを知った。あまりにもあまりなネーミングにおののきながらサイトに入る。
そこには、お世辞にも写りがいいとは言えない三峰百合香の宣材写真が掲載されていた。
名前の表記は「ゆりあ」。
やはり「ゆりあ」は三峰百合香に比べればずいぶん色褪せて見えた。それでもほくろの位置や矯正されることなく今も残る八重歯が、彼女があの三峰百合香以外の誰でもないことを示していた。
公式サイトの更新は一年ほど前で止まっており、彼女たちが五人グループらしいことしかわからなかった。次に私はSNSに飛び、ひたすらに『ふぉ~ちゅん♡ヴぁんぱいあ』を検索した。いちいち打つのが面倒くさすぎるので辞書登録までした。結果、公式サイトが放置されているのは単なる運営の怠慢で、彼女たちは秋葉原や渋谷で今も元気に活動していることがわかった。
動画サイトでかたっぱしから『ふぉ~ちゅん♡ヴぁんぱいあ』の動画を見て回った。どんなに再生数の少ない、画質の悪すぎる動画でも目を通した。SNSには新しいアカウントを作り、公式アカをフォローした。アカウント名は「magi」。本名の真木を濁らせただけの単純な名前だ。自分から何か発信する気はないから、名前なんて適当でいい。リストも作って、彼女たちについて頻繁に話しているアカウントを次々に放り込んだ。
それで、気付いたら朝になっていた。歯も磨かず、アイスの棒はかたわらに落ちたままだった。
この一晩で私は、三峰百合香の現在について多くを知った。
七年前に地下アイドルとしてデビューし、今のグループで三年前から活動していること。所属グループはどれも知名度が低く、地下ドル界隈でもさして人気があるわけではないこと。歌は微妙、ダンスは普通。ライブのたびに自らビラ配りを行っていること。何十歳も年上の男の人とハートマークを作って写真を撮ったりしていること、それがネットで簡単に見られること。今のグループでは最年長だということ。メンバーで一番SNSのフォロワー数が少ないこと。今年二十五のはずだが、公式プロフィールでは二十二となっていること。
早朝の光に照らされながら、押し入れから卒業文集を引っ張り出す。一度眺めただけでしまいこまれていたアルバムからは、ほこりの匂いがした。
『三年二組 みんなの夢』
思い思いの下手くそな字で寄せ書きされたページを開くと、センターを占めた三峰百合香の言葉はすぐに見つかった。
『夢はアイドル! 笑』
笑、という文字を言い訳のように背負っているけれど、私はこの言葉が本心だったと知っている。
真木と三峰。私たちは出席番号が前後だった。
中学三年のある日、放課後に三者面談があった。私は自分の番を終え、西日の差し込む教室に一人でいた。母を校門で待たせているので急いで帰り支度をしていると、三峰百合香が教室に戻ってきた。
思わず目が合う。それだけで私はどきまぎした。三峰百合香はみんなのお姫様で、教室で息を潜めている私みたいなのとは、生きる世界が違った。
『も、もう終わったの? 早かったんだね』
黙っているのもおかしいかと思ってなんとかそれだけ言ったけれど、三峰百合香は私の方を見なかった。ただ、茜色に染まった窓の外を睨んでいた。気まずくなってそそくさと教室を出ようとすると、三峰百合香が口を開いた。
『私はさ』
声には怒りが滲んでいた。
三峰百合香の誰よりかわいい顔が、ぐりんと私の方を向く。
『私は、アイドルになるから』
三峰百合香の目の中に私がいた。言葉そのものよりも、視線の強さに圧倒されて唾をのんだ。
彼女が鼻をすすったので、泣いてるんだと気が付いた。きっと、無理解な親や教師に夢を否定されたんだろう。
私は声を絞り出した。みんなのお姫様をいま慰められるのは自分しかいないという優越感が、喉の滑りをよくしていた。
『三峰さんなら、絶対なれるよ』
『ほんとにそう思う?』
私はバカみたいにこくこくと何度も頷いた。
三峰百合香は強張っていた表情をいくらか和らげ、指先で目の端を拭った。
『ありがとう。真木さんがそう言うなら、きっとなれるって気がする』
真木さんが言うなら、という言葉は私を酔わせた。のちに大学に入ってから飲んだ安酒なんかよりもずっと、私を芯から痺れさせた。
「のぞみー! 朝ごはん用意したけど食べるでしょ?」
階下で母が叫んだ。まるで自分が中学生に戻ったような気がして、びくりと体が跳ねる。その拍子に握っていたスマホが床に落ち、液晶にひびが入った。
短い夏休みを終えて東京へ戻っても、私は毎日「ゆりあ」やその周辺の人物のSNSに張り付いていた。朝の満員電車の中でも、職場でトイレに立った数分も、一人でお弁当を食べている時も、ベッドに入って眠りに落ちる寸前まで、ずっとひび割れた画面の中の文字や映像を追っていた。
おかげで、これまで関係なかった世界のことをたくさん知った。ちゅんヴァ(彼女たちのグループ名をファンはこう略す)で、一番フォロワーが多くてリプも多いメンバーが「りりあ」。ミルクティー色のふわふわした髪の毛に、甘い顔と甘い声を持つ。担当カラーはベビーピンクで、歳は十九。好きな食べ物の欄には「いちごみるくとパンケーキ」とある。
胸やけしそうに甘い女の子のりりあは、ファンへの媚びを隠さない。こういう女の子がいたらいいなと皆が夢見るだろうアイドル像を、痛々しいまでに体現している。
正直最初は引いたが、地下アイドルたちを見慣れてくると、りりあはまったく正しいのだとわかった。だって、アイドルはファンがそうあってほしい姿を見せてくれるものだ。りりあは何も間違っていない。
それにひきかえ、ゆりあは全然正しくなかった。アイドルに詳しくない私でも、間違いまくっているのがわかった。
平たく言えば空気が読めない。MCでもSNSでも、黙っていればいいのに余計なことを言う。中学時代も、彼女は場の空気なんか読まずに発言した。当時の彼女が口にしたことなら、本心では腹を立てたり傷ついていても、みんな笑ってみせた。だけど魔法の解けた今となっては全然ダメだ。誰もゆりあの癇に障る発言を聞き流してはくれない。
その証拠に、ゆりあにはアンチが目立った。ふつうアンチはファンの数に比例するものだけど、ゆりあはそれに当てはまらなかった。ファンは多くないのに、アンチばかりが目についた。
『ゆりあ今日もフリ間違えてたよね』
『目合ったらなんか睨まれた』
『MCでりりあが絡んであげてんのに塩だったし』
『プロ意識ないの? 最年長なのに』
こういう言葉は、わざわざ探さなくてもゆりあの投稿に直接リプが付いているのでいくらでも見ることができた。今日はやたらにリプの数が多いなと思った日は、だいたい叩きコメントがその数を押し上げていた。
ゆりあは「そういう人」、「叩いてもいい人」というレッテルを貼られているらしかった。
『ゆりあ、いいかげん見てるのキツい。二十二は絶対ない』
『ゆりあいるせいでりりあにかけられる予算減ってるの許しがたいんだが』
『ブスななのに性格まで終わってんの、救いない』
ブスという文字を見た時はさすがに目を疑った。
ゆりあが、三峰百合香が、ブス?
私はカメラロールを開き、ゆりあの写真を何枚も拡大して確認した。私のカメラロールはたった半月で、ゆりあの写真で埋め尽くされていた。
ブスじゃない。十年前には劣るかもしれないけど、絶対にブスじゃない。
思わず、そのリプライが映った画面をスクショした。
掌が熱を持つ。
ゆりあに向けられた「ブス」という言葉を見つめていると、喉の奥から甘い味が染み出してくるような心地がした。それは、ゆりあが踊る動画を初めて見た日になめていたアイスの甘ったるい味に似ていた。
それから毎日、更新されるゆりあの写真に加えて、彼女へ向けられる幼稚な敵意をスマホに保存した。膨大な枚数のそれらの画像がおさめられたスマホを持ち歩いていると、少しは息がしやすいような気がした。職場で「真木さん、ちょっと」と声を掛けられても、また何か間違えたのかと身を竦めずに済んだ。
そうしているうちに暦上の夏は終わり、街の人々は汗をかきながら無理して秋服を着込むようになっていた。それでもちゅんヴァのメンバーは、真夏と同じ衣装で踊っていた。彼女たちが生きるあの狭い場所には、季節なんか存在しないみたいだった。
変わり映えしないイベント告知を繰り返すだけのちゅんヴァにも、変化があった。十二月から年始にかけて開催される、地下ドル選抜オーディションへの出場が発表されたのだ。
各グループから代表一人が出場し、勝ち抜けば一年限定のユニットを組んでメジャーデビューが確約される。オーディションの模様はネット配信され、最終審査の投票権は視聴者にもあるらしかった。オタクたちは盛り上がっていたけれど、私は興味がなかった。審査員の名前は誰一人聞いたことがなかったし、メジャーデビューしたところで地上波の歌番組に出られるわけでもない。せいぜいニュース番組のエンタメ特集に一瞬映れたらいいなくらいのものだろう。所詮は地下ドル界隈だけの祭りでしかない。
それに選抜番組に出るのは当たり前のようにりりあで、ゆりあには関係ない話だった。りりあは番組用のPVやスチール撮影で忙しそうだったけど、居残りの四人は毎週ライブして、特典会して、たまに対バンして、いつもと変わらないその繰り返しだった。
その日も残業だった。誰もいないフロアでキーボードを叩いていると、藤島くんがデスクまでやって来た。要領が悪いのを見られたくなくて、手を止める。
「遅くまで大変だね」
「ううん、自分が仕事遅いせいだからしょうがないよ。藤島くんは今帰り?」
ほのかな期待に胸を膨らませながら、なんでもないふりをして笑った。
「うん。真木さんがもし上がれそうなら、どっか飲みにでもと思ったんだけど……」
はっとして藤島くんの顔を見た。他人の顔を正面から見るのは、ずいぶん久しぶりの気がした。
「あ、無理そうなら大丈夫。また今度誘うから」
「ま、待って、平気だから。もう帰ろうかと思ってたところで……」
本当? と藤島くんが頬をへこませて笑う。急いでファイルを保存、パソコンをシャットダウンした。今仕事を終わらせてしまって本当に大丈夫なのか、私の頭はちゃんと考えられていない。でも藤島くんが私を誘ってくれている。今を逃せば、次がある保証はない。
パソコンの液晶が黒くなったところで、かたわらに置いたスマホが入れ替わりに白く点灯した。
ゆりあがSNSに投稿した通知だった。
反射的にスマホを手に取り、通知をタップする。
「どうしたの? なんか連絡入った?」
藤島くんの声は聞こえているのに、私の目はスマホの中の小さな文字を必死になって追っていた。
『この度、地下ドル選抜フェスに出演することになりました! がんばるので、応援よろしくです』
どういうことだろう。
選抜フェスに出られるのは各グループから一人のはずだ。
ゆりあの投稿を見つめているうちに、さっそくリプライの数が「1」と表示された。反射的に表示させると『どういうこと? りりあは出ないの?』と書かれていた。アイコンには見覚えがある。りりあの強火オタクだ。前々からゆりあには当たりが強い。
番組の公式とりりあのアカウントに飛んだが、両者ともこの件についてはまだ何も言っていなかった。ちゅんヴァの公式も一応覗いたけど、いつものごとく沈黙している。
「真木さん?」
藤島くんの怪訝そうな声に、はっと我に返る。
「ごめんね、藤島くん。やっぱり今日は無理そう」
私の口はそう言った。
こんなの間違ってる。藤島くんとご飯に行って、その後でこの件がどういうことなのかゆっくり確かめればいいだけだ。わかっているのに、舌はちっとも訂正の言葉を発しようとはしなかった。
「そっか。こっちこそ急にごめんね」
「ううん、ほんとにごめんね」
藤島くんがエレベーターに向かうのを見送る。藤島くんが来てくれた時はあんなに嬉しかったのに、今はそのゆっくりとした歩調にいらいらしてくる。
藤島くんの姿が消えた途端にスマホをつかむと、リプの数は1から5に増えていた。椅子に体を沈め、その一つ一つに目を通す。
ぜんぶりりあのオタクからだった。
『なんでゆりあが出るの?』『りりあは?』『説明なし?』『公式からの発表もまだだけど』
ゆりあを責める言葉さえないものの、短い言葉からはいらだちが透けて見えた。
その時、リプの数が5から6に変わった。
他のリプライとは明らかに異質な、絵文字の乱舞する文字列が表示される。
『ゆりあ! 急に代わってもらうことになっちゃってごめんね、ありがと! ゆりあなら絶対選抜入れるって信じてるから♡』
あっという間にそのリプにいいねがつき、ゆりあの発言そのもののいいね数を軽く越えていくのを横目に、りりあ本人のアカウントに飛んだ。
『番組楽しみにしてくれてた下僕たち、ほんと~にごめんね! りりあ昨日のライブで右足首を捻挫したみたいで、出演は見送りになっちゃったの。りりあは大丈夫! ヴァンパイアは不死身♡だから、かわりに出てくれるゆりあを一緒に応援してね♡』
あっという間にリプが付き、数字は二桁に膨らむ。
『りりあ無理しないで』『怪我大丈夫!?』『悔しいだろうにゆりあのこと応援しちゃう、そゆとこが推し』
りりあはいつも間違えない。ゆりあはいつも間違える。
でも、そんなことは今はどうでもいい。
ゆりあが選抜フェスに出る。
いつもよりずっとたくさんの人の目に晒される。それを思うと、寒くもないのに太ももに鳥肌が立った。
通勤に厚手のコートが必要になった頃、選抜オーディションが始まった。百を越える参加者の中から、選ばれるのはたった十人だ。番組は週に一度更新され、いくつかのグループに編成されて課題曲を披露し、審査を受ける。そして毎回脱落者が出る。一次審査では、各グループごとに半数が脱落するらしかった。
私はゆりあが一次審査を突破するように祈った。視聴者投票は最終審査だけだから、今は祈るしかない。番組にはそこそこ知名度のあるグループのメンバーも参加しているから、どうせ最後の十人には選ばれないだろう。だけど最初から落ちたら世の人に見つけてもらえない。番組に出た意味がない。
祈りの甲斐あってか、ゆりあは一度目での脱落を免れた。
別にゆりあがいいパフォーマンスをしたわけじゃない。ゆりあはいつもどおり、可もなく不可もなく曲をこなしていただけだ。
ゆりあが組み込まれたグループの審査時、緊張のせいか盛大に転んだ子が一人いた。しかもどこか痛めたのか、なかなか立ち上がれなかった。メンバーの判断は分かれた。その子の存在をなかったことにし、踊り続ける子。パフォーマンスを中断し、駆け寄る子。
ゆりあは前者だった。
そのまま曲は終わり、審査を迎えた。
審査員のドルオタユーチューバーや、名前を聞いたこともない若手芸人は、カメラに向かって頭を抱える仕草をしてみせていた。
配信のコメントでも意見が割れた。アイドルなんだからパフォーマンスを優先して当たり前という人がいれば、深刻な怪我を負ったかもしれない子を放置するなんてという人もいた。
そして結果が言い渡された。アクシデントを無視して歌い続けたメンバーが合格し、そうでないメンバーは落ちた。
そこからコメントは荒れに荒れた。落とされたメンバーのファンは吼え、受かったメンバーのファンは彼らを煽った。両者の対立だけに終わらず、審査員に暴言を吐いたり、最終審査にしか投票できないシステム自体を批判したり、選抜メンバーは最初から決まってるに違いないと主張する人まで現れる始末だった。画面には一次審査のダイジェスト映像や、二次審査に進むアイドルの意気込みコメントが流れていたけれど、誰もそんなもの見ていなかった。
次第に、転んだアイドルに怒りが向けられた。
泥沼と化した配信で、『ちょっと待ってよ。あすみんは悪くないじゃん』と一人が課金を示す色付きのコメントを発した。きっと転んだアイドルのファンなんだろう。
『それよりみんな見て。転ぶ前、この子に足引っかけられてない?』
思わず動画を巻き戻した。配信を見ているほとんどの人もそうしただろう。
前列のメンバーがターンし、後列と入れ替わる。その直後に転倒が起きる。
たしかに、すれ違う後列メンバーと足がぶつかっているようにも見えた。
すれ違ったアイドルの顔を見て、息をのんだ。
ゆりあ。
『元はと言えばこの子のせいじゃん。こんな形で番組めちゃくちゃにして人のこと傷つけて、最低だよ』
流れは一気に変わり、あすみんへの怒りはそのままゆりあに向けられた。
動画を見ただけじゃ故意に足をかけたかはわからなかったけれど、それが確定した事実みたいに言う人も多かった。推しが落とされた人は怒りの矛先を求めてるし、関係ない人達は事実がどうであれ面白い方に流れる。それにゆりあには、反論してくれるファンも数人しかいない。
配信が終了しても、SNSに会場を移して欠席裁判は続いた。今回の審査は不当だと運営に訴えるため、署名を募る人まで現れた。
界隈の熱狂にひきかえ、ちゅんヴァのファンの反応は冷めたものだった。
『りりあが出てたら、こんなことにならなかったのにな』
おおむねその一言に集約されていた。
そして誰かがぽつりと言った。
『りりあもゆりあに何かされたのかもしれない。番組出るために怪我させられたのかも』
そこからは、まるで山火事だった。そんなはずないって、九割の人はわかっていた。だけどりりあが番組に出られなかった悲しみを、悔しさを、石にして誰かに投げつけたくてしょうがなかったのだ。
私はゆりあが業火になぶられるのをただ見ていた。嵐のように降り注ぐ言葉を、淡々とスクショした。
画像データがストレージを圧迫しスマホの容量が残り少なくなった頃、ゆりあが体調不良で番組を辞退し、しばらく活動を休止する旨が公式アカウントからアナウンスされた。
まだ誰もいいねをつけていないその投稿に、当てつけのようにハートマークを押した。
チン、と音を立ててエレベーターが地上に着く。
ノー残業デーのため、すでにほとんどの照明が落とされたエントランスは薄暗かった。週明けまでの仕事が終わっていない私は、上司に「困るんだよね」とため息を吐かれながらも一人で残業していた。早く家に帰ったって、ゆりあの昔の写真や動画を眺めるか、新たな罵詈雑言を収集するくらいしかすることがない。ゆりあの存在を知る前に自分が何をしていたのか、もう思い出せなかった。
アクシデントのあったあの日から、ゆりあのSNSは一度も更新されていない。
エレベーターホールを出ると、がらんとしたエントランスの出入り口近くで、藤島くんと隣の部署の西山くんが話しているのが見えた。不自然に食事を断ってから、なんとなく藤島くんとも顔を合わせづらい。
裏手の搬入口から出ようと二人に背を向けたところで、話し声が耳に飛び込んできた。
「お前さー、あんま構ってると、あんなのが好みなんだって思われるぞ」
「あんなのって?」
「真木だよ、真木」
思わず足を止める。
あれ、あんなの、ああいうの。
そういう風に呼ばれるのは学生時代から慣れているはずなのに、後頭部が熱くなった。
「だって実際、好みだし」
心臓が止まりそうになる。
西山くんが茶化すように上げた声が遠く聞こえた。
けれど続く言葉は、私にとどめを刺した。
「真木さんって仕事できないじゃん」
思わず声を上げそうになり、とっさに口元を押さえた。
「地味でブスだし気も利かないし、声小さくて何言ってんだか聞き取れないし」
「待て待て待て、お前真木のこと好きなんじゃなかったの?」
「好きだよ。俺、そういう子が好きなんだよね。これまでの彼女もみーんなおんなじタイプ。見てると安心すんだよ。自分がこうじゃなくてよかったって、確認してんのかもな」
うわー、と高い声を西山くんが上げた。
「でも、真木さんはないかな。この間、せっかく誘ってやったのに断られたし」
「お前、裏表のギャップほんとえぐいわ」
言葉とは裏腹に、西山くんはずいぶん嬉しそうに笑った。
その時、コートのポケットで、ポコンとスマホが鳴った。
反射的に振り返ると、藤島くんと目が合った。
やば、という表情をした西島くんの隣で、藤島くんは目を逸らすでも気まずそうにするでもなく、口元だけでへらりと笑った。
思わず搬入口に向かって駆け出した。パンプスの踵が床を鳴らしてうるさかったけど、一度も足を止めなかった。
怪訝そうな顔をする守衛さんを横目に、外へと飛び出す。冷えた外気が頬に触れて、ようやく走るのをやめた。息を整えながら歩き、ポケットからスマホを取り出す。
通知欄に浮かんでいたのは、ちゅんヴァの公式アカウントからのお知らせだった。
『体調が回復しましたため、次の公演からゆりあが活動に復帰いたします』
スマホをポケットに落とすと、踵を鳴らして足早に駅へと向かった。吐く息がいちいち白く浮き上がるのがうっとうしかった。
ホームで電車を待つ列に並んだところで、スマホを手にとる。
りりあのファンの反応は予想どおりだった。
『このまま卒業でもよかったのに』『ゆりあがいたら、りりあが安心して活動できないじゃん』『人気もないしもういい歳なのに、なんでまだ居座んの?』
長く伸びた列を抜け、壁際の青いベンチに腰かけた。ベンチは冷え切っていたけど、私の体はかっかと火照っていたのでちょうどいいくらいだった。
息を吐き、「magi」のアカウントにログインする。
今まで一言も発したことのなかったmagiが、ゆっくりと口を開く。
『りりあ信者の民度低すぎ』
ゆりあの復帰に文句を言うアカウントの一つにリプを飛ばす。返事を待たずに、次のターゲットを定めてリプライを送る。
『ゆりあが足かけた証拠なんかどこにもないだろ、思い込みでしゃべんな低能』『りりあの人気だってちゅんヴァの中でだけだろうが』『ゆりあがブスとか、鏡見てからもの言えブス共』『夢見させてもらってる分際で文句ばっか垂れんなカス』
ヤバいリプもDMも大量に届いたけど、止まらなかった。
涙だか鼻水だかが画面に垂れる。ティッシュを取り出すのももどかしくて、マフラーの端で拭った。
バカみたいだ。
みたいじゃなくて、私は正真正銘のバカだ。
ゆりあがいろんな言葉でおとしめられるのを、これまで私は半笑いで眺めていた。あの三峰百合香が私よりもずっとひどい言葉をぶつけられるのを観察するのは、狭いステージで、ださい衣裳で歌い踊るしかない彼女を笑うのは、気持ちがよかった。
だから、ずっとゆりあを見ていた。
私は藤島くんと同じだ。ゆりあと自分の境遇を比べて、これよりはマシだと自分を慰めていた。
自分は何もしないくせに。人前に立つどころか、退職届を上司に提出することを想像するだけで怯える臆病者のくせに。
卒業アルバムの夢のページのすみっこに、私は『夢はまだ見つかってません』と小さな文字で書いた。どんな無謀な夢を宣言するより、みっともない言葉だ。夢なんて、最初から見るつもりもなかったくせに。夢を追うかっこ悪さを晒す度胸なんて、これっぽちもなかったくせに。
こんなことをして、私はゆりあを庇っているつもりなんだろうか? 罪滅ぼしをしてるつもりなんだろうか?
ちがう、ちがう。全部ちがう。
頭の芯が熱くなる。もう涙が零れても、拭うこともしなかった。通り過ぎる人がぎょっとした顔をするのがわかったけど、どうでもよかった。
そんなことに構っているひまがあるのなら、画面の中にいる相手のことを少しでも傷つけたかった。少しでも多く、嫌な気持ちになってほしかった。
私と同じところに落ちてほしかった。
スマホの電池がなくなり、画面が暗くなってようやく顔を上げた。駅の時計は、終電に近い時刻を指していた。ホームに滑り込んできた電車に、慌てて乗り込む。割れた画面を擦り続けたせいか、ポケットに突っ込んだ親指はひりひりと痛んだ。
三峰百合香に会いたい。
画面の中で彼女に再会して初めて、そう思った。
水曜の仕事帰り、渋谷に向かった。
クリスマスの電飾が目にまぶしい。猥雑さの溶けだした寒風が首元を通り抜け、身を震わせた。
ライブ会場は動画で見た通り狭苦しく、かすかにカビ臭かった。客の数はまばらで、どこに身を置いていいかわからない。とりあえず後方の壁際に立った。
開演時間が近づいても、会場は埋まらなかった。ペンライトやタオルを装備した男の人がステージ近くに詰めているだけだ。この中の誰か、もしかするとほとんど全員と口汚く罵り合ったわけだ。ネット上でやり合ってる時は膨大な人数に思えたのに、こうして見回すと拍子抜けするほど少ない。
開演時間になると照明が落ち、骨にまで響く大音量の音楽が流れ出した。
「下僕たち~! 今日も館に集まってくれてありがと~!」
ミルクティー色の髪を揺らし、りりあがステージに飛び出す。うおおおお、と男たちがピンクのペンラを振り回した。メンバーたちが次々に狭いステージに登場し、その度にメンバーカラーが各所で揺れる。
最後にゆりあが姿を現した。
一瞬、会場の空気がよどむ。
「長い間休んじゃってごめんなさい。その分今日は、たっくさん生気を吸わせてね!」
会場の白けた雰囲気に気付かないはずはないのに、ゆりあはマイクに向かってそう叫んだ。メンバーたちが定位置に着き、音楽のボリュームがさらに上がる。
耳をつんざくような歌声。体を揺らし、推しに応えるオタクたち。
パフォーマンスの間だけは、気まずい空気はどこかへ消えた。
あらかじめ買っておいたペンライトを赤に点灯すると、ゆりあの視線がこちらに向くのがわかった。赤を振っているのは数人だから目立つのだろう。
おそるおそるペンライトを動かすと、ゆりあがいびつなハートを両手で作ってこちらに飛ばした。明らかに私に向けてだった。
彼女が私を見ている。それだけで、他のことをすべて忘れられた。
ステージ際で腕を振り回すオタクたちのことが、やっとわかった。きっとみんな、この瞬間のためにあんなに必死になっている。
今だけの、甘い夢だってかまわない。
暗闇に揺れるペンライトたちに添えるように、私も赤い光を揺らした。
ライブが終わると特典会がある。平たく言えば、お金を払ってアイドルたちと握手して話したり、ツーショを撮ったりできる時間のことだ。
私も他のオタクたちに混じって物販列に並んだ。
ゆりあの前に立てば、中学の同級生だと気付かれる。だけどもう、別にかまわなかった。「夢を叶えたんだね」と一言伝えたかった。
スタッフの男性が早口にたずねる。
「誰指名ですか? 握手? ツーショ? 何枚いきます?」
「ゆりあで、えと……握手で、に、二枚」
はーいゆりあ握手、と運営の若い男は、二千円と引き換えに赤い握手券を二枚差し出した。一枚でいいはずなのに、周りの人たちが十枚単位で買っているので、つまらない見栄を張ってしまった。
特典会といっても、会場のロビーの壁際にアイドルたちが並んで、客はその前に整列させられるだけだ。メジャーアイドルが使うような立派なレーンはない。
ゆりあの握手列は、明らかに他のメンバーより短かった。短いというか、一人しか待っていない。
私に気付いたら、ゆりあは、三峰百合香はどんな顔をするだろう。それを思うと、握手券を持つ指先がじんと熱くなった。
すぐそこに、ゆりあがいる。中学時代の面影をたしかに残した彼女が目と鼻の先で、四十代くらいのおじさんと背中合わせになってチェキを撮っている。熱心に話すおじさんに、ゆりあは、うん、うんと頷くばかりだ。もっと笑いかけてあげたらいいのに。
りりあみたいに。ゆりあの隣に配置されたりりあの列は、振り返れば階段の方まで長く伸びていた。
肩を叩かれ、はっとする。
「お姉さん、ゆりあ空いたんで、どうぞ」
目の前に誰もいなくなったゆりあが、私に向かって小さく手を振る。まだ私には気付いていない。
ゆりあの前に立ちたい気持ちと、このまま逃げ帰りたい気持ちがないまぜになって渦巻く。けれどスタッフに背を押され、否応なくゆりあの前に押し出された。
本当は吊目気味なのに、メイクで無理矢理タレ目になったゆりあが笑う。
「今日は来てくれてありがとう!」
まっすぐに伸ばされた両手が、私の掌をぎゅっと握った。ライブの余韻なのか、その手は熱かった。
ずっと画面の中で見ていたゆりあが目の前にいる。中学の時だって、こんなに近くで話したことはなかった。
ゆりあは繋いだままの手を、軽く上下に振って言った。
「えっと、はじめましてだよね?」
喉で息が詰まった。頭は熱くて仕方ないのに、背中をぞくぞくと悪寒が走った。
私の顎は、勝手にこくんと一つ頷いた。
「そうなんだ! うれしい! ゆりあのこと、何で知ってくれたの?」
口の中に溜まった唾がねばつく。
「あ、その、選抜番組で……」
「え! あれ見て来てくれたの? ゆりあ最悪だったでしょ」
「そ、んなことは、ないです」
なんとかそれだけ言うと、ゆりあは真顔になってじっと私を見た。
「ね、違ってたらごめんね。もしかして」
来た。今度こそ、来た。心臓がばくばくと鳴り響く。
私、私だよ。真木望だよ。
見てたよ。見てたんだよ、三峰さん。
あなたが今なにしてるのか、ずっと見てたんだよ。
「magiさん?」
マギ。目の前の三峰百合香はたしかにそう発音した。マキではなくて、マギ。
思わず頷くと、「わーやっぱり!」と手を握る力が強くなった。
「ゆりあ、エゴサの鬼だからさ。リプくれた人のホームとか超さかのぼるし。だからmagiさんが、りりあのオタクとレスバしてるのも見てたよ。ゆりあの投稿に、いつもいいねしてくれてたのも知ってる」
ゆりあは私の耳に唇を寄せた。
「ずっと見てたよ。だからうれしかった、今日会いに来てくれて。ありがとね、かばってくれて」
終了でーす、とスタッフの声が遠く聞こえ、ゆりあはぱっと手を離した。
よろめくように後ずさると、ゆりあが手を振り、投げキスを寄越した。
「また来てね! 待ってるから!」
ゆりあの声を背で聞きながら、特典会の人混みをかき分けて会場を後にした。
急な階段を駆け上る。りりあとの握手を待つオタクたちが、怪訝な顔をする気配があった。
弾む心臓の音を聞きながら、私は理解した。
三峰百合香はアイドルだった。
私が思うより、ずっとアイドルだった。
アイドルはファンのことは覚えてくれるけど、中学時代にちょっと話したクラスメイトのことなんて、後生大事に覚えていたりなんかしない。
ゆりあにとっての私は、一人のファンでしかない。
ようやく地上に出る頃には、息が上がっていた。
外は冷たい雨が降っていた。最悪だ。傘は持っていない。
握りしめたままだったもう一枚の握手券が、はらりと濡れたアスファルトの上に落ちる。人目から隠すように、すぐに拾い上げた。
屈んだ拍子にめまいがして、思わずその場にしゃがみこむ。
冷たい雨は、容赦なく頭を叩いた。
ふと、雨粒の気配が消えたので視線を上げる。
「あの、大丈夫ですか?」
揃いのピンク色のTシャツを着た二人組の男の人が、傘を差しだして心配そうにこっちを見ていた。かばんには、プラケースに収められたりりあのブロマイドがぶら下がっている。こっちを見て笑うりりあの顔は、向かいの店のネオンで濃いピンクに染まっていた。
「大丈夫なわけないじゃん」
え? と二人が顔を見合わせる。
「これ、あげます。どうぞ」
濡れた握手券を差し出す。ゆりあの、それもぐしょぐしょの握手券を突き出された二人は明らかに困っていたけれど、無理に押し付けた。
立ち上がって、ふらふらと歩き出す。
二人が何か言うのが聞こえたけれど、返事をしなかった。
駅への道を辿りながら、スマホを取り出した。SNSのアプリを開き、「magi」のアカウントを削除する。
『私は、アイドルになるから』
雑踏から、子供だった三峰百合香の声が聞こえた気がした。
だけど振り返っても傘の群れがうごめくばかりで、そこに彼女の姿はなかった。
【おわり】