若林のモノローグ

運命の出会い。組長と盃を交わした以外にそんな出会いが自分に訪れることなどあるまいと、二年前のあの日までそう思っていた。
あれは久々に鉄砲玉に狙われ、左腕に傷を負った日だった。避けることもできたのに、油断した、と自身への苛立ちを抱えながら、歌舞伎町の、組お抱えの医師のもとに向かったその帰り道、隣のビルのペットショップで俺はまさに『運命の出会い』をしたのだ。
犬も猫も好きでもなければ嫌いでもない。要は興味がなかったのだが、ショーウィンドウの真ん中、ちょこんと座っている茶色い塊を見た瞬間、俺の頭の中で高らかに鐘の音が響き渡った。結婚式場で鳴るようなあの鐘だ。ゆく年来る年のほうではない。
俺の視線に気づいたのか、茶色の塊が顔を上げ、つぶらな黒い瞳でじっと俺を見つめてくる。
掌に軽く乗りそうな小さい、愛らしい毛糸の塊のようなその姿。ケージにある札には『トイプードル』と書いてある。
「くうん」
ウインドウ越しに俺をじっと見つめ、可愛らしい鳴き声で語りかけてくる。その声が俺にははっきりとこう聞こえた。
『連れて帰って、パパ』
次の瞬間、俺はペットショップに入り、即金でトイプードルを手に入れていた。
犬を飼うのは初めてなので必要なものを全部くれとショップの店員に告げ、トイプードル以外は配送を頼んだ。迎えの車に乗り込むと俺は若い衆に、犬の世話について詳しい人間を部屋に寄越すようにと伝えた。
ボディガードをはじめ、若い衆たちは、俺がいきなり犬を購入したことに、相当驚いたようだった。とはいえそれを顔に出すような不届き者はいない。すぐに犬の世話に詳しい人間として、先程のペットショップの店長が連れてこられ、震えながらも彼はショップから届いた大型のペットサークルやトイレなどを室内に設置し、まずは何をするべきかといった、犬を飼うのに頭に入れておかねばならない基礎的なことを教示してくれた。
「名前はもう決められましたか?」
帰りしなに彼は俺にそう問い掛けてきて、そうだ、名前をつける必要がある、ということに改めて気づいた。
「これから考える」
「男の子ですから、どんな名前がよろしいんでしょうね」
購入した首輪にもリードにも、名前入れのサービスがあるので名を聞いたのだと店長は説明したあとに部屋を出ていった。
名前――名前か、とトイプードルを見つめる。と、トイプードルも真っ直ぐに俺を見上げてきた。
抱き上げてみようか。まだ俺は触れていなかった。力の入れ加減を間違えると潰してしまわないか、心配だったからだが、じっと俺を見上げるつぶらな瞳を見ているうちに、こう訴えかけてくるように聞こえてきた。
『パパ、だっこして』
犬を子供扱いなど、できるはずがないと、それまでの俺なら思っただろう。だがなぜか自然にその言葉が浮かんだのだった。
おそるおそる俺はトイプードルを抱き上げてみた。トイプードルは俺の腕の中でじっとしている。酷く軽くて、そして――酷く温かかった。
愛しい――。
そんな気持ちを抱いたのは初めてだった。胸の奥の方、次から次へと、このか弱き者への温かな気持ちが湧いてきて、全身が満たされるような錯覚に陥る。
これが『愛しい』という感情か。可愛らしい。守りたい。幸せにしたい。今まで感じたことのない思いが次々と胸から溢れ、そのいきおいで俺はトイプードルに頬摺りしていた。
「くうん」
耳元で可愛らしく鳴くその声に、自分の行動を思い知り、愕然となる。すぐ近くにあるトイプードルのつぶらな瞳。きらきらと輝くその瞳に、ハッハッと舌を微かに出し呼吸するその可愛い口に、ますます『愛しい』という思いは募り、何があろうとこの子は俺が――パパが守ってみせる、という固い決意が胸に生まれた。
「任せてくだちゃいね」
口から零れた言葉は、赤ん坊に接するときのようなものとなった。が、腕の中のトイプードルは赤ん坊なのだからそうして当然なのだ。
いつまでも『トイプードル』と呼んでいるわけにはいかない。名前をつけてやらねば。それが父親としての最初の務め。この子に相応しい、可愛らしい名前をつけてあげよう、と俺はその夜、ありとあらゆる犬の名付け例を集めた結果、この子の可愛い見た目にぴったりな名をようやく決めることができた。
『マカロン・チョコレート・若林』
ほわっとした感じを表現したくて、洋菓子を思い浮かべた。シュークリームと迷ったのだが、一〇〇回くらい試しに口にしてみて、マカロンのほうが呼びやすいか、とこちらに決めた。『チョコレート』はミドルネームだ。我ながらいい仕事をした、と頷いたときには、既に日は高く上がっていた。
「マカロンちゃん」
呼びかけるとトイプードルは、はっとしたように顔を上げ、可愛らしく鳴いた。
「ワン!」
気に入ってくれたようで嬉しかった。その日から俺とマカロンちゃんの蜜月生活は始まったのだが、あるとき、マカロンちゃんは家から突如脱走してしまった。
室内飼いではあるが、当然ながらGPSはつけている。マカロンちゃんが向かったのはなんと、古びた三階建てのビルの中にある探偵事務所だった。
探偵曰く、マカロンちゃんは奴の親友の生まれ変わりで、それゆえ言葉が通じるという。馬鹿げた話だと呆れたが、奴のスマホ越しにマカロンちゃんの可愛らしい声を聞いた瞬間、俺はすべてを受け入れた。
「若林さん、マカロンです……」
「マカロンちゃん……!!」
俺の頭の中で響いていたとおりの声音だった。探偵が小細工をした可能性はゼロでないとはいえ、自分が想像したとおりの小さな男の子のような声だったことで、俺はすっかり舞い上がってしまったようだ。
マカロンちゃんは常に俺に話しかけてくれるわけではなかった。ペットショップから連れて帰ったときと、はじめて抱き上げたときくらいにしか、彼の声は俺の頭の中で響かなかったというのに、これからは望めばいつでも聞けるのかと思うと、まさに天にも昇る気持ちだった。
唯一の不満は、毎度探偵の手を借りねばならないということだ。マカロンちゃんは探偵の経営手腕のなさに同情し、手助けをすると言い出した。毎日通いたいという彼の希望を無視しきることはできず、送り迎えをすることにしたのだが、それは探偵からマカロンちゃんの言葉を聞くためでもあった。
愛し子の希望はなんでもかなえてあげたい。何をしたら喜ぶのか想像するのではなく本人に確かめた上で、確実にかなえてやりたい。探偵に頼めばそれが実現できる。なんという僥倖であろうか。
今日も俺はマカロンちゃんのために、彼が喜ぶことをしてあげたくて、散歩のあと、おもちゃで遊ぶ。
「楽しいでちゅか? マカロンちゃん」
「ワン」
元気よく答えるマカロンちゃんだが、少し目が虚ろに見える。このおもちゃは好みではなかったのか。どんなおもちゃが好きなのだろう。なければ工場でも何でも建てて作らせるまでだ。
探偵事務所に着いたらマカロンちゃんの希望を聞いてみよう。待っていてくだちゃいね、マカロンちゃん、と微笑みかけると、マカロンちゃんは、
「ワン」
とそれは可愛らしく鳴いてくれ、やっぱり気持ちは通じているんだなと俺を更なる幸せの極みへと連れていってくれたのだった。
※注 あくまでもこれは個人的な見解で事実とは異なる可能性があります。
【おわり】