あやかし乙女と狐の道行き

僕のご主人は可愛い。
長い三つ編みは僕の尻尾とおそろいみたいで、見ているだけで嬉しくなる。
「はい、辰砂の場所はここね」
混み合う汽車の中、ご主人は僕を隣の席に座らせてくれた。ご主人は優しいんだ。朱色の狐の姿をした僕に、辰砂って名前をくれたのもご主人だ。素敵な名前だよ。それに、僕たちにとって、名前を授かるのは特別なことだ。その特別をご主人がくれたのは僕にとって何よりの幸せなんだ。だってご主人は優しいだけじゃなくて、働き者で、勇敢で、よく気が付いて、僕にたくさん話しかけてくれて……大変だ。ご主人を褒め始めたら僕は永遠に終わらないかもしれない。
「よかったわね。瀬能さんがあなたの分の席も取ってくれたのよ。お母さんの故郷の村までは遠いからって」
瀬能、その名前を聞くと、ふす、と僕の鼻から息が漏れていく。
瀬能。名前は春臣。ご主人の夫だ。でも、ご主人に刀を向けたのを僕は忘れてないぞ。まあ……瀬能がいなければ、ご主人が大変なことになりそうな場面もあったから許すけど……あれ、でも、瀬能が近づかなければ、ご主人はそんな目には合わないで済んだ? わからない。
「どうしたの、辰砂。ふんふん首をかしげて」
それはご主人、大事な問題を考えてるからですよ。
獣の姿を借りた神使。はじめは僕に意志なんてものはほとんどなかった。「あの方」から命じられたお役目を果たすことしか考えてなかった。
でも今では、僕はご主人が大好きだ。ご主人を守りたい。ずっとご主人の傍にいたい。ご主人は僕に心をくれた人だ。
「おなかが減ったの? じゃあ、ほら、マドレーヌ」
いや、ご主人、僕は瀬能がすべての元凶なんじゃないかと、今必死に考えを巡らせてるところなんです。そんな、マドレーヌなんて……マドレーヌ!
僕はひげにピン、と力が入るのを感じる。
バターたっぷりのマドレーヌは僕の大好物だ。しかも、ほどよく焼き目がついて、いい香りがして……。
ふん、と僕は大きく香りを吸う。うつしよの食べ物を口にできない僕なりの、食事の楽しみ方だ。
「青葉さんが持ってきてくれたマドレーヌ、とってもおいしいわね」
そう言いながら自分もマドレーヌをかじるご主人の愛らしいこと……! 目がくらみそうです、ご主人。
僕もご主人に合わせてもう一度香りを吸う。青葉はなかなか気が利くやつだ。僕と友達になりたいと手を伸ばしてきたし、人間にしては見所がある。
「瀬能さんもおひとつどうぞ」
ご主人が瀬能にマドレーヌを渡す。
そういえば、さっきまで瀬能に関係することを考えてたはずだけど、なんだっけ。まあいいか。
瀬能は「うむ」とうなずいてご主人からマドレーヌを受け取る。瀬能はもうちょっと、ご主人がしてくれることに有難みを感じた方がいい。
「何か、心配?」
ご主人が瀬能に問いかける。
「わかってしまうか」
「うん。最近の瀬能さん、顔に出るもの」
「なんと」
瀬能が顔の上でごしごしと何度も手のひらを上下させる。かっこいいからってそんなに顔を洗わなくてもいいだろう。それに、毛並みは僕の方がいい。いっぱい毛が生えてる。瀬能は頭にしか毛が生えてない。
「――帝都に残してきた青葉たちが心配でな」
青葉。
僕の耳が立つ。
そういえば、いつも瀬能と一緒の青葉は、この旅にはついてきてない。ついでに、痩せたのと、でっかいのものだ。
「でも、物部さんも江木さんも一緒でしょう? あのお二人がついていれば大丈夫よ」
そうだ。痩せてるのは物部で、でっかいのは江木だ。
あの二人も、いいやつらだ。ご主人に対する礼儀を分かってる。青葉と一緒に、ご主人を守ったこともある。僕は、ご主人を大事にする人間は好きなんだ。瀬能は……最近は、ご主人と仲が良すぎて複雑だけど……ねえ、ご主人?
「どうしたの? 辰砂」
僕が前足で膝を叩くと、ご主人が頭を撫でてくれる。このあったかくて優しい手触り! やっぱりご主人は最高だ。
「コン!」
「マドレーヌ、おいしかったのね」
惜しいです、ご主人! マドレーヌがおいしいのは正解だけど、もうちょっと違うことを伝えたかったんです!
こんな時、僕はご主人と同じ言葉がしゃべれたらと思う。
そうしたら、もっともっとご主人に好きだって言えるのに。
「クーン……」
「あら、ご機嫌斜め? ほら、背中を掻いてあげる。機嫌を直して」
ご主人の指先が僕の背中の毛をかき分けて動く。かりかり、こちょこちょ。気持ちいい。
気持ちよすぎて、ふにゃん、と耳が寝てしまうのがわかる。
「ごめんなさい、瀬能さん、話の腰を折って。でも、物部さんたちが結界を張ったなら、わたしは信頼していいと思うわ。今まで一緒に戦ってきて、頼りになる人たちなのはわかってるもの」
「いや、物部と江木の結界は大丈夫だろう。私も確認した。ただ、青葉が二人を振り回していないか……」
「ああ……そうね……」
ご主人の指が止まる。
どうしましたか、ご主人。
ふん、と僕が顔を上げると、ご主人は鼻の頭を人差し指で突っついてきた。ほかの人間にされるのは嫌だけど、ご主人に鼻をむにゅむにゅされるのは好きだ。
僕の鼻は今日も湿ってますよ、ご主人。健康な証拠です。
ついでに、ぺろんとご主人の指を舐めると、ご主人はにこっと笑ってくれた。花が咲いたみたいだ。
でも、どうしてその笑った顔のまま、瀬能を見るのかな。
「舐められちゃった。くすぐったい。……瀬能さんの心配はもっともよ。青葉さんは滅茶苦茶だもの」
「やはりきみもそう思うか」
瀬能がぐむーと顔をしかめる。ご主人といてそんな顔するなんて、なんてもったいないやつだ。
だけどご主人は怒ったりしない。優しいんだ。
「ええ。……あ、でも、今回は大丈夫じゃないかしら。青葉さんは瀬能さんを慕ってるわ。だから、瀬能さんの期待を裏切るようなことはしないはずよ。だって、好きな人にがっかりされるのはつらいもの」
そこまで言って、なぜかご主人はほっぺたを赤くする。
「わたしだって、そんなことしないわ……」
それは、どういう意味ですか、ご主人。なんでお顔が赤いんですか。
聞きたくて、ご主人の体に頭をすり寄せてみる。ご主人の腕が僕の頭を抱きかかえた。
「ね、辰砂」
首筋に顔をうずめるようにして、ご主人が僕に話しかけてくれる。
「コン、コン!」
そうです、そうです、と僕は返事をした。よくわからないけれど、ご主人はいつでも正しいんだ。
「ほ、ほら、辰砂もこう言ってるし」
「そ、そうだな」
瀬能がごほごほと咳払いをした。
ご主人の顔が、さらにもこもこと僕の毛の中に埋まっていく。それ、僕は大歓迎ですよ、ご主人!
「ま、まあ、咲綾、茶でも飲むか」
瀬能がご主人に声をかけた。手にはお茶の入った水筒を持っている。ご主人が僕の首筋から顔を上げた。
「……ありがとう」
ご主人が瀬能から杯を受け取る。ああ、僕の手もあれくらい細長ければな。ご主人とあんな風にやりとりができるのにな。
僕は自分のふかふかの前足を見下ろす。
でも、これだけ鋭い爪があるから、僕はご主人を守れるんだ。僕の牙も声も、みんなご主人のためのもの。なら、やっぱり僕は僕のままでいいや。瀬能にならなくてもいい。
そうだ、瀬能なんか毛も少ないし、大声で鳴くこともできないじゃないか。
「ところで咲綾、辰砂から視線を感じるのだが……」
「あら、辰砂、瀬能さんにご用?」
ご主人が僕の顔を覗き込む。
「ケン!」
いいえ、違いますよ、ご主人。
今、ほんの少しだけ、瀬能をうらやましく思ったなんて、きっと僕の気のせいです。
【おわり】