しのぶれば
北山の端が茜と金に色づき始めた。日中の仕事を終えた人間たちは、黄土色の乾いた大地に紺青色の影を残して帰路を急ぐ、そんな時分。
「わー、姫さまーっ」
「そっちへ行きましたぞ」
「降参! もう降参‼ おいら溺れちゃうよぉ」
大内裏は後宮、藤壺の庭では――あやかしたちの賑やかな声が響き渡っていた。
優雅に曲がりくねった遣水で、あっぷあっぷと泳ぐのは狸の容貌をした雲外鏡。水辺の曲がり角に待機して猫じゃらしでそれをつついているのは、猫又たち。周囲で手を叩いてはやし立てるのは二頭身の餓鬼、皆の頭上を旋回しているのは雀のあやかし、その他にも火の玉や楽器の付喪神、一つ目の大男など大小様々なあやかしが庭先や簀子に群がり、この一風変わった『宴』を楽しんでいた。
「はい、雲丸はおしまい。ご苦労さま」
その中央で一同を仕切るのは、紅に紫、山吹に瑠璃と秩序なく色を重ねた小袿をまとう可憐な少女、あやかし姫の毬藻だ。
頬を桜色に染め、葡萄色の瞳をくりくりと動かし、袂が濡れるのをいとわず白く小さな手をさぶんと水へ突っ込んだ。溺れかけていた雲外鏡の雲丸を抱き上げ、頭を撫でてねぎらう。
「よしよし、頑張ったわね。半分も泳げたじゃない」
「姫さまあ!」
雲丸が涙目で毬藻にしがみつくと、観衆のあやかしたちは口笛を吹いたり指を鳴らしたりしてその健闘を讃えた。
そんな大盛り上がりの中へ、鋭い男性の声が割り入ってくる。
「こんな日暮れに何を騒いでいる」
振り返れば、南の渡殿に白の御引直衣が見えた。満開の桜のごとき華やかなかんばせをした、この大内裏の主である帝だ。
「あら、清涼殿のほうまで聞こえた?」
とっさに毬藻が問えば、彼は涼やかさと優美さと色香を兼ねそろえたせっかくの美貌をしかめ、渋面を作る。
「当たり前だ。皆、怖がっている」
「人間って本当に怖がりね」
ただ遊んでいるだけで、取って食いやしないのに。毬藻が入内してきて少し経つが、人間たちはこの付近に近寄りもしない。あやかしを恐れない唯一の例外は、この婚姻を主導した帝だけだ。
とはいえ、彼も決してこちらに好意的なわけではなく、態度はつかず離れず淡々としている。
「ところで、そなたらは何をしていたのだ。水ごりか?」
「何それ? 初めて聞く言葉」
「水垢離――神や仏に参る前に、冷水を浴びて穢れを落とし、身を清めることだ」
感情の読めない真面目な顔つきで説明されるから、毬藻は反対に笑い出したくなった。
「そんなわけないでしょう。わたしたちは人間の宴を真似していただけ。雲丸、見せてあげて、あの絵」
腕に抱いていた雲丸を抱え直し、鏡になっている太鼓腹を帝へ見せる。そこに映し出されたのは、遣水のほとりに貴族たちが間隔をあけて佇み、流れてくる水鳥に手を差し伸べる様子が描かれる絵巻物だ。
「……これは『曲水の宴』だな」
「そうよ。うまく再現できているでしょう?」
毬藻は水辺に待機する猫又や餓鬼たちを示して胸を張る。
「確かに形は似てなくもないが、残念ながら主旨が違う。曲水の宴は泳ぐことが目的ではなく、この鳥の浮きが自分の前に流れ着く前に歌を詠むのだ」
「歌って、なんとかや、ごにょごにょなりて、どうなった、みたいなアレ?」
「そうだ。せっかくだからそなたも試しに倣ってみるか? 正しい曲水の宴を」
「いいわね! やりましょう」
毬藻は前のめりになって拳を握りしめた。
(帝から遊びに誘ってくれるなんて。人間と仲良くなれる第一歩だわ)
わざわざ嵐山から嫁いできた甲斐があるというものだ。そんな毬藻の心など知らず、帝はさくさくと準備を進めていく。
「水鳥の役目は、その雀のあやかしがよいな」
「お、俺?」
指名された茶々丸が驚き、毬藻の肩先に隠れてくる。
「頑張って。とても重要な役目よ」
「そうなのか? わかった!」
毬藻が励ますと、茶々丸はすぐに乗せられてくれた。
「俺はどうすればいいんだ?」
「川上から自然に任せて流れてくるだけでよい。本来は頭に酒をついだ盃をのせるのだが、姫は飲まないだろう? だから今回はなしにしよう」
帝は今度は毬藻の方へ向き直り、紙と筆を渡してくる。
「姫は和歌を詠めるのか?」
「あ、当たり前でしょうっ」
とっさに鼻息荒く答える。あやかし姫に出来ないことなどない……はずだ。
すると帝はほんのわずか、固い表情を和らげた。毬藻の見間違いかもしれないが。
「そうか。では、雀が到達する前に和歌を作り、その背中にのせるとしよう。姫は川下へ。わたしが先に詠む」
口調はそっけないまま彼は川上に陣取る。悪戯心が芽生えた毬藻は、親友に無茶なお願いをした。
「茶々丸、帝のところへは豪速で流れてね」
「合点承知だぜ」
やる気満々で、茶々丸が川上から泳ぎ出す。しかし、帝はまるで呼吸をするように筆を動かし、紙面に流麗な文字を刻んだ。
「え、嘘、もう書けたの?」
あらかじめ考えてあったと疑うばかりの速さに、毬藻は目を剥く。けれども、驚いている場合ではなかった。
「次は姫の番だな」
茶々丸の背に紙をのせた帝は、飄々と指摘してくる。
「待って、茶々丸ゆっくり!」
「わ、わかった……」
卑怯とは知りつつも、茶々丸の足を止めさせて紙面に向かう。
(えーと、和歌。五七五七七で……って、全然浮かばない)
青ざめた顔を上げると、茶々丸もまた必死の形相で流れに逆らい、立ち泳ぎをしていた。
「もう着いちまうよー」
もともと雀なので泳ぎは得意ではないのを、かなり無理させている。けれども、負けるわけにはいかないのだ。あやかし姫の沽券に関わる。
「まだよ! もうちょっと」
(五文字、五文字……そうだわ。『あやかしは』から始めたらいいんじゃない?)
たどたどしい手つきで、思いつくまま一文字ずつ書いていく。
(『あやかしは……あやしかしまし あはれなり』と。ほら素敵。完璧じゃない? あと十四文字……)
「毬藻ーっ、俺、もう限界……」
集中していると、ぶくぶく……と泡の立つ音がして、はっと我に返った。茶々丸が尻から沈んでくちばしだけを水面に出している。
「茶々丸ー‼ しっかり」
紙と筆を投げ出して親友の救助へ向かう。無事に救い出せたものの、帝が書いた和歌も、毬藻の書きかけの紙も水没してしまった。
「どうした。歌が思い浮かばなかったのか?」
「ぐぐ……悔しいけれど、そうよ。わたしの負けね」
唇を嚙みしめながら言えば、帝からふわりと甘い香りが立つ。
(あれ……まさか喜んだ?)
あやかしは人間の感情を好んで食すため、その機微に敏いのだ。帝はほとんど毬藻へ感情を見せない人なので、これは珍しいことだった。
けれども、やはり表情は冷めていて、垣間見えた感情もすぐ閉ざされる。
「宴に勝ち負けはない。これで気が済んだか? わたしはそろそろ失礼する」
「うん、またね」
(簡単に仲良くなれはしないけれど、ちょっとだけ距離が縮まった……かもしれない)
清涼殿へ戻っていく後ろ姿を見送りながら、毬藻はぼんやりとした達成感を覚えた。
「はー、くたびれた。俺ちょっと砂浴びしてくるわ」
「おいらも簀子で転がろうっと」
茶々丸や雲丸、他のあやかしたちが引き上げていく。毬藻も母屋へ戻ろうと振り返ると、七尺はあろうかという長身でいかつい体軀のあやかしが、ずうんと立っていた。
「桃丸」
白粉を塗りたくった顔に女房装束の彼は、文車妖妃。自称、あやかし界の生き字引である。曲水の宴中は曹司で書物を読んでいたが、終わってから外へ出てきたようだ。
「どうしたの、一緒に遊びたかった?」
「あたくし、くだらない遊びはしない主義ですの。でも、帝の詠んだ歌はちょっと気になりますわ。見せてくださいませ」
「そういえば、どこへ行ったかしら」
存在をすっかり忘れていた。遣水へ目をやると、水を吸って底へ沈んでいる淡縹色の薄様を見つけた。
「ああ、駄目だわ。墨が滲んで読めない」
「貸してごらんあそばせ」
ぽたぽたと水を滴らせる紙を奪うように手にして、桃丸は目を細める。
「『しのぶれば いろにはいでじ わがおもひ』? その先は残念ながら元の字がかすれていて読めませんわね」
「ふーん、忍ぶれば色には出でじ我が思ひ……って、どういう意味?」
「『あなたへの想いを秘密にしているので、はっきりと顔色に出したりしません』でしょうかしら? でも、変ですわね」
首を傾げる桃丸に、毬藻もつられて一緒に頭を傾ける。
「何が変なの?」
「これではまるで恋の歌ですもの。あの人間、姫さまに恋をしているとでも?」
「まさか」
おかしくて、思わず毬藻は噴き出してしまった。あやかし姫の入内は、長らく続いたあやかしと人間との争いを収めるために手を取り合っただけのことで、そこに恋愛感情など存在しない。
現に帝は、嬉しいとか悲しいとか単純な感情すら毬藻へ向けないのだ。
「まあ歌なんて適当なのよ、きっと。ほとんど考えもせず、さらさら~っと書いたんだから」
「まあ、さらさら~っとですの?」
「ええ、流れるように簡単にね」
「そうですの。なのに、姫さまは和歌の一つも詠み返せなかったと」
蛇のようにねっとりとした視線が絡みつく。
「あたくし教育係として情けないですわ」
毬藻はぎくりと肩を震わせ、一歩後ろへ下がった。
「全然、桃丸のせいじゃないわ。たまたま、ちょっと、焦っただけで……」
だが、桃丸の巨軀はいとも簡単に毬藻の逃げ道を塞いだ。
「逃がしませんことよ? 今夜はお歌のお勉強をいたしましょうね。みっちり、しっかり、きっちりしごいて差し上げますわ!」
「か、勘弁してー」
「唯一の妃として、人間の文化を学ばねばなりませんのよ」
人間を知りたいとは思うけれど、それとこれとは別だった。
(でも……)
また帝とこんなふうに遊ぶ日が来たら、毬藻も歌を詠んでみせ、驚かせるのも悪くない。
(仲良くなりたいのは本当だから)
少しずつ、彼に歩み寄っていけたらいい。
【おわり】