青の目覚め

なにもかも、大嫌いだった。
今までも、きっとこれからも、
そして今日もまた、やっぱり嫌いだと、僕をこの部屋に呼びつけた人間に視線をやりながら思う。
何十畳かある広い洋室。敷き詰められた上等な絨毯には、僕が知ることもない異国の模様が織り込まれている。火を落とされた大きな暖炉。僕はあそこの火に当たったことはない。キャビネットのガラス細工も、彫像も、僕が触れることは許されない。
テーブルの前に置かれた椅子に座った男が、大きく口を開けた。
男はその口で、青い目で見る世界は青い色をしてるのかって罵る。唇の端を思いきり歪めたその表情はみっともなくて、ろくでなしが道端の石を蹴り飛ばすときだってもうちょっとはましな顔をするだろうなと思う。手に持っているのは強い酒の満たされたグラスだ。酔っていないこいつを、僕はまともに見たことがない。
この男は僕の父で、青葉侯爵家の当主だ。
こいつは僕が生まれた日から飲めない酒を飲み始め、その後、正妻との間にも妾の間にも新しい子どもができない日々が続くと、さらに酒に溺れ始めた。
僕のせいなんだろうな、もう、そう考えるのも疲れたけど。
父の横に立つ女があからさまに扇で顔を覆った。細く描かれた眉は思い切りひそめられている。
「いつ見ても汚らわしい……」と、声が小さく聞こえた。
あれが僕の母だ。
青葉侯爵の跡継ぎを生むために、どこかの伯爵家から嫁いできた。けど、生まれてしまったのは左目だけ青い僕だ。
帝都の華族には時おり変わった色の瞳をした人間が生まれるけれど、それは名誉なものじゃない。特に青葉家は、長い家名の歴史の中で、純黒の瞳しか生まれていないことを誇りにしていた一族だ。もちろん、母の一族にも茶や黒灰色の目はいても、青い目なんて生まれたことはない。
――名門の血を掛け合わせた末に産まれたできそこないの僕を、この女は憎んで疎んで、とうとういないものにすることに決めた。
だから、僕の幼いころの記憶に母親はいない。
僕を育てたのは使用人。でも、その使用人たちも、僕が両親にないがしろにされているのを知っているから、親身になってはくれない。仕事として面倒そうに接せられているのは十歳の僕にだってわかる。
僕は一人だ。人は助け合って生きるべきなんて綺麗ごとはどうでもいい。そうだ。
僕は一人なんだ。
「おまえは名誉ある青葉の血の汚点だ」
ああ、そう。わかってる。
「今回の庭園懇親会も、私はお前を出席させるべきではないと言った。招待くださった辺田卿に失礼だからな」
別にいいよ。僕もそんなのに出たくない。
「しかし、刀自の強い言いつけだ。そろそろ跡継ぎを表に出せ、とな」
おおいやだ、と母が扇の向こう側で首を振る。父も、さっきよりひどく顔をしかめた。
「刀自に感謝しろ。私が養子を取ろうとしたのを止めたのも刀自だ」
へえ。僕とは違う跡継ぎを据えるつもりだったのか。いいんじゃない? 刀自が止めたことの方が意外だよ。
「本当に、ね。西のお方さまがご三男をうちにくださるとおっしゃったのに。刀自はお断りになって。わたくしがおまえを産んだことを、刀自は今でもお許しにならないのだわ」
母が楚々とした仕草で扇を閉じて、僕に侮蔑の眼差しを向ける。
「刀自は、そのような見せしめをなさる方ではないと何度も言っているだろう」
「だって、あなた……」
母が縋るように父を見る。
「わたくしのせいで青葉家の跡継ぎが……化け物……」
もう、完全に消したはずだった胸の火が、母の言葉でちりりと燃え上がる。
そうだよ。僕は化け物だ。じゃあ、化け物を産んだおまえらはなんだ?
「あれでもかまわないと仰せになったのは刀自だ」
「刀自のお考えが第一……それはそうでしょうけど」
「わかっているなら愚図愚図とものをいうのをやめろ。今更目障りだと殺すわけにもいくまい。まったく、産婆も気をきかせて首でも締めればよかったものを」
父の言葉を聞いて、僕はきつくこぶしを握りしめる。
勝手に産んで、次は殺すのかよ。ふざけるな。
「そうですわねえ。そうすれば、違う方を跡継ぎにできましたのにねえ」
おまえもおまえだよ。
美しい顔をした修羅。家名と自分のことしか考えていない。
殴りかかりたくなる気持ちを僕が必死で抑えていると、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、小柄で背の曲がった老婦人――刀自だ。
「これ、おまえたち、凪に話はしたのかえ」
「あっ、はい。懇親会のことならば、刀自のご意向通りに」
「ならばよい。凪は次の『青葉』だからの。心づもりをしてもらわねば困る」
真っ白な髪で髷を結った刀自が、コココ……と不思議な笑い声をあげる。杖に寄りかかっている丸っこい姿は、小さいのに父よりずっと強そうに見えた。
祖父が早くに亡くなった後、青葉家を切り盛りしてきた祖母の刀自に父は頭が上がらない。父がそうなら、当然、母もだ。
でも――。
刀自は、父たちよりもっと僕のことが嫌いだと思ってた。
そっか。次の『青葉』だと、僕をそう思ってくれてるのか。そういえば、刀自だけは僕のことを名前で呼んでくれる。
少し、嬉しい。……いや、正直になろう。今の僕は、とても嬉しい。
「刀自さま、あの」
今度、刀自の肩を揉もうかな。車で一緒に出掛けて、刀自の好きなものを二人で食べたいな。本当は僕にも、話したいことがたくさんあるんだ。
そんなことを思いながら、僕は刀自に歩み寄ろうとした。
けれど、それは刀自が杖を床に叩きつける音で遮られる。厚い絨毯越しでもひどく耳に響く音。刀自が歯を剥きだしにした。
「近づくでない」
え?
「不浄のものめ。『青葉』の直系が貴様だけでなかったら、とうに縊り殺しているところを!」
二度、三度、床に叩きつけられる杖。
そのたびに、僕の中にもひびが入っていく感じがする。
嘘だよね、おばあちゃん。さっき、「凪」って呼んでくれたじゃないか。
「『青葉』が陛下に仕え続けることは、亡き旦那さまの悲願よの。そのためだけにわらわは、わらわは」
「刀自!」
心臓の当たりに手を当てて、ぜいぜいと苦しそうな息をし始めた刀自に、父が駆け寄る。
「『青葉』以外の血を入れる屈辱と、不浄を主にいただく屈辱、どちらも似たようなもの。ならば旦那さまの孫を生かしてやろうと考えた婆の気持ちを思い知れ!」
――くらくらする。
はは。
やっぱり僕は一人だ。振り返っても前を向いてもどこにも逃げ場なんかない。
この青い目を道連れに、地獄への道を下るだけ。
◇◇◇
庭園懇親会の日は、よく晴れていた。
見たこともないよそ行きの笑顔で、父がみんなに僕を紹介する。
父に命令されて僕は、黒い眼帯で左目を隠していた。
……どうせ、僕の目のことは誰でも知ってるだろうに。馬鹿馬鹿しい。
でも、いちばん馬鹿馬鹿しいのは僕だ。
全部嫌で、でもなに一つ投げ捨てることもできずに、作り笑いを浮かべている。
行き交う人たちが減ってきたあたりで、僕は立ち話を続ける父から逃げるように庭園の隅に移動する。
息苦しくてたまらなかった。
嘘ばかり。僕に期待してる? 嘘だ。僕が大事な息子? 嘘だ。
全部嘘。みんな嘘。嘘ばっかりだ。
僕は、庭園の一角に影を広げる、太い木の幹にもたれかかる。
眼帯の下にある青い目。えぐりとってやろうか。そうすれば僕は、正しい青葉家の息子になれるんだろうか。
「おや、先客か」
目の上に指を広げかけたとき、横から聞こえたのは――ひどく冷ややかな声だった。
僕は慌てて手を元の位置に戻す。
今、なにをしようとしていたんだろう。
荒くなりそうな息をかみ殺して、僕は冷ややかな声に答えた。
「僕もただの招待客だよ。先客だなんて気にしないでここにいたら?」
そう言いながら、僕は隣に立った人に目をやる。
僕よりも随分と背の高いその姿は、雪の結晶のように冷え冷えと綺麗だった。
「あれ、瀬能さん? だっけ」
僕が声を上げると、冴え渡った美貌は軽く眉を上げる。それから、ふむ、と首をかしげた。
「私は瀬能春臣だが、きみは」
「青葉凪。青葉侯爵家の長男。瀬能さんがうちに来てるのを見たことがある」
そうだ。こんなに美しい人を忘れることなんかできない。来客の前に出ることは禁じられてたけど、こっそりのぞき見をしてその端整さに驚いたんだ。
「青葉家の令息か。はじめまして」
「はじめまして」
この人はいいな。
綺麗なだけじゃない。瀬能公爵家の跡継ぎで、父親の代わりにうちを訪れるようなしっかりした人だ。きっと、悩みなんてないんだろうな。
「ここは静かでいい。私はうるさいのが嫌いだ」
なのに、その芸術品みたいな唇から、まるで似つかわしくない台詞が飛び出してきて僕はびっくりする。
「瀬能家は挨拶回りをしなくていいの?」
「最低限の人間にはした」
瀬能さんが、む、と不快そうに眉間に皺を寄せる。
「きみはずけずけとものを言うな」
「僕も挨拶回りは好きじゃないから」
口に出したら、胸のつかえが少しすっとした。
「そうか」
つまらなそうに答える瀬能さんはとても正直に見えて、僕はなんだか羨ましかった。
そういえば、僕は、自分の気持ちをちゃんと口に出したことなんかあったろうか。
「うるさいのが嫌いなら、一人が好き?」
僕は思い切って尋ねてみる。
でも、瀬能さんは無言で目をすがめただけだった。
「嫌い?」
なんだか止まらなくて、僕は言葉を続ける。
この人の口から、どうするのが好きか嫌いか聞いてみたかったんだ。
「……好きでも嫌いでもない」
ようやく不機嫌そうな返答が聞こえてきて、僕は意外さに靴の爪先を打ち合わせた。
この人、こんな声も出すんだ。
「そんなんで、つまらなくないの?」
「別に」
瀬能さんの長いまつげがゆらりと揺れる。整った横顔が動いて、こちらを向いた。
「人が一人なのは当たり前だ。手を繋いで生まれてくる人間はいない」
言いながら僕を見つめる漆黒の虹彩に、胸を射られた気がした。
「そっか。一人なのは当たり前、か」
眼帯で半分になっている視界。
そこに映る瀬能さん。
あれ、なんでだろう。曇ってるはずなのに空が明るくなった気がする。
「ああ。自分の味方は自分だけだ」
素っ気ないけど、きっと嘘じゃないんだろうなって物言いが心地いい。はっきりとなにかを言い切れる潔さも。
僕はどうだったかな。誰かにちゃんと想いを伝えようとしたこと、なかったかもしれない。ただ立ち止まって、自分の境遇を嘆いて、恨んで、それだけ。
それじゃ、地獄どころかどこにも行けないよ。
「なら、僕は、僕の味方をしてあげればいいのかな」
ようやく形になった言葉は、不思議なことに確実な真実だと思えた。
「知らん」
吐き捨てて、瀬能さんはまた前へと向き直る。
僕は思わず笑ってしまう。
たぶん、この人は嘘をつけない人なんだろう。
「ありがとう、瀬能さん。ううん、春臣さんって呼んでいい?」
「どうでもいい」
「じゃあ、春臣さん!」
眼帯を外して、僕は春臣さんの正面に立つ。春臣さんが眉をひそめた。でも僕は気にしない。だって僕の味方は僕なんだから!
「もう、こんな物つけない。誰にも僕の文句は言わせない。青葉家だって僕のものにしてみせる」
「それがなんだ? 私には関係ない」
春臣さんが面倒そうに言い切る。ただ、それだけ。
僕の青い目を見ても、春臣さんは特に反応をしなかった。
あ、この感じもすごくいい。
僕の目が何色でも関係ないんだ、春臣さんには。
そう思えば、じわっと胸が温かくなる。
決めた。今日から僕は、なにもかも大嫌いだなんて言わないよ。
【おわり】