弁当探偵 前編

手作りの弁当を一度も食べたことのないまま大人になった人は、果たしてどれくらいいるだろう。
新卒で入って四ヶ月目の、大学病院の医事課。お昼はいつも病院内の職員食堂でとっている。私も含めランチメンバーは皆、食堂のご飯を食べているが、他の席ではお弁当を持ち込んでいる人もちらほら見かける。
ある日、ランチメンバー達が、子どもの頃に好きだったお弁当の具について話し始めた。玉子焼きは甘い派か、塩辛い派か。好きな冷凍食品は何だったか。ちくわの中に何を詰めるのがいいか。
皆が子どもの頃を思い出して盛り上がっている中、私は一人、ただ曖昧に笑って相槌を打つことしかできなかった。共働きの両親はどちらも家にいる時間が短く、お弁当どころか朝晩の食事さえ手作りされることはほとんどなかった。
仕事を頑張っていた両親のことは尊敬するし、お弁当代わりのスーパーやコンビニのお惣菜は美味しかった。だけど、手にしたことのないものに理想を抱くのは人間の性で、恋を経験したことのない人が初恋を夢見るのと同じように、私は手作りのお弁当への憧れを募らせている。
「だったら、自分で作れよー」
起床後、洗面台の鏡に映る寝ぼけ面の自分に向かって、心の中で毒を吐く。玉田典子、二十二歳。今日もまた、出社に間に合うぎりぎりの時間まで眠ってしまった。人生初の手作り弁当にありつける日は遠いようだ。
――と思ったのだが。
その日の昼休憩。いつものように職員食堂で日替わり定食を注文し、盆を持ったまま私は途方に暮れていた。
今日は三人のランチメンバーのうち、一人は有給休暇。さらに一人が体調不良で急遽お休みとなり、あと一人は業務の都合で昼休憩の時間がずれることになった。
ランチメンバーが誰もいない中で昼休憩に入るのは初めてだ。四人掛けのテーブル席に一人で座ったり、見知らぬ職員と相席したりする勇気もなく、壁付けのカウンター席に向かおうとする。
「玉田さーん」
通り過ぎたばかりのテーブル席の方から、聞き慣れた声が私を呼ぶ。振り向くと同じ医事課の先輩三人がいた。
「一人なの? 珍しいね」
「良かったら、たまには一緒に食べようよ」
三人はいつものランチメンバーと違い、私より年齢がかなり上の人達ばかりだ。気後れしそうになったが、彼女達のいるテーブルの上にあるものが目に入ったとたん、私の頭にお花が咲いた。
三人共、手作りのお弁当持参だ。しかも、パッと見ただけでもかなりクオリティが高い。
「はい、喜んで……あの、先輩達、とっても素敵なお弁当ですねっ」
三人はどっと笑った。物欲しそうな態度が出てしまっただろうかと思いつつ、一つ空いた席にお邪魔することにした。
日替わり定食を口に運びつつ、その味がわからなくなるくらい、私は終始、三人のお弁当に魅入っていた。
「ほとんど昨日の晩ご飯の残り物だよ」
「私なんて、これもこれも冷凍食品だし」
先輩達の謙遜気味な発言が、私には余裕の表れのように聞こえてしまう。
最近流行りのSNS映えを意識したような、凝った飾りは見当たらない。けれど、質素にして色鮮やか。栄養のバランスも完璧に見えた。
ニンジンのきんぴらや梅干しのさりげない赤色。おかずの間を仕切るように入れられているレタスの緑色。
そしてお弁当の定番、玉子焼きの黄色――。
「あ、あれ……?」
あることに気づき、思わず小さく声を漏らしてしまう。
目に留まったのは先輩職員であるユカリさんの玉子焼きだ。何かを巻いたり、混ぜ込んだりしていない、玉子だけを使ったシンプルな玉子焼き。しかし、どう見ても酷く焦げすぎている。
「玉田さん、どうかした?」
「いえ、別に……すみません」
正面の席からユカリさんがニッコリと視線を送ってくる。他二人は何事もないかのように、各々のお弁当を食べ続けている。
私が失敗だと勘違いしているだけで、実はこういうデザインなのだろうか。そう思い直してみると、表面はキリン模様に見えなくもない。
しかも、ユカリさんのお弁当の具は、玉子焼き以外はどれも完璧な出来栄えだった。夏らしいゴーヤの肉詰めに、茄子とパプリカの炒め物。そして何かのキャラクターの顔型になっているポテト……小さいお子さんがいるようなので、これはきっとお揃いなのだろう。
「ユカリさん、ポテト可愛いですね」
私がそう言うと、ユカリさんはわかりやすく顔をほころばせた。
「もう、子どもっぽくてごめんね。このキャラクター、下の子の幼稚園で流行ってるみたいで、どうしてもお弁当に入れてほしいって言われて」
予感的中と思っていると、突然、私の斜向かい――ユカリさんの隣――の席にいる先輩の表情が変わった。
派遣職員の梅星さん。歳は二十八歳と聞いているが、落ち着いた雰囲気のせいか、三十代のユカリさん達と同い年くらいに見える。
梅星さんは、切れ長の目の中で瞳をわずかに横に動かし、ユカリさんの方を見た。そしてほんの一瞬、唇に微笑を浮かべた後、それを隠すかのように備え付けの紙ナプキンで口元を拭った。
午後の業務の十分前。
ロッカーがひしめく更衣室の床にスタンドミラーを置き、座り込んでメイクを直しながら、私は梅星さんのことをぼんやり考えていた。あの一瞬の微笑は、何だったんだろう。
梅星さんは私が入職する半年ほど前から派遣職員としてここに勤めているらしい。
医事課は主に外来窓口の業務を担当する外来係と、患者さんの入院手続きや入院費の会計を担当する入院係に分かれている。私も梅星さんも入院係に所属しているが、正職員が二十人弱いる中、派遣職員は彼女一人だ。入院係の正職員は一人につき二〜三の病棟を担当するのだが、私のように入りたてで仕事をスムーズにこなせなかったり、何か突発的なことが起きたりして手が回らなくなった病棟に関しては、梅星さんがサポートに入ることになっている。
病棟毎に診療科が違うので、仕事の手順も多少異なってくる。だから色々な病棟のサポートをするのは大変なはずなのに、梅星さんはいつも平然と仕事を進め、何を任せてもミス一つなく完璧にこなす。
「カッコいいなぁ、梅星さん。さっきのお弁当も凄く上手だったしなぁ」
ユカリさんの玉子焼きのことが気になりつつも、他の人達のお弁当もしっかりチェックしていた。梅星さんのお弁当は、おかずが五品も入った立派なものだった。
「あのエビマヨの鶏肉版みたいなの、美味しそうだったな。どうやったら思いつくんだろう」
「……派遣職員だから」
誰もいないと思っていた更衣室の中で確かに返事が聞こえ、顔を上げた私は絶句した。
梅星さんがいた。
「う、梅星さん! いつからいたんですか?」
「貴女がその大きな鏡を必死に見ながら、私のお弁当のこと呟いてたときよ」
梅星さんはポーチからおしろいを取り出し、額や頬に軽く押し当てるだけでメイク直しを終えた。胸元まである艷やかな黒髪をブラシでさっととかした後、業務中いつもしているようにシンプルな髪ゴムで一つに結ぶ。
梅星さんのポーチもおしろいも、ブラシも、他の先輩達が持っているようなデパコスやブランド物は何一つない。
しげしげと眺めていると、梅星さんは唐突にこう言った。
「身なりや持ち物もそうだけど……毎日のお弁当にも、その人の暮らしぶりが如実に表れる」
リップも塗っていない梅星さんの唇が、食堂で一瞬見せたのと同じ笑みを浮かべた。
「派遣職員のお給料では、高い化粧品は買えない。だから、お金をかけずに綺麗に見せる工夫ができるようになるのよ。お弁当も同じ。お手頃な食材を使って、いかに美味しくできるか考えるのは楽しいわ」
あの鶏マヨは、梅星さんが少しでも材料費を浮かせてエビマヨの味を再現できないかと考えた末に生まれたものだそうだ。エビの代わりに鶏むね肉を使い、余った肉は煮物など他のおかずに入れることもできる。
「お弁当には、その人の暮らしぶりが表れる……か。ホントそうですね」
「そうよ。だから私、お弁当は作るのや食べるのはもちろん好きだけど、人のお弁当を観察するのも大好き」
それは私も同じだった。けれど私はただ色々な人のお弁当に目を奪われ、憧れるばかりで、その背景にまで想いを巡らせたことなんて全くなかった。
「梅星さん。ちなみに今、一番気になってるのは誰のお弁当ですか?」
「そうねー……」
一呼吸置いた後、梅星さんは「ユカリさんの玉子焼き」と言い、また微笑んだ。
焦げ付いてキリンの模様みたいになった玉子焼きに、やはり梅星さんも気づいていたらしい。しかも、梅星さんは私の知らない更なる事実について話し始めた。
「おかしいのは今日だけじゃないの。ここ数日の間ずっと、ユカリさんのお弁当の中で、玉子焼きだけが酷い有様なのよ」
梅星さんの話によると、以前からユカリさんのお弁当には毎日玉子焼きが入っていて、その出来栄えは素晴らしいものだったそうだ。
それがどういうことか、ある日を境にユカリさんの玉子焼きは、素人以下と言ってもいい出来栄えへと変わり果ててしまった。
「一番酷かったのは、明太子が入った玉子焼きのときね。火を通しすぎないように気をつけたんだろうけど、逆に生焼けで中心がドロドロだった」
「ユカリさん、それを平気で食べたんですか? 今七月だし、下手したら食中毒とか……」
「食べてたわよ。今日みたいにニコニコ笑顔で」
今日もユカリさんは、昼食の間ずっと笑顔だった。玉子焼きの失敗くらいのことは何も気にしていないということだろうか。それとも、失敗とさえ思っていない?
「それで私は今、ユカリさんの玉子焼きの謎を解明しようとしているの。何かエッグい事実が隠されているような予感がするわ……玉子焼きだけにね!」
梅星さんが玉子にちなんで上手いこと言ったところで、昼休憩終了の時間になる。
私は薄々気づいていた。私のお弁当に対する憧れとは少し種類が違うものの、梅星さんもお弁当に対する並々ならぬ執着心を持っている。色々な人のお弁当を観察し、ちょっとした違和感から、その背後にあるものを解き明かそうとする――。
梅星さんは「弁当探偵」なのだ。
月の中旬という時期も相まって、午後の業務は比較的落ち着いていた。入院係は、レセプト業務という一ヶ月分の医療費の算出に追われる月初めが最も忙しく、それ以外の時期はほとんどが患者さんの入院手続きや入院費の会計といった日常業務のみになるため、時間にも気持ちにも余裕ができやすい。
昼食後でお腹がいっぱいな上、冷房の風が心地よく、ついウトウトしそうになる。そんな中、部屋に駆け込んできた入院窓口担当の主任・白須さんの一声が私の意識を現実に引き戻した。
「ちょっと、ユカリさん! また退院証明書の書き方ミスったでしょ。今朝退院した患者さんから問い合わせが来てるんだけど」
各々のパソコンに向いていた皆の視線が、一斉にユカリさんの方に移される。
「す、すみませんっ。確認してすぐに差し替えます」
ユカリさんが椅子から立って頭を下げると、白須さんはフンと鼻を鳴らして部屋を出ていく。
実はこんなことが、私が入職してから何度もある。ユカリさんのミスを見つけた白須さんが、烈火のごとく怒って駆け込んでくる。部屋全体が気まずい雰囲気になり、ユカリさんはうろたえながら謝罪する。
気を取り直して作業に戻ろうと、パソコンの画面に向き直る。
『白須さんって、ユカリさん以外の人がミスをしたときは、あれほど怒らないのにね』
突然送られてきたチャットのメッセージを見て、声を上げそうになるのを何とかこらえた。送り主はなんと梅星さんだった。
入院係の座席はデスクを向かい合わせた島型の配置で、梅星さんの席は私の席の斜向かいだ。私がちらと目配せすると、梅星さんも一瞬こちらを見た。
『確かにそうですね。私が入院費の計算ミスったときなんて、代わりに患者さんに謝罪の電話までかけてくれました』
『あなた、とんでもないミスしたのね……。それはさておき、以前からユカリさんが白須さんに目をつけられてるっていう噂があるのよ』
梅星さんは、私が入職する前のユカリさんの様子について教えてくれた。前職はクリニックで医療事務をしていたというユカリさんは、梅星さんと同じ時期に中途採用で入職したそうだ。初めのうちはテキパキと仕事をこなしていたユカリさんだったが、ある日、入院予定の患者さんからおおよその入院費の見込みを教えてほしいという問い合わせが入り、他の業務が立て込んでいたこともあって対応が遅れてしまった。そのとき窓口に出ていた白須さんから大目玉を食らい、それ以来動揺してミスが増える一方なのだという。
『ユカリさんはミスを引きずるタイプなのよ。白須さんは、それをわかっててワザとあんな風に大げさに怒っているように見えるわ』
ユカリさんは、仕事が上手くいかなくなる負のループに陥っているのだ。ミスをする、叱責を受ける、動揺して集中力が逸れる、またミスをする――。それがどれほど苦痛なものかは、入職して間もない私でも想像に難くない。
『ユカリさんも、玉田さんみたいにミスしてもケロッとできるくらい図太かったらいいのにね』
『褒められてるのかディスられてるのか、わかんないんですけど』
会議のため離室していた医事課の課長が戻ってきた。私の席の後ろを通って課長席の方に歩いていく。チャットの画面を見られないよう、慌ててウインドウを最小化した。
斜向かいの席で梅星さんがクスリと笑う声が聞こえる。
『話に付き合ってくれてありがとう。残りの業務も頑張りましょう。あと、他の人達にバレないようにチャットの履歴は消しておいてね』
翌日の昼休憩。いつものようにランチメンバーと職員食堂に行き、日替わり定食を注文する。
「もう体調は大丈夫なの? 夏風邪って熱と暑さがダブルで来るから相当キツいよね」
「一日休んだらもう大丈夫。それより旅行の感想聞かせてよ」
「もちろん。後でお土産もちゃんと渡すね」
「いいなぁ。私もあの面倒な業務さえなければ、有休取って一緒に行きたかった」
昨日、体調不良や有休、業務都合で職員食堂に揃わなかったメンバー達は、口々に自分の身にあったことを報告し合う。彼女達は、昨日私が梅星さん達と一緒にお昼を食べたことを知らない。
「あ、お冷やもうなくなっちゃった。おかわり貰ってきますね」
そう言って私はさりげなく席を立つと、梅星さん達のいるテーブルの傍を通り過ぎ、ユカリさんのお弁当の中身を確認した。ほんの一瞬見ただけでも、今日の玉子焼きも上手くできていないのが明らかだった。
昨日、梅星さんからチャットでユカリさんの話を聞いて、私はこんなことを思いついた。ユカリさんは失敗を大きな声で指摘されると冷静でいられなくなり、そのせいでミスを繰り返すようになってしまう人だという。もしかすると、あの失敗続きの玉子焼きも、最初に白須さんから何か難癖をつけられたのがきっかけで、上手く作れなくなってしまったのではないだろうか。
入職早々に会計をミスするような私にしては、なかなかの推理ではないかという自負があった。実際、ユカリさんはつい最近まで、玉子焼きをとても上手に作っていたと聞いている。白須さんからの叱責を受けて仕事が上手くいかなくなったのと同じように、ユカリさんの玉子焼きが変わったのには明確なきっかけがあると考えて間違いないはずだ。
私はこの推理を梅星さんに披露するべく、昼食後に意気揚々と更衣室に向かった。
が、しかし。
「絶対に違うと思うわよ」
昨日と同じようにおしろいを頬にポンポン当てながら、梅星さんはさらりとそう言い切った。私が話を切り出してから一分と経たないうちに。
「えぇーっ。私、結構自信があったのですが」
「甘すぎるわ。まるで伊達巻のようね」
また玉子焼きにちなんで上手いことを言う梅星さんだが、私の推理に対してはとても辛口である。
今日は更衣室に他の職員の姿もあったため、建物を出て中庭のベンチに二人で並んで話を続けた。予想以上に日差しが強く、メイクを直した傍から崩れてきそうなほどだ。
「どうして絶対違うと思うんですか?」
「理由は二つあるわ。一つは、ユカリさんのお弁当のうち失敗しているのが玉子焼きだけってことよ。もしお弁当のことで白須さんに何か言われて動揺したなら、玉子焼き以外にも何らか失敗しそうなものよ」
そう言われれば確かにそうだ。入院費の問い合わせの対応が遅れて白須さんの叱責を受けたユカリさんは、その後、他の業務についてもミスを連発するようになってしまった。お弁当についても、もしユカリさんの気持ちの面が問題なのであれば、失敗が玉子焼きだけにとどまるようなことはないだろう。
「じゃあ二つ目の理由は? 梅星さん」
完全に考える気力をなくしてしまった私は、梅星さんに教えを乞う。梅星さんが口にした二つ目の理由は、私の認識を根本から覆すものだった。
「お弁当を食べているときのユカリさんの笑顔よ。そもそも彼女、あの玉子焼きを失敗とすら思っていないんじゃないかしら」
昨日、焦げすぎた玉子焼きを見て絶句している私にも、ユカリさんは笑顔で「どうかした?」と尋ねてきた。強がりでもやせ我慢でもない、心からの笑顔に見えた。
周りの目から見れば失敗作の玉子焼きでも、ユカリさんはそう思っていないということなのだろうか。だからジロジロ見られても気にせず、笑顔でいることができる……?
「そうだとしたら、ユカリさん素敵ですね」
何の気なしに私が呟くと、梅星さんは突然火が付いたように語り出した。
「手作りのお弁当を愛する者は、皆そうあるべきなのよ。たとえ少しくらい形が歪だったり、色が地味だったりしても、それは世界に一つのお弁当だからこそなのよ」
真上からの日差しが頭を熱し続けている。クラクラしそうになりながら、何故か子どもの頃のことを思い出した。毎日親にお弁当を作ってもらっていた友達は、また同じおかずだとか、オシャレじゃないとか言いつつも、やはり笑顔だった。それが自分にとって唯一無二のものであると知っているから。
私はそういうものを味わったことがない。だからユカリさんに関する梅星さんの推理も、頭では理解できるが、どうにも腑に落ちない。
それなら私も、私だけの唯一無二のお弁当を作ってみようと思った。
「決めました。私、明日から毎日、玉子焼き入りのお弁当を作ってきます」
「……毎日?」
梅星さんがこちらを振り向く。おしろいが施されたばかりの肌は、暑さに負けず、さらりとした涼しげな白さを見せている。
彼女が私の宣言に対し、「毎日?」と聞き返したのには、ちゃんと理由があった。
「初心者が初めから毎日、完璧を目指すのは過酷なものよ。まずはできそうな日だけにするとか、おかず一品だけ作ってみるとかから始めた方が長続きするかも」
「いえいえ、大丈夫ですよ! さっそく今日の帰り、お弁当箱を買おうと思います」
私が以前から手作りのお弁当に対してどれほどの憧れを抱いていたか、梅星さんは知らないのだ。この想いがあれば、毎日早起きして何品ものおかずを作ることだって、きっとできるに違いないと思った。
できなかった。
前日の夜までの準備は完璧だったのに。お弁当箱とおかずの材料を買い、米を研いで炊飯器のタイマーをセットした。目覚ましのアラームだって、いつもより三十分も早く鳴るように設定した。
翌朝、無意識のうちに私はアラームの電源をオフにして二度寝していた。気づいた時にはいつもの起床時間になっていた。慌てて飛び起き、キッチンに向かうと既に炊き上がった米の良い匂いが漂っている。これが冬なら心穏やかでいられるが、今は夏だから早く保存しないと腐敗の危機が迫る。
「せめて玉子焼きだけでも……!」
と思って卵をボウルに割り入れた後、玉子焼き用の四角いフライパンを持っていないことに気づく。小さめの普通のフライパンを使うしかなく、しぶしぶ油を引いてコンロで温める。
具は細切りの紅ショウガを入れると、昨日から決めていた。赤のアクセントでお弁当全体が華やかになると思ったからだ。実際はもはやお弁当全部を作る時間などないが、玉子焼き一品だけでもしっかり仕上げ、梅星さんに見せたかった。
調味料で味付けした卵液に、目分量で紅ショウガを入れて混ぜ込む。そのまま一気に、熱したフライパンへ。
玉子焼きを焼くときは卵液を複数回に分けて入れることを、このときの私は知らなかった。焦げすぎを恐れてコンロの火を弱くすると、玉子が硬くなる原因になることも。
それでも、何とかしようと思えば形になるものだ。私の作った初めての玉子焼きは、それなりに玉子焼きの体をなしているように見えた。少なくともユカリさんのように表面がキリン模様になっていたり、中が生焼けになっていたりすることはない。
まな板の上で粗熱を取り、包丁を入れると紅ショウガの鮮やかな赤色の入った断面が現れた。
「これはもしや、完璧なのでは……」
私は嬉々として玉子焼きをカットし、小さめのタッパーに詰めた。今日はこれと食堂の牛丼でお昼にしよう。
【つづく】