エドマンド・フリートウッド、吝嗇家疑惑事件

「お兄さまって、吝嗇家なの?」
クラリッサにそうたずねられて、エドマンドはサーモンにさしいれたナイフを、ゆっくりと引き抜いた。
久々にスコットランドのカントリー・ハウスに顔を出した。アビゲイルと共にイーストエンドをかけずりまわってから、はや半月がすぎ、ようやく落ち着いたころである。
エドマンドはその間、常に話題の中心だった。
切り裂きジャック疑惑に続いて、報じられたのはアビゲイルとの婚約報道。
――もちろんどちらも誤解ではあるのだが。
このところ我が家を騒がしくさせてしまっていた。家族には自分の口から事情を説明しておかなくては、と思ったのである。
だが、両親は不在にしていた。友人の屋敷にまねかれて、一週間ほど留守にするらしい。
「りんしょくかってなに?」
「クラリッサ。なぜお前は父さんたちと一緒に出かけなかったんだ」
両親がいないならば来訪の目的は達成できない。
これならばいっそ、ひとりでのんびりと過ごした方がよかったのではあるまいか。クラリッサが退屈をもてあましてエドマンドにつきまとうものだから、読書もはかどりはしない。
「だってつまんない。鹿を狩るのは好きじゃないもの。で、りんしょくかって何なの、お兄さま」
「どうせ父さんだろう」
そんなことを言うのは、と続けなくともクラリッサはうなずいている。年の離れた妹は十二歳になったばかり。何にでも興味しんしんで、生意気ざかりである。
(父さんの近くにこの子を置いていくのは、教育上よろしくないな。堕落した大人になっては大変なことだ)
なにせ父は金遣いも性格も破天荒ときている。クラリッサの教育にも熱心ではない。母ものんびりしているし、クラリッサの言動いかんによっては自分がかわりに教育方針を見直す必要がある。
「りんしょくかってなに?」
「食事の時間だぞ。まずは静かに食べなさい」
クラリッサはむくれて、サーモンを見下ろしている。
ナプキンで口をぬぐうころには、あたたかい紅茶が運ばれてきた。
エドマンドはカップを手に取り、ひとくち紅茶を口に含むと、妹の疑問にようやく答えた。
「吝嗇家というのは、いわゆるケチと呼ばれる人種のことだ。俺は吝嗇家ではない。あくまで常識に基づいた金の使い方をしているだけだ。お前の父さんの金遣いが荒すぎるんだ」
「お兄さまのお父さまでしょ」
「お前のお父さまでもある」
クラリッサはくちびるをとがらせる。
「お父さま、言ってらしたわ。『エドマンドは吝嗇家だから、将来の妻に満足なドレス一枚買ってやることができないんだ。恋人に捨てられるのも時間の問題だ』って」
「なんだって?」
エドマンドがすごむと、クラリッサはあわてて紅茶のカップに視線を落とす。
「ねえ、お兄さま。吝嗇家って病気なの? いいお医者様がいたら、治るものなの? 私、お兄さまがカントリー・ハウスに来るって知らせをきいたから、きっとお義姉さまになるかもしれないひと――アビゲイル・オルコットさまに会えるんだと思ってた。でも一緒に来なかったわ。それはお兄さまが吝嗇家だからなの?」
「ばからしい」
エドマンドは新聞を広げた。
「だいたい、なぜ俺が吝嗇家などと……おい。なんなんだこの新聞は。デイリー・テレグラフかタイムズはないのか。これは低俗な一ペニー新聞じゃないか」
「お父さま、そういうの読むの好きなのよ」
「まさかお前まで読んでいるんじゃないだろうな」
クラリッサは黙っている。
「まったく、子どもの情操教育のさまたげになると思わないのか」
給仕に新聞を押しつけようとして、エドマンドは思いとどまった。紙面のすみっこ、ほんの小さな記事の中に、自分の名前を発見したのである。
【社交界の貴公子、エドマンド・フリートウッドはとんでもない吝嗇家! 外出時も恋人のアビゲイルにぼろを着せたままである――】
*
美しい青の染め布を手に、アビゲイルはため息をついた。
「まぁ、どれもこれも素敵ですわね」
なめらかなシルクの肌触り。一度手に取ってしまうと、心地よさに頬がゆるんでしまう。「インド産の一級品シルクです。これでサリーを作りませんか、アビゲイルさん。あなたなら必ずお似合いになる」
「でも……インドの民族衣装を着て出かける機会なんて……」
「いくらでもありますよ。インドへ行くなら何着か持っておいたほうがいい。現地についてからでも品物は手に入りますが……」
アビゲイルはいやあね、と笑った。
「リティク、それはつい先日お断りしたばかりじゃありませんの」
「もちろん冗談ですよ。では、スカーフをひとついかがですか。頭に巻いてもよいですし、首に掛けても……このシルクなら、ブラウスにも加工することができますよ。お代は頂戴しません。私からの贈り物です」
「そういうわけにはまいりませんわ」
扉が几帳面に二度ノックされ、アビゲイルは立ち上がった。そういえば、接客中の札をかけ忘れていた。
番犬のシャーベットとソルベがそわそわと立ち上がり、扉をあけてほしいとせがむ。見知った来客なのだ。
ノックの音からして、誰かはもうわかってはいるが。
「まあ、エドマンド。いらっしゃいまし。スコットランドへ行かれていたのでは?」
「急用を思い出し、帰った。……ずいぶんとテーブルがにぎやかだな」
色とりどりのシルクを目の前にして、エドマンドは眉を寄せた。
「またお会いしましたね、エドマンド殿」
リティクがほほえみかけるが、エドマンドは軽くうなずくだけだ。このふたり、相性がよくない――というか、エドマンドが一方的にリティクを毛嫌いしているのである。
「いかがですか、エドマンド殿。あなたのご意見もお伺いしたい。アビゲイルさんには青がお似合いになると思うんです。白い肌が美しく映えるでしょう」
「珍しく買い物か?」
リティクは無視して、エドマンドはアビゲイルにたずねた。
「そのつもりはなかったんですけれど、良いシルクが手に入ったと、リティクがたずねてきてくださったの。たしかに最近ドレスの修繕が追いつかなくなっていたところなんです。でも、こんなに高級なシルクでドレスを仕立てるわけにもいかないですし」
「お代は頂戴しませんよ。アビゲイルさんには日ごろからお世話になっていますから」
エドマンドは帽子をとって、まじまじとシルクをながめた。
「品はたしかなようだ」
「もちろん。アビゲイルさんをさらに美しく引き立てるために、私は骨惜しみしません。シルクにかぎらず、お望みならどんな生地でも――」
「ご足労いただいたところ申し訳ない。実はこの後アビゲイルと一緒に買い物にいく予定なんだ。外に馬車を待たせてあってね」
「は?」
そんな予定はない。しかしエドマンドはすらすらと続ける。
「シルクは、彼女が望むならこの場で購入して構わない。小切手で支払おう。――ただし、その青はあまりよくないな。色が濃すぎて顔色が悪く見える」
「……さすがエドマンド殿。では、水色はいかがですか。こちらもよくお似合いになるかと」
「ああ、きれいな色だ。犬の首輪に巻き付けるのにちょうどいい」
犬たちがあわててふたりの男の間に割って入り、鼻で鳴き始めた。二匹の犬は争い事を嫌うのである。
「――わかりました。出直しましょう。アビゲイルさんが商品をお望みならば、あなたの会社に請求書をお出しします。アビゲイルさんが代筆してくださいますから」
「あの、リティク」
「次はシルクと一緒に、とびきりおいしい紅茶をお持ちしましょう。またすぐにお会いできますよ」
アビゲイルの手の甲にキスを落とすと、リティクは商品をまとめて、出て行ってしまった。
「手袋はしているべきなんじゃないのか」
エドマンドは神経質に言う。
「もう、リティクにつんつんしないでくださいと言っているのに。大事なお客さまなんですのよ」
「俺の客ではない」
「まあ! なんて言いようですの」
「いいから支度をしろ。ドレスを買いに行くぞ」
「なぜ?」
「ドレスの修繕が追いつかないと、あなたが言ったんじゃないか」
エドマンドはいらいらしているようである。
「あなたが倹約家なのは結構だが、俺が吝嗇家なのではないかという疑いがかけられている」
「ああ、この新聞ですの?」
たしか十日くらい前に載ったほんの小さな記事だった。アビゲイルがボロを着ているのを、婚約者のエドマンドは放っておいていると――。
「勝手なことを書きますわね。たしかにちょっと着古していますが、れっきとしたお気に入りのドレスばかりですのに」
アビゲイルの黒いドレスは、ぼろと呼ばれるほどひどくないつもりだ。切り裂きジャック事件も落ち着いてしまい、よほどネタがないのだろう。
「このような書き方をされるのは不愉快だ。今から仕立屋に向かう」
「噂なんてほうっておけばよろしいのですわ。紅茶はいかが? エドマンド」
「紅茶はいい。犬を隣にあずけるぞ。奥様方に今日の要件をよくよく伝えるんだ。『今日、エドマンドと一緒にドレスを買いに行く予定なので、犬を預かってください』と」
「ご自分でおっしゃったらいいのに……」
噂好きの家政婦たちにかかれば、たしかにエドマンドと買い物に行ったことは、あっというまにロンドン中に伝わるに違いないが。
「ドレスなんて買っていただくわけにはいきませんわ」
――本当の婚約者でもないのに。
アビゲイルとて、さすがに遠慮というものがある。
「あなたは、俺と婚約したままでいたいのではないのか。このまま不仲報道などされたら、商売に支障が出るのでは?」
「う……」
たしかに、ふたりの関係に翳りが見られては、恋文の代筆依頼が減ってしまうかもしれない。
「恋人に満足に贈り物もできないのなら、俺の評判も悪くなる。いいから黙ってついてきてもらえないか」
「わかりましたわ。お言葉に甘えさせていただきますわね」
普段着用の、質素なドレスを一着だけ買っていただこう。お代はあとでエドマンドに支払ってもいいのだ。受け取ってくれないかもしれないが。
吊るしの服でかまわないと言ったのに、エドマンドが選んだのはオーダーメイドの仕立屋だった。ロンドンの一等地に店舗を構える高級店である。
別室に案内されたアビゲイルは、頭のてっぺんから足のつま先まであちこちのサイズをはかられて、すっかり疲れ切ってしまった。ようやく解放されたときには、エドマンドはくつろいだ様子で、カタログをながめていた。
「頭や足のサイズまでとっていきましたわよ」
「帽子や靴も揃いで仕立てる必要があるからな」
「社交界に行くわけでもありませんのに」
「経営者のイメージ戦略として、こういったものは必要になるときもある」
そう言われると、反論しようがない。エドマンドはやり手経営者なのだ。自分のイメージというものを知り尽くしていて、上手に利用している。
(とてもじゃないですが、エドマンドにお返しできるような金額のドレスは置いてありそうにないですわね……)
そもそも、値札がつりさがっている服などない。もぞもぞしていると、エドマンドはカタログをよこした。
「気に入っている色やデザインを伝えれば、ぴったりのものを仕立ててもらうことができる」
「黒は……」
「新品だとひと目でわかるものにしてくれ」
そうは言われても。たまに姉たちがドレスを譲ってくれることはあるが、自分の意志で選んできたのは黒だけである。
「青にしようかしら。リティクも似合うって言ってくださいましたわ」
「やめておけ。青も赤も不吉だ」
エドマンドの頭の中には、カラスの姿がかすめているのだろう。
「ううーん……ならば、何色がよろしいと思いまして?」
「俺が選んでいいのか」
「あなたが買ってくださるのでしょう」
「あとで文句を言うなよ」
エドマンドはカタログを閉じて、立ち上がった。揉み手をしながら近寄ってくる仕立屋にいろいろと注文をつけている。
ドレスの他にも帽子や靴、ハンドバッグ――といった単語が聞こえてくるのが気になって仕方がなかったが、けんめいに聞こえないふりをした。エドマンドはプライドを賭けて買い物しているのである。
さすがに宝飾品までいったら制止するべきだろうが……。この仕立屋が、エドマンドが恋人のために服を仕立てたことを証明してくれるのなら、彼にとっての救世主になる。
エドマンドは布見本をとって、アビゲイルの表情と真剣に見比べている。
彼が選びとったのは白だった。雪のようなまじりけのない純白。
そして、ラズベリーの色をしたリボンを手に取っている。
「汚れが目立ちますわ」
「俺は文句を言うなと言ったはずだ」
アビゲイルの意見は無視である。まあいい、エドマンドが買うのだ。
「待て、もう一度布を」
「……何回やるんですの」
エドマンドは、服を仕立てるのが好きなようだ。本人も相当こだわりがあるようだし、なにより機嫌がいい。
「白って着慣れないですわ」
「これから慣れればいいだけだ」
「汚したらと思うと緊張しますもの」
「行儀が良ければ汚れない」
「わたくしが、いつもお行儀よくできると思っていらして?」
「……思わないな」
エドマンドは眉間に皺を寄せて、アビゲイルを見つめた。
「なら……汚したときのためにもう一着同じものを仕立てておくか……」
「結構ですわよ。お行儀の良い場所にしか着ていかないつもりですわ」
仕立屋がすばらしい提案をした。
「身頃は同じ型で違う色のものをお仕立てできますよ。そうしたらいかがかしら。紫のスカートを基本に、身頃を白いものと、揃いの紫で、一着ずつお仕立てになれば、気分によって着替えられますわ」
「では、そうしてくれ」
紫ばかり着ることになりそうだなと思った。エドマンドはそれを察してか、ひとつ咳払いをした。
「これが仕上がったら、一緒に出かけないか。芝居でも見に。少しは外出しておかないと、不仲報道が出るかもしれないから、念のためにな。それにあなたは『お行儀の良い場所』にみずから進んで出かけることなどなさそうだし」
いやに早口だった。アビゲイルは気乗りしなかったが、はっとひらめいた。
「ありがたいお誘いですわ、エドマンド。実は恋文の依頼人が、意中のお相手からオペラに誘われているのです。同じ演目を見ていれば、よりよいお返事ができると思いますの」
「それは見た方が良いだろう。本物を見た方が、文章に深みが出るというものだ」
「ドレスの完成が楽しみですわね」
エドマンドは満足そうだった。よほどあの新聞記事が堪えたのだろう。
仕立屋を出て、アビゲイルは思いきり伸びをしたくなった。
「エドマンド、我が家でお茶の時間にしませんこと? お隣のお姉さまがたからいただいたキャロットケーキがあるのですが……」
「その前に、至急必要なものがある。百貨店へ行くぞ」
「急ぎのお買い物ですか? いったいなにを……」
「手袋だ」
エドマンドは、アビゲイルの手をじろりとにらみつけた。
「先ほどの店では手袋だけ急がせても仕上がりに一週間かかるそうだ。あなたも黒いドレスに合う手袋がほしいだろう」
「いえ、それほど欲しくは……」
「百貨店で購入し、そのままつけて帰るぞ」
今日の買い物は、長くなりそうである。アビゲイルは大人しくエドマンドについていくことにした。これもきっと、なにかの折りに手紙のネタになるに違いない。
裸の手をエドマンドに預け、アビゲイルは馬車のステップを踏んだ。
【おわり】