朱色の幻影


 美貌の男が土間に立っている。その場に二つ並んだかまどは、そこが現代の少し前の台所なのを示していた。
 男の目の前のかまどでは、粥を煮る土鍋がくつくつと湯気を上げている。
 月光が作る幻影と見まごうほどの美しい目元が細められる。土鍋から、かすかに焦げたにおいがした。
「火が強すぎたか」
 涼やかな声で独りごちる男は瀬能(せのう)(はる)(おみ)。瀬能公爵家の当主である。本来であれば台所に立つような身分ではない。
 粥をかきまぜてみたが、それでも焦げたにおいは薄まらない。瀬能は、とうとう諦めたように土鍋に手を伸ばす。左右の持ち手に素手で手をかけ、持ち上げ薄い唇からかすかに(うめ)きを漏らした。
 しかし、長身の体幹はぶれない。そのまま、かまどの横の小卓に土鍋を下ろした。
熱い」
 赤くなった指先を(なが)め、淡々と口にした瀬能が水道の(じゃ)(ぐち)をひねる。かまどは(たきぎ)式だったが、水道は(たい)(しょう)の住宅改良の流れを受けてこの家の流しまで引かれていた。
 しばらく指先を冷やし、赤みが引いたところで、瀬能は焦げくさい粥を器に盛りつけた。横の皿にはすでに数枚の漬物が用意されている。たったこれだけで今日の朝食は終わりだ。明らかな粗食である。
 しかし、瀬能は貧弱な盆の上など(いっ)()だにせずに茶の間まで食事を運んでいく。
 そして、公爵のものらしくない小さなちゃぶ台の前に座り、箸を取った。朝の陽ざしが似合わない研ぎ澄まされた(おも)()しは、湯気を立てる粥を前にしてもまったく変わらない。
 そのまま、無言で粥をすすり込み、ものの数分で食事を終えて手を合わせる。
 さて、と洗い物を台所に持っていくために瀬能が立ち上がる。土鍋の焦げを取るには(じゅう)(そう)と少々の時間が必要だ。仕事から帰ってから手を付けることにしよう。そう考えた彼は、ひとまず土鍋に水だけを張り、そこに使い終えた食器もつけておく。
 瀬能が軽くため息をついた。想定していたより朝食作りに時間がかかってしまった。毎日繰り返しているはずなのに、今日はうっかり熱せられた持ち手で火傷をするおまけもついた。だが、人を(やと)いたくないという考えも揺らぐことはない。瀬能にとって、生活にかかわる他人はできるだけ少ない方がいいのだ。
 自室に戻り、黒地に銀があしらわれた軍服に袖を通す。上質の練り絹で仕立てられたそれは、瀬能の(たい)()にぴたりと合った。
「ところで、おまえはなんのために来た」
 軍服の(ボタン)を留めながら、瀬能は目の前の畳に問いかける。
 えへへ、と空気が揺れた。
「春臣さんを迎えに!」
 (くっ)(たく)のない声とともに、笑顔が弾ける。
 いつの間に家の中に入り込んだのか、少年が壁際で体育座りをして瀬能の着替える様子を眺めていたのだ。
 少年は瀬能と同じ軍服を着ている。(きゃ)(しゃ)な手足と黒と青の色違いの両目が印象的で、とても可愛らしい。そして彼は、その軍服が示す通り、瀬能が隊長を務める異形対策部隊の隊員の一人でもある。
 異形対策部隊は、帝都に増え続ける異形を狩るために(みかど)直々に編成された部隊だ。そこには、卓越した霊力と華族の身分がない限り入隊できない。少年も青葉(あおば)侯爵家の嫡男であり、瀬能家と遠い血縁関係にあった。
「黙って上がり込むなと何度言えばおまえは覚える?」
「女中も置かない春臣さんがいけないんだよ。門番がいれば、僕だってちゃんと挨拶するんだからね」
 立ち上がった少年青葉がつん、と唇を尖らせるのに、瀬能は思い切り冷ややかな視線で応じた。瀬能よりずっと背の低い青葉も、それに負けずに上を見上げる。
「そういう問題ではない。それに、おまえの『ちゃんと』は信用できないな」
「僕は春臣さんには嘘をつかないよ」
「そうか、(ちょう)(じょう)
「そんなに冷たく言わないでよ。春臣さんは本当に氷でできてるみたいだよね」
「氷だろうが血と肉だろうが、この身を陛下のために使うのが『瀬能』の役目だ。おまえも少しは『青葉』であることをわきまえろ」
「はーい」
 青葉が愉快そうに両手をひらひらと揺り動かす。
「おまえは私の話を真面目に聞いているのか?」
「聞いてるよ。聞いてるし、春臣さんが好きだから、異形対策部隊で働いてるんじゃないか。春臣さんがいなかったら僕は、あんなところでちまちま働いたりしないよ」
「帝を()(ろう)するな」
「してないしてない。もちろん、陛下のことは尊敬申し上げております! でも、僕は春臣さんの方が大事なんだ」
(くだ)らぬ」
 言い捨てて、瀬能が廊下を玄関に向かって歩いていく。その背中を、青葉が慌てて追いかけた。
「怖い顔しないでさ。さっき迎えにきたって言ったよね。今日はうちの車に乗って(とん)(しょ)に行こうよ」
「私は歩いて出仕する主義だ」
「そこをなんとか、曲げてくれない? だめ?」
 瀬能の軍服の(すそ)を引いて青葉が首をかしげる。
 瀬能が一瞬だけ足を止めた。
 不本意なのだろう。眉間には(しわ)が寄っている。
「青葉の当主はご存じなのか」
「ご存じ! ちゃんと説明して車と運転手を借りてきたよ」
仕方ないな」
 瀬能が心底嫌そうな顔でそう言う。だが、青葉はそんな瀬能に臆さずに、「やった!」と小さく歓声を上げた。
「門のところで待たせてるからさ、早く早く」
「手を引っ張るな!」
「だって嬉しいんだよ。春臣さんと出仕するの久しぶりだ。朝からやる気が出るなあ」
「こんな茶番をせずともやる気を出せ」
「正論厳しい。でもそれとこれとは別なんだよね」
「どうでもいい」
「そうなの? もう少し僕に興味を持ってくれない?」
 にこにこと青葉にまとわりつかれても、瀬能は返事一つしない。無言こそが自身の答えだと言わんばかりだ。
 玄関で靴を履いた二人は、うやうやしく待ち構えていた青葉家の運転手に扉を開かれ、自動車の後部座席に乗り込んだ。
 車内でも、青葉はなんやかんやと瀬能に話しかける。
 それを、瀬能は(うっ)(とう)しそうにそっぽを向いて聞いている。
 運転手は、かみ合わない二人の会話を聞きながら、「いつものことだ」と思いつつ、屯所までの道を進んだのだった。


「春臣さん、お茶だよ」
 屯所に出仕し、執務室についた瀬能は執務机で事務作業をこなしていた。
 そこに青葉が、どこからか持ってきたソーサー付きのティーカップを差し出す。
「そこに置け」
「春臣さん、お菓子だよ」
 手品のように、青葉が焼き菓子の包みを取り出した。しかし、瀬能はそちらを見もしない。
「そこに置け」
「えー。じゃあ、春臣さん、僕だよ」
「そこに置け」
 先ほどまでと一言一句変わらない、にべもない調子の瀬能の言葉に、青葉がぷくんと頬を膨らませた。
「もう! 僕のことなんだと思ってる?」
「邪魔者」
 瞬時に返され、青葉の頬がさらに膨らむ。
「手伝うって言ったのに、いいって断ったのは春臣さんじゃないか」
「今残っている書類を処理できるのは、隊長の私だけだ」
「判子くらい僕が押してもわからないって」
 そう言う青葉の顔を、瀬能が真顔で眺める。二人の間にひとしきり沈黙が流れた。
 もしかして、仕事を手伝わせてくれるのか?
 そう期待していた青葉を襲ったのは、鋭い舌打ちだった。
「いい加減にしろ。職務に(せい)(れい)する気がないなら帰れ」
 ひたいに落ちた髪をかき上げながら、瀬能が青葉をねめつける。思わず、青葉が一歩後ずさった。
 怒らせてしまった。ならば、彼の気を持ち直させるためにはどうしたらいいのか。青葉の頭が目まぐるしく回転を始めた瞬間、執務室のドアがゆっくりと開いた。
「おはようございます、隊長。おや、青葉? 今日は早いんですね」
 そこから入ってきたのは、長い黒い髪を首筋辺りでくくった男だった。切れ長の目は細いが、その奥に確かな光を宿している。瀬能とはまた違う、しなやかに整った容姿だ。
物部(もののべ)ー! 助かったー!」
 青葉が、首をかしげている物部に抱きつく。その背中を「よしよし」と撫でて、物部が青葉に問うた。
「またなにかやらかしたんですか」
「良かれと思ってちょっと。悪気はなかったんだよ」
「その割には、隊長のご機嫌が相当お悪く見えます」
「そいつは私の執務の邪魔ばかりする。早急にどこかへ連れていけ」
 瀬能が、低い、半ば(うな)り声と化した言葉で応じた。
 いつものことに、なんとなく事情が呑み込めた物部が、「なるほど」と(しゅ)(こう)した。
「ちょうど、(しん)宿(じゅく)へ見回りに行くところです。青葉も連れて向かいます。()()も、もうすぐ来ることでしょう」
「そうしてくれ。作業が進まん」
「なにか、私どもに手伝えることは」
「青葉と同じことを聞かないでくれ。手伝えることはない。あればとっくにおまえたちに言いつけている」
「失礼いたしました」
 物部が軽く頭を下げる。長い髪が肩を滑り落ちた。
まったく、異形どもはどこから来るのだろうな。いくら倒してもきりがない」
 唐突に吐き捨てる瀬能に、物部が尋ねる。
「うんざりしておいでで?」
「瀬能家は帝の剣だ。勅命を受けた時点でそんな考えは許されない」
「そんなんだから疲れるんだよ。春臣さんも、僕みたいにもうちょっと柔軟に
 そこまで言った青葉が慌てて口元を両手で押さえる。
「青葉」
 物部も、静かに青葉を制した。
「ごめんなさい。言いすぎました。真剣な人にこんなこと言っちゃいけないよね」
「そうですね。でも、きちんと謝れて青葉は偉いですよ」
 ぽふぽふと頭に手のひらを置かれて、青葉がいーっと口元を歪めて顔を仰のける。物部も、青葉よりは身長があった。
「子ども扱いすんな」
「これは申し訳ない。青葉も世が世ならとっくに元服している年齢でしたね。でも、大人でも子どもでも同じことですよ。正当な謝罪のできない人間は大人にもたくさんいます。よくないことです」
「そうなの? じゃあいいや」
 青葉の表情がころりと変わる。瀬能にもう少し余裕があれば、「そういうところが子どもなんだ」と指摘していただろうが、あいにく、彼にそんな暇はなかった。
「しかし、隊長がお疲れなのには私も同意です。増員は来そうにないのでしょうか?」
「異形と戦える力を持つ人間は数が少ない」
 物部の質問に、瀬能がぴしゃりと答える。
 これは真実だった。
 ただ武芸に優れているだけでは異形とは戦えない。かといって、最新式の銃の威力でも異形に対抗することはできない。
 瀬能や青葉、物部が持つような特殊な能力が必要なのだ。
「仮定の話ですが、華族以外からも隊員を募れば
「陛下の(おん)()の近くに仕えることも考えれば、華族以外を入隊させてはならない。それに、隊員は華族のみという枠を取り払えても、人数が急激に増えることは絶対にない。力ある者の絶対数が少なすぎる」
「左様ですか
 ふう、と物部がため息をついた。
 物部も、隊員を増やそうとしている瀬能の苦悩は知っている。それがうまくいっていないことも。
 もどかしい。そんな思いが物部に眉根を寄せさせた。
「物部、新宿、行かなくていいの?」
 青葉に問いかけられ、物部がはっと我に返る。
「江木が来るまで待ちましょう。三人一緒の方がいい仕事です」
 そう言いながら、物部は懐から懐中時計を取り出し、文字盤を確かめた。
「そろそろ刻限です。江木は遅刻する男ではありません」
「わかんないよ。江木だってたまには仕事をサボるかも。朝から活動写真を見に行ったりさ」
 若者の間で流行中の略語を交えながら、青葉が言う。
「江木がサボタージュ? ありえないでしょう。ほら、足音が」
 略語の正式名称をさらりと口にしながら、物部が形のいい()()に指をあてる。
 青葉が「そんなの聞こえない」と言おうとしたとき執務室の扉が開いた。
「おはようございます」
 それとともに、とても背の高い男が部屋に入ってくる。爪の先まで(たん)(れん)の行き届いたがっしりとした体つきと、その強さに似合わない柔和な顔立ちが特徴の男だ。丸っこい目が、部屋の中をそっと見まわしている。
「わ、本当に江木だ。物部、耳がいいね」
 青葉に(やぶ)から(ぼう)に言われ、江木が首をかしげる。彼も、異形対策部隊の隊員の一人だ。
「ん? どうしたの?」
「今、江木の話してた」
「俺の? なんだろう」
 青葉に合わせて少しだけ背をかがめながら江木が言う。
「江木は真面目だって話だよ」
「え、真面目かな、俺」
「真面目だね」
 青葉に言い切られて、江木が照れを交えた笑みを浮かべた。
 体の大きさは江木の方が大きいのに、青葉の方がずっと偉そうなのが妙におかしい。
「そっか。ありがとう。素直に受け取るよ」
「おや、青葉は多少違うことも言っていたような
 横から口を出した物部の手の甲を、青葉がつねる。
「物部、よけいなこと言わないの!」
 そんな二人を見て、江木が声を立てて笑った。
「いいよいいよ。だとしても、青葉も悪気はなかったんだろう? 気にしないよ」
余計なお世話かもしれませんが、江木はもう少し人を疑った方がいいですよ」
 物部の忠告に、江木はさらに(おう)(よう)に笑って言った。
「疑うより、信じる方が楽だからね」
 青葉が目を見開く。物部も「やれやれ」と肩をすくめた。
「体も大きいが器も大きいご仁だ。では、隊長、皆が揃いましたので、我々は新宿へと向かいます」
 物部が瀬能に一礼をする。
 瀬能は、書類から目を上げもせずに答えた
「行ってこい。せいぜい務めろ」
「承知いたしました」
「春臣さん、僕、さっさと帰ってくるから、あとで一緒にお茶飲もうね!」
 物部に引きずられるようにしていく青葉が、ぱたぱたと瀬能に手を振る。
 もう一度舌打ちした瀬能が、部屋を出ていく三人を見送った。


 それからしばらく、瀬能は真剣な顔で書類と向かい合っていた。
 記載してある内容を(ぎん)()し、必要ならば自身も筆を()る。無限に続きそうな作業を、瀬能は()むことなく繰り返す。
 ふっと目の奥が痛んだ気がして、瀬能は両の眉頭を押した。酷使しすぎたのだろう。顔を上げてみると、視界が霞む。
「いかんな」
 ひっそりと口に出し、そのまま、目を休めるために遠くへと視線を投げる。
っ?」
 瀬能が、不意に椅子の上で背を伸ばした。
 自分以外に誰もいないはずの執務室。
 その隅に、赤い陽炎が見えた気がしたのだ。
 燃え立つ炎のような朱はゆらりと揺れ瀬能がまばたきを繰り返すと、消えた。
 同時に、霞んでいた視界も元に戻る。
「今のは、なんだ?」
 わずかの間、(あっ)()にとられていた瀬能だったが、次第に体の力を抜き、椅子の背もたれへと体を預けて首を振った。
 少なくとも、あの赤に異形の気配はなかった。
 ならば、自分はただ疲れているだけなのだろう。
 そう言い聞かせて、瀬能はまた職務に戻る。

 それは、彼が朱色の(きつね)を連れた少女と出会う、ほんの少し前の話である。

【おわり】