山梨より槍使い来(きた)る

 日本人は身投げか首くくりである

ジョルジュ・ビゴー

 一瞬なのだな、とさよは思う。
 太い旦那がいるわけでもない自分が、役者に入れあげるのがそもそも間違いだった。一幕十円で恋してくれる相手、お金がなければ「切れ目」が入る相手に、心の底から惚れたのが間違いだった。切れ目だけではなく、繋ぎ目や結び目もある。そう信じたのが、間違いだった。
 他にいい人ができた。
 あまりにありふれた一言。それは彼にとって、さよがいかにありふれた存在であったかということの証左だった。
 気がつけば、いつしか橋の上にいた。さて、どの橋だろうか。さよの()()のように、八百八もの橋があるということもないが、(とう)(きょう)とて橋は多い。
 まあ、どの橋であるかどうかは大した問題ではない。やることは、同じだ。
 さよは(らん)(かん)に近づき、川の水面を見下ろした。水面は、西に傾き始めた日を受けて、きらきらと光っている。

 一瞬ではないのだな、とさよは思う。
 死ぬために身を投げたわけだが、身を投げたからといってすぐに死ねるものでもないらしい。
 息が苦しい。もがこうとするが、動けない。夏の川の(なま)(ぬる)い水を吸った着物が、まとわりつくようにしてさよを押さえつけてくる。
 溺れる苦しさは、想像を絶するものだった。生きていても苦しいし、死ぬのもそれはそれで苦しい。この世には苦しみ以外何もないようだ。
 情死する男女が、体を結び合うという話を思い出す。今更ながら、納得がいく。こうも苦しいと、(とっ)()に助かろうとしてしまうだろう。お互いに約束を守るために、どちらかだけが生き残ってしまわないようにするために、そうするのだ。
 苦しみ以外何もないわけでもない、とさよは感じた。寂しさが、ある。情によって死を選ぶという意味では、心中する男女と同じだ。しかし、さよはひとりである。ひとりで苦しんで、ひとりで死ぬのだ
 突如、さよは腕を引かれた。続いて、抱えられるようにして、川の中を運ばれる。
 桁外れに力強い、ということはない。だが、何かとてもしっかりとした確かさがあった。命の芯、とでもいうのだろうか。そういうものの揺るぎのなさが、伝わってくる。
はっ」
 さよは息をする。体が何かの上へと引きずり揚げられる。土、雑草、石川岸に助け上げられたのだ。
 何度も激しくむせる。むせるのも、咳き込むのも、生きているが(ゆえ)のことだ。さよは生きている。さよの体は生きようとしている。そんなことを、しみじみと感じた。
 ようやく落ち着いたところで、助けてくれた相手を見る。
「やれやれ。水練も久しぶりだけど、まあ何とかなったわね」
 襯衣(シャツ)洋袴(ズボン)。どちらも洋装だ。(もち)(ろん)ずぶ濡れで、布が体に貼り付いている。
「大丈夫? もう一度飛び込もうとしないでね。これ(いっ)(ちょう)()なんだから」
 そう言って笑う。長い髪、張りはあるが柔らかい声。助けてくれた相手は女性だった。

 連れて行かれたのは、()(ちん)宿(やど)だった。十畳くらいの広さの部屋に、客が()()()している。(つい)(たて)や、腰までの高さの(こし)(びょう)()で申し訳ばかりに仕切られている。
 その隅っこに、さよは座り込んでいた。着ているのは、質素な和装である。助けてくれた女性が、金を取ってものを貸し出す(そん)(りょう)()に掛け合って用意してくれたものだ。
 (かたわ)らには、疲れ果てた一家が固まっている。あの女性の家族、ということではないそうだ。木賃宿に女性でひとりで泊まるのはさすがに危ないので、「住んでいる」家族に心付けを渡し、一緒させてもらっているのだという。
 話を聞いて、さよは驚かされた。さよとて割と苦労してきたくちだが、木賃宿に女ひとりで泊まらねばならないほどではなかった。そんな状況にあってなお、生きようと工夫し、ついでに死のうとしていた人間も引っ張り上げる。信じられない逞しさだ。
「あら、まだ起きてたのね」
 そんな声がした。さっきの女性だ。見ると、ぼろぼろの着流し姿洋服は外に干して乾かしているの彼女は、全身からもうもうと湯気を立てていた。
「熱くなかったんですか?」
 さよは再び驚かされた。先にお風呂を使わせてもらったのだが、木賃宿の風呂は地獄の釜か何かのように煮えたぎっており、手拭いを浸して体を拭くのがやっとだった。
「なかったとは言えないけど、耐え抜いたのよ」
 お風呂は一回いくらでお金が取られる仕組みなので、一人一人の時間を短くし回転を早くするのが木賃宿側の狙いだろう。彼女は、気迫でもってその企みを撃ち破ったらしい。
「武家の(とう)(りょう)たる者、あれしきのことで()は上げられないわ」
 そんなことを言うと、彼女はさよの隣にどかりと座る。
「武家の、棟梁」
 みたび驚かされた。商人(あきんど)の家に生まれたさよは、武家のしきたりを知らない。ただ、女子が棟梁になれるものではないはずだということくらいは分かる。
「いかにも」
 胸を張り、女性は(おお)(ぎょう)にそう言う。
 嘘をついているようには、見えなかった。ふざけている感じもしなければ、気が変になってしまっている様子もなかった。どうやら本当に、武家の棟梁なのだろう。そう、思わされてしまった。
「そんな立派なお家の方が、どうしてわたしなんかを」
 さよは(たず)ねる。
「困っている人がいたら助けろ、っていうのが家訓なの」
 さらり、と女性は言う。立派な家の人だから、助けてくれたということらしい。
「お金ならある程度は残ってるから、しばらくここにいてもいいわよ」
 半ば(ぼう)(ぜん)としているさよに、女性はそう言った。何も聞こうとしてこない。正直なところ、それはありがたい。未だに気持ちは、これっぽっちも整理できていないからだ。
「色々落ち着いたら、また教えて」
 だが、そう言われると申し訳なさが先に立つ。落ち着くなんてことは、あるのだろうか。ある意味、気持ち以前の問題なのだ。
 実のところ今日は、とあるお座敷にお声がかかっていた。(さつ)()出身のお偉方が何人もおいでだと、置屋の女将(おかあさん)は張り切っていた。それを、川に飛び込んだり木賃宿に転がり込んだりして、すっぽかしたのだ。
「遊女の足抜け」程に重い罰があるわけではない。しかし、お座敷をほっぽりだしておいてお(とが)めなしというわけにはいかない。置屋の面子は丸つぶれだし、他の芸者にも大きな迷惑をかけたはずだ。東京で芸者としてやっていくのは、もう無理だろう。
「どうすれば、いいのか」
 知らず、そんな呟きをさよは漏らす。
「どうすればいいかじゃない。どうしたいかよ」
 今度は、驚かされなかった。逆に考えさせられた。
「どないしたいんか、でっか」
 呟く言葉に、お国言葉が混じる。東京に来てからずっと、「(かみ)(がた)(ぜえ)(ろく)の言葉は聞き苦しい」と言われ、ずっと抑えてきたもの。それが、ぽろりと(こぼ)れ落ちた。
「そういうこと。さ、寝ましょうか。ゆっくり休んで、明日も頑張るわよ」
 ゆっくり休んで、明日も頑張る。月並みと言えば、月並みな言葉だ。しかし、何かひどく尊い響きを持っていた。疲れと貧しさと諦めが吹き溜まっている木賃宿で、彼女だけが輝いている。そんな風に、さよには思えた。

 夜明け前の道を、さよはひとり歩いていた。手にした(ちょう)(ちん)が、薄ぼんやりと行く手を照らす。東京と言えば()()(とう)だが、道という道にあるわけではない。大抵の道は、夜ともなれば提灯なしでは歩けない。目指す先は、彼の住む家だ。
「どうしたいか」など、一つしかない。彼の姿を、あと一目だけでも見たい。会って話したい、なんて(ぜい)(たく)は言わない。最後に、もう一度だけでも
 彼の家の近くまで来たところで、話し声がした。思わず近くの物陰に隠れ、提灯の明かりを消す。
 彼と、もう一人誰かが話している。女性で、声には聞き覚えがある。聞き覚えがあるだけに信じられない。
 声は近づいてくる。さよが隠れている、すぐ側を通る。さよは両手で自分の口を押さえた。
 置屋の女将(おかあさん)だ。いつもの厳しさとは打って変わった猫なで声を出しながら、うっとりした面持ちで彼と寄り添っている。
 お座敷はどうなったのか、なんてことはもうどこかに吹き飛んでしまっていた。親しい、とても親しい男女の様子。彼が、さよ相手には決してしなかったことだ。
「どういうこと、ですか?」
 耐えきれず、物陰から飛び出した。二人は初めて気づいたらしく、びくりと身構える。
「さよなのか」
 彼は、それだけ言った。言葉の始めには驚きの色があり、終わりは投げ遣りな雰囲気が色濃かった。取り繕おうとして、面倒になった。そんな内心の動きが、手に取るように分かった。
 深い哀しみに、さよは囚われる。人前で演じるのが生業(なりわい)の役者が、演じようともしない。その値打ちを感じていない。彼にとって、さよは人どころか草木と大差ない、ということだ。
 立ちつくすさよを見ながら、女将が彼の耳元で囁く。二人の近しさに胸が引き裂かれるような思いをおぼえつつ、同時に()(げん)に思う。
 さよに彼を紹介したのは、女将だった。彼が(ひい)()の旦那と一緒にいるお座敷にさよを行かせ、彼にほとんどつきっきりにさせたのだ。今思えば、さよをけしかけるようなことも言ってきた。そんなにも親しくしている「いいひと」なのだったら、どうしてあんなことを
ああ」
 溜め息と息切れの間のような呼吸が、さよの口から漏れた。分かってしまった。仕掛けを、読み解いてしまったのだ。
「ぐる、やったんですね」
 考えてみれば、同じ置屋には貧乏な学生や売れない講談師に熱を上げている芸者が何人もいた。みな、相手は女将の息がかかった男なのだろう。
 理に(かな)っている話だ。置屋の女に、好みだろう男をあてがう。女はまんまと男に貢ぐ。男はいくらかを懐に入れつつ、女将に残りを納める。女将の手元には、払った給金の大半が戻ってくる。女が借金でも作ればしめたもの、借金のカタに芸者から遊女へと「落とす」といったところか。
「勘の良い子だね」
 忌々(いまいま)しそうに女将がいい、彼が鼻を鳴らす。
「言っただろう。器量が悪いけれど芸は達者で頭もいい、なんて女は厄介だって。綺麗で頭が空っぽなのが一番なんだよ」
 冷たすぎる言葉が、胸に突き刺さる。
「なんで、なんで。こんなこと、しはるんでっか」
 血の代わりに溢れた言葉は、ひどく震えていた。
「芸者だろうが遊女だろうが、要するに『女』だ。男を(だま)して金を巻き上げて、面白おかしく暮らしてる生き物だよ。散々稼いでから、立派な肩書きなり(うな)るほどの金なりを持ってるやつに狙いを定めて、首尾よくその嫁に収まる。あとは悠々自適の暮らしってえわけだ」
 (でん)(ぽう)な口ぶりで、彼は言う。
「そんな連中から金を巻き上げて、同じ目に遭わせてやってるだけのことだ。天罰みてえなもんだよ。むしろ、世のため人のためになるってもんだろうが」
 その目に浮かぶ、剥き出しの(さげす)みと(あざけ)り。
「この
 自分の中にも、怒りというものはあったのか。さよは感心しながら、石を拾い上げた。
この、ひとでなしっ」
 精一杯の(ののし)りと共に、石を投げつける。
 ものを投げるのは、別に得意ではない。しかし、気持ちが籠もっていたせいだろうか。石は彼に見事命中した。
「てめえ、何しやがる」
 それなりに痛かったのだろう。彼は怒りをその表情に(ひらめ)かせた。
 あとはお決まりだ。頬を叩き、倒れ込んだところを(あし)()にする。さよは唇を噛みしめる。すべては、報いなのだろうと思った。自分の愚かさの、人を見る目のなさの、自分のような女が幸せになれると思った、その思い上がりの
「待てい!」
 (さっ)(そう)とした声が、辺りに響いた。あの女性のものだ。
 見やると、彼女は変装していた。頭に深い編み笠の如きものをすっぽり被り、手には長い棒を持っている。()()(そう)のような雰囲気の出で立ちである。
「何だこいつ」
 彼が、怪訝そうな声を上げた。無理もないことではある。全体としては虚無僧風だが、細部を(ぎん)()すると面白おかしい組み合わせになっている。被っている籠は野菜か何かを入れるためのものだし、構えているのはどこかの家から拝借してきたと思しき物干し竿だ。近所の子供の虚無僧ごっこを、いい大人が真面目にやっている感じだ。
「我が名は(たわら)(ぼし)(げん)()なり。義によって横槍(つかまつ)る」
 そんな名乗りを上げると、女性は棒を構えた。長物だから助太刀ではなく横槍らしい。妙なところだけしっかりしている。
「訳が分かんねえが面倒だ。痛い目を見たくなけりゃ、とっとと失せな」
 懐から、短刀を出した。その所作には、慣れがある。修羅場もそれなりに踏んでいるようだ。さよは、思わず身を(すく)める。
(ほう)(かん)もどきが、槍の(そう)()に短刀一本で立ち向かうか」
 しかし女性は(ひる)まなかった。むしろ、笑いさえ含んでいる。
「身の程を知れ」
 そう言った刹那、瞬時に距離を詰めて打ちかかる。まるで、地面を縮ませてから一足でまたいだかのようだ。
 物干し竿が、生き物のように旋回する。彼の足を打ち、膝を折ったところで鳩尾(みぞおち)を突く。体を折るようにしてうずくまる彼、その鼻先に棒を突きつける。
「か、顔だけは勘弁してくれ」
「よかろう」
 (うなず)くと、女性は彼の頭をしたたかにぶっ叩いた。彼は目を回して倒れた。
「誰か! 助けとくれ! 物取りだよ!」
 女将が、甲高い絶叫を上げる。
「逃げるでござる。多勢に無勢となれば少々厄介なり」
 女性は、棒を持っていない方の手でさよの手首を摑んでくる。
 伝わってくるのは、あの時と同じ感触。生きる力に溢れた、(やく)(どう)する命そのものの確かさだった。

 二人は街を逃げ回り、人気のない(はい)(おく)に身を潜めた。
「やれやれ。何事かと思って後をつけてみたら、えらいことになっちゃった。しばらく鳴りを(ひそ)めるしかないわね」
 籠を被ったまま、女性が言う。申し訳ないので、さよは事情を説明した。
「なるほど。改めて顔を殴って参る」
 女性が、再び飛び出そうとする。
「待っとくんなはれ。捕まらはったら、申し訳のうてたまりませんさかい」
 棒を(かつ)いで立ち上がる女性を、一生懸命押しとどめる。
「あの、名前をお伺いしてもよろしいですか?」
 ようやく落ち着いたところで、さよはそう訊ねた。
(せっ)(しゃ)、俵星玄蕃でござる」
「からかわんとってください。それは(ちゅう)(しん)(ぐら)に出てくるお侍さんの名前やないですか」
「えへへ」
 そう言って、女性は籠を頭から外した。茶目っ気のある笑みが零れる。
(やま)(なし)県士族、()()()(あき)()
 女性はそう名乗った。
(つる)()さよと申します」
 そっと三つ指をつく。相手が侍でこちらが平民だとかいうことではなく、抱かされた敬意がさよにそうさせた。
「おさよちゃん、これからどうするの?」
 明子と名乗った女性が、そう訊ねてくる。
「東京は、もうよろしいわ。どっかちゃうところに流れます」
 さよが言うなり、明子は心配そうな顔をする。
「三味線も踊りもちょっとしたもんですさかい、どこへ行ってもやっていけますねん」
 そこで、さよはそう言った。はったりではなく、自信がある。何しろ、食い物にしてきた連中でさえ認めざるを得ないものだったのだから。
「ああ、いいなあ。手に職をつけられてるって感じ」
 女性が、眩しそうに目を細める。
「俵星玄蕃ゆうたら、確か天下無双の槍使いでっしゃろ? 槍働きで身を立て名を上げたらよろしいやないですか」
 忠臣蔵の筋を思い出しながら、明子は訊ねる。
「文明が開化しちゃったせいでね、槍の出番が少ないのよ」
「そうでっしゃろか。何か道があるんちゃうかな、思いますけど」
「ほんとに?」
「ええ。信じとくんなはれ。うちの勘は、よう当たりますさかい」
 そう、さよの勘はよく当たる。彼に惚れてしまった時もそうだった。この人を好きになっても、幸せになれない。さよの勘はそう告げていた。そして実際、その通りだった。
「そっか。じゃあ、立身出世のなった(あかつき)には食事でも(おご)るわ。流行りの牛鍋なんてどう? わたし食べたことないし、正直ちょっと怖いけど」
 ふふ、と微笑んでしまった。さよから見れば、明子は怖いものなしの(ごう)(けつ)なのだが、たかが牛の肉程度が怖かったりするらしい。可愛いところもあるものだ。
「楽しみでんな。わたしも頑張ります」
 不思議なくらい、気持ちがせいせいしていた。あの時投げたのは、石だけではなかったのかもしれない。誰かを好きになることで幸せになろうという人任せな自分も、一緒に放り投げたのかもしれない。
「うん」
 そう言うなり、明子は目を細めた。朝日が、顔を出したのだ。
 投げかけられる日差しは、早速暑い。あっという間に、辺りを夏へと変えていく。
 やはり一瞬なのだな、とさよは思う。朝も、人生のやり直しも。始まるときは、一瞬なのだ。
 さよは廃屋を出た。朝日に向かい、手を合わせる。
「頑張ろ」
 さよはそう繰り返した。始まるのが一瞬だからと言って、過ぎ去るのも一瞬では困る。続けていくのだ。自分の決意も、新しい人生も。

【おわり】