二人のユウトくん

七月初旬の、青空が広がる日曜日。
朝ドラ『ゲゲゲの女房』の、一週間分の録画を観ながら昼食を摂っている両親に、「行ってきます」と声をかけて家を出た。
不安と怒り、悲しみ、少しの期待が入り混じった心を、洗濯機に放り込みたい気分だ。混沌とした感情をかき回して洗浄し、まっさらになれたらいいのに。
街行く女の子たちは白やライトブルー、淡いイエローなど爽やかな色合いを身にまとい、夏の到来を全身で喜んでいる。
私だって毎年この時季は、我先にと夏物を買いに走っていた。でも今年は違う。何をしていても、ねばつく得体の知れないものが喉にひっかかっていて息苦しく、身動きが取れない。
地下鉄を降りて、白森公園へ続く出口に向かってのろのろと歩く。
恋人の松田大地と会うのは、一か月ぶりだった。
新卒で、マーケティングリサーチ会社に就職し営業部に配属されて三年目。
新人時代の私の教育係が、二年先輩である大地だった。背が高く、スッとした鼻筋。綺麗な男性だな、というのが第一印象だ。
快活で世話好き。お客様とも軽い調子のやり取りを交わす気さくさがいい感じ。「佐川さん、この本、読みやすいよ」とマーケティングリサーチに関する書籍を手渡してくれるさりげなさも好ましかった。
どんなに些細な疑問点でも、嫌な顔せず答えてくれた。営業職三年目の彼ではわからないことだったとしても、先輩方に訊きまわったり本を調べたりして、真摯に向きあってくれる。信頼し、尊敬できる先輩。それがそのまま恋愛感情へと変化し、服や化粧に気を遣ったり、何気ない大地の一言に胸ときめかせたりと、毎日に彩りが出た。ずっと一緒にいるので気持ちを隠すのは苦労したけれど、彼から教わった事柄はすべて吸収し、早く一人前になりたいと努力した。
そんな私にとって、入社した年のクリスマスイブは忘れられない日になった。大地から「よかったら、食事しに行かない?」と誘われたからだ。
『佐川さんの、明るい笑顔が好きだ。俺とつき合ってくれないかな』
私の片想いだと思っていたのに! まるで夢のような展開。もちろん、「はい!」と即答し、幸せで頭がぼうっとなった。
几帳面な仕事ぶりとは反対に、一人暮らしの部屋は乱雑だし洗濯物は溜め放題。プライベートの大地は、はっきり言ってだらしないが、あばたもえくぼ。完璧な人間じゃない点がまた愛しい。
計画を立てて遠出もするけれど、大抵は彼の部屋で過ごす。手分けして家事をこなしたあとは、手を繋ぎスーパーマーケットに出かける。途中、カフェでお茶を飲むこともある。二人きりで過ごす休日は天国だった。
つき合い始めてから一年と数か月間、私たちは喧嘩一つせず、仲良く過ごしていた。
雲行きが怪しくなったのは、今年四月に大地が調査部集計課に異動してからだ。
五月の半ば、仕事帰りに夕飯を一緒に食べた夜のこと。待ち合わせ場所にやってくるなり、大地は紺のパンツスーツ姿の私をまじまじと眺めた。
『なぁに? どうかした?』
怪訝に思って訊くと、ため息混じりで言われた。
『真琴って、ピンク色の服、着ないよね』
実際、一枚も持っていない。理由は単純。似合わないから。
『ふんわりしたスカートも、穿かないよね』
さらにつけ加える。こちらを責める口調に違和感を覚えたが、深くは考えなかった。でも大地は、イタリア料理店で食事をしている間も繰り返した。
『真琴って、髪、巻かないよね』
『真琴って、酒を飲んでも顔、赤くならないよね』
今さら? ストレートヘアが好きで、顔色を変えずに何杯でもお酒を飲める体質だと知っているのに、まるで初めて気がついたみたいな口調。
誰かと比べられている。危険信号が点滅した。
ピンク色とふんわりしたスカートが好きで、髪を巻き、お酒を飲むと顔が赤くなる、可愛いタイプの気になる女性が現れたのだ。胸がざわついた。帰り道で手を繋ごうとしたら、鞄を私がいる側に持ち替え、やんわりと拒否された。
数日後、大地から電話がかかってきた。先日の件がまだ引っかかっていたが、気にするのはやめて明るく振る舞おうと決めたのに、聞こえてきたのは抑揚がない声音だった。
『週末は部屋に来るの、やめてもらってもいいかな。疲れがたまってるんだ』
『体調悪いの? 薬は? 何か食べるもの持っていこうか?』
『いや、いらない』
『わかった。じゃあ、来週行くよ。ゆっくり休んでね』
『そうじゃなくて。しばらくの間って意味なんだけど』
『え……』
避けられている。別の誰かと会うのではと疑念がさらに深まった。
まさか。大地がそんなことするはずない。
やがて電話をかけても留守電に切り替わる回数が多くなり、六月に入ると声さえ聞けなくなった。メッセージを何通送っても、返信がこない。
営業部と調査部は階が別だから、放っておくと何日も会えないままだ。仕事で外出しない日は調査部にいる同期、ナオちゃんとランチに出かけるのがお約束になっていたので、せめて顔だけでも見たいと、彼女の迎えを口実に何度か足を運んだ。ある日、桜の花みたいな色合いのワンピースを着たナオちゃんと連れだってフロアを出る間際、大地と目が合った。私を見ているんだと喜んだのも束の間、速攻で逸らされた。
その夜、大地の本心を知りたくて、衝動的に部屋に突撃した。ところが『悪いけど』とすげなくドアを閉められてしまった。まさか玄関先で追い返されるとは思わず、大きなショックを受けた。
そうかと思うと、妙に強気になれる日もある。
つき合いはじめてまもない頃、部屋でワインを飲みながら、しんみりと子ども時代の苦い思い出を打ち明け合ったことがある。
『私〝大丈夫?〟って訊かれるのが苦手なの。つらくても反射的に頷いちゃうから』
『へぇ。どうして頷いちゃうの?』
『お母さんの影響かな。私、三人姉妹の長女でね――』
三歳離れた妹たちは双子。母は妹たちの世話で手が一杯だったから、幼い頃から我慢ばかりさせられてきた。
四人で外出すると、前を歩く母の両手にはいつも双子がぶら下がっていた。
『真琴は大丈夫?』
母は一応こちらを気にかけている風を装うも、『もちろん平気でしょ?』とこめかみに寄った皺が、軽く吊り上がった目が、疲れで歪んだ口元が訴えていた。
三姉妹ともインフルエンザに感染した時。授業参観日が妹たちと重なった時。頂きものの菓子が二つしかなかった時。母はいつも妹たちを優先し、『真琴は大丈夫?』と訊いてくる。そのたび、納得がいかなくても頷くしかなかった。一人で薬を飲んで額に冷却シートを貼り、参観日に来ない母を探して教室の後ろを振り返り、妹たちが口に運ぶ菓子を横目に、家にあったキャンディをなめた。
『なるほどね。長女はつらいんだなぁ。わかった。俺は絶対に使わないよ、その言葉。約束する』
薄明かりの中、互いの小指をそっと絡ませた。
『俺は次男なんだけど、兄貴の頭がよくてさぁ、常に学年トップ。俺はいくら頑張っても中の上。兄弟なのにねぇって、よく親にため息つかれたよ。兄貴、勉強だけじゃなくスポーツもできるんだよな。しかも高校時代は生徒会長。成績、進学先、就職先。物心ついてから、ずーっと比べられている。へこむよなぁ』
『じゃあ、私は絶対に大地君を誰とも比べない。約束する』
絡めた小指の力を強めて微笑み合った。あの日深めた絆が、簡単に壊れるわけがない。
弱気と強気が交互に訪れて不安定に揺れ動く六月を過ごし、これ以上、蛇の生殺し状態はまっぴらだと叫びたくなった矢先、大地から連絡がきた。
『明日、白森公園で会えないかな』
突然の誘いを素直に喜べなかった。どんな思惑で呼び出されたか、すぐに察しがついたから。きっと、別れ話をするつもりだ。いやだ、そんなの。行きたくない。
……待って。全部思い過ごしだったら? もしかしたら、すごく楽しいデートになるかもしれない。断っちゃったら、また会えない日が続くかも……。
「あーっ、もう!」
うじうじ悩むのはたくさんだ。今後、二人の関係がどうなるかをはっきりさせるために会おう。決まり。別れ話をされたとしても取り乱さないために、心の準備をしなければ。
午後一時。都内でも有数の広大な敷地を誇る白森公園は、リュックを背負ってゆったりと散策する年配夫婦や、ファストフード店の包みを抱えたカップル、よちよち歩きの幼児の手を引く家族連れなどで賑わっていた。
行き交う人々の穏やかな表情と、木々や草の鮮やかなグリーン。数々の幸せな光景が、逆に憂鬱さに拍車をかける。
すでに来ていた大地が、ぎこちなく右手を上げた。見慣れた顔なのに、一瞬、知らない人に思えて目をこする。
「なんか、久しぶりだな」
「うん……、全然会ってなかったね」
会話が途切れ、どちらともなく歩き出す。大きなソフトクリームの置物を飾っている売店の前を通り過ぎ、大勢の人が思い思いにくつろぐ芝生を抜け、秋になると黄金に輝くイチョウ並木へさしかかった時、大地が口を開いた。
「じつは話があって。だから今日、来てもらった」
言いながら、空いていたベンチを指さす。
いい話? 悪い話? 浅い息を繰り返しつつ、腰を下ろす。
「もしかしたら、真琴は気づいていたかもなんだけど……」
歯切れが悪い。不穏なムードに鼓動が速まる。
「ごめん! 好きな人がいる。真琴に非はないよ、俺が全面的に悪い。だけど仕方なくて。……別れてほしい」
心の準備なんて、全く役に立たなかった。耳を塞いでしまいたい。会いさえすれば、元に戻れるかもと期待していたなんて馬鹿だ。
「だから、ずっと私のこと避けていたんだ……」
喉の奥から声を絞り出す。
「べつに避けていたわけじゃ――。ちょっと離れて、いろいろと考えたかっただけ」
「相手は私の知っている人?」
途端に大地はせわしく瞬きをし、視線を泳がせた。
「知っているっていうか……、えーっと」
うろたえぶりからして、答えはイエスだ。同じ会社の人間ね。
「もうつき合っているとか?」
「いや、まだ。何回か食事しただけ。でも気持ちは伝えてある。今は返事待ちだけど、たぶんつき合う」
すでに気持ちを伝えた? まだ私とつき合っているのに? 鋭い矢が深く胸に突き刺さり、苦痛で空気すら飲み込めない。
「ほんっとに、ごめん!」
両掌を合わせ、深く頭を下げられた。
「初めは明るくて可愛い子だな、くらいにしか思ってなかった。だけど、『遅くまで大変ですね』なんて残業のたびにコーヒーを差し入れしてくれるんだよ。そういうの、グッときちゃって。お礼に食事に誘ったらすごく喜んでくれてさ。飲み会では必ず隣に座るし。俺を好きなのか? って意識しちゃって。もちろん悩んだよ、俺には真琴がいたんだから。けどさ、好きになっちゃったんだよ」
「……いったい、誰なの?」
大地は「うーん」と唸って数秒間迷っていたが、ふぅっと息を吐くと、ベンチの背もたれに体を預けた。
「隠しても意味ないか――。金子直子ちゃんだよ」
『カネコナオコチャン』が『金子直子ちゃん』すなわち同期のナオちゃんだと変換できるまで、数秒を要した。
「ナオちゃん⁉」
絶妙に離れた黒目がちの双眼とぷっくりとした赤い唇の個性的な笑顔が、脳裏いっぱいに浮かんだ。大地が気まずそうに頷く。
「嘘でしょ? 同期だよ? 友達だよ? ランチを一緒に食べているって、大地くん知っているでしょ? ねぇ、なんで? どうしてよ!」
胸倉をつかまんばかりに詰め寄ると、「お、落ち着いて」と大地はのけぞった。
迂闊すぎる。ピンク系のふんわりした服が好きで、髪を巻き、お酒を飲むと顔が赤くなる。すべてがナオちゃんに当てはまるじゃない。ヒントはたくさんあったのに、全く気づかなかった。
仕事で理不尽な仕打ちに遭って愚痴をこぼすと、『真琴ちゃんは悪くないよ』と慰めてくれる優しい子だ。おまけに仕草が可愛くて、綿菓子みたいな雰囲気の持ち主。誰もが彼女を褒める。敵うわけない。
……本当にそうかな?
二週間前の昼休みに、ナオちゃんとランチを食べた時の会話を思い出した。話題は、ナオちゃんが教育係を務めている、新入社員の川野さんについて。彼女が着ていた七分袖のブラウスが、たまたまナオちゃんが持っているものとそっくりだったそうだ。
『だからね、言ってやったの。残念だね、そのブラウス、もう会社には着てこられないねって。そしたらあの子、しょんぼりとしちゃった。あははは』
いつもは、うふふ、と控えめなのに、珍しく大きな口を開けて笑った。
『ん? どういう意味?』
『もう着てこないでねって、釘をさしたの。だってさぁ、私のお気に入りのブラウスだもん。服がかぶるの、絶対やだ!』
器用にカルボナーラをフォークに巻きつけながら、ナオちゃんは頬を膨らませた。
まじで? かぶるのが嫌なら、自分が着なければよくない? なのに、弱い立場の後輩に圧をかけるなんて、かなり引く……。
ナオちゃんの意外な一面に戸惑った。
『その言い方は、ちょっと……。川野さん、可哀想じゃない?』
軽くたしなめると、『え?』とナオちゃんは一瞬真顔になったが、すぐに元の愛らしい表情に戻った。
『そうだね、言い過ぎちゃったかも。うふふ。それより、ねぇ、ラザニア美味しい? 一口ちょーだぁい』
大地にこのエピソードを暴露してみたらどうなるかと、悪魔が囁く。
ナオちゃんに対するイメージ、変わるんじゃないかな。罪悪感がないわけじゃないけど、友達の恋人にちょっかいを出すほうが悪いんだから。
口を開きかけて、ブレーキをかけた。彼女を責めるのはお門違いだ。だって私たちがつき合っているのは秘密にしていたから。
そういえば二月頃、会社帰りに大地と寄ったショッピングモールで、ナオちゃんと鉢合わせしたことがあった。まさか社内の人に会うとは思わず、『仕事に必要なものを探しに来ただけ』と焦ってごまかした。今思えば、正直に打ち明ければよかったのかもしれない。私の恋人だと知っていたら、ナオちゃんはアプローチしなかったはずだ。
驚きと怒りが去ると、次に襲ってきたのは惨めさだった。
二股かけられた挙句に、ふられた。よりによって、友達にとられた。
「真琴?」
肩を軽く揺さぶられて我に返った。深い皺を寄せていたせいで、眉間がズキズキする。
「大丈夫?」
大地が顔を覗き込んできた。わざと言っているようには思えない心配そうな表情が、私をさらに傷つけた。
――わかった。俺は絶対に使わないよ、その言葉。約束する――
あの日の指切りを、彼は忘れちゃったんだ。
お兄さんと比べられたくないと言っていたくせして、私とナオちゃんを比べていたし。固い絆で結ばれていると思っていたのは、私だけだった。
昨夜眠れなかったせいで眼の下にクマがある私とは反対に、普段と変わらないすっきりとした大地の目元。この別れ話に一ミリの迷いもなく、よく眠れたんだね。
私を好きだと言ってくれた大地は、もうどこにもいない。
……本当に終わりなんだ。
「わかった。別れる」
大地の頬の筋肉が緊張から解放されて緩む。
「ありがとう。ごめんな。家まで送ろうか? それとも――」
大地はいったん言葉をきってから、続けた。
「一人で大丈夫?」
嫌だ。一人にしないで。
だけど、私は力なく頷いた。『大丈夫?』と問われてしまったから。……ずるいよ。
「じゃあ、俺、行くね。気をつけて帰って」
頭を温かい掌で撫でられた。信じられないけれど、これが最後の触れ合い。
私というお荷物をめでたく下ろし、大地は振り返りもせずに、携帯電話を取り出し離れていく。
家に帰ろう。掛け布団にくるまり、朝まで動かず過ごすと決めて立ち上がる。
一緒に歩いた道を戻りたくなくて、反対側へ足を向けた。
うつむき加減で遊歩道を進む。
天気予報によれば、最高気温は二十八度。夏日なのに、全く暑さを感じず足が震えている。やばい、なんか倒れそうかも。
遊歩道に沿って設置されているベンチに座り込み、ミントキャンディを口に入れたら、徐々に落ち着いてきた。
ふいに後ろから複数人の声が聞こえてきて振り向くと、運動場があった。自転車に乗った子どもたちがフェンス越しに見える。大人も大勢いるが、こちらは立ったまま。何か、イベントをやっているみたいだ。
赤茶色のアスファルトに引かれた、陸上トラックの真っ白なラインが目に眩しい。トラックの直線距離は五十メートルくらいしかない。バスケットボールコートやテニスコートを示す、黄色や青いラインもある。通っていた小学校の狭い校庭もこんな感じだったなと懐かしさがこみ上げ、入り口まで行ってみた。
開催されていたのは、小学生の自転車教室だ。
ヘルメットを被った子どもたちがペダルなしの自転車にまたがり、両足で地面を蹴って足を浮かせ、数メートル進んでは止まる、を繰り返している。バランスをとる練習中らしい。
気が済み踵を返す寸前、ある男の子が目に入った。
下がり気味の眉とふっくらした頬が特徴的な、穏やかな雰囲気を醸す丸顔。
あれ? 知っている子……?
部外者だから怒られるかなと躊躇したが、誰も私を気にしていない。思いきって中に入り、顔がよく見える位置まで移動した。
誰だっけ。うーんと、確か……。
そうだ、小学三年生の時に隣の席だった優斗くんだ! こんな場所で再会できるなんて。
いや、違う。この子は小学生。私と同級生なわけがない。
運動場をぐるりと見渡し、しばしの間、見入った。
頭のてっぺんから爪先まで、がちがちに力が入った姿勢でハンドルグリップを握る二十人の子どもたちが、ひっきりなしに行き交う。みんな黙々と練習をしているから、ちっとも騒がしくない。それでいて、まるで私も彼らの仲間に入り、一緒に頑張っているような錯覚を覚える空間。ずっと眺めていたくなる、癒やしの光景だった。
五メートル離れた場所で、あの男の子が指導員にペダルをつけてもらっている。バランス練習に合格し、一段階進むのだろう。
本当に優斗くんにそっくり。同じ顔だと言っていいかも。
小学生の頃に、徒競走で派手に転んだことがあった。掌と両膝小僧に血が滲み、立つのもつらかった。『大丈夫?』と心配して集まってくれた友達に『うん』と平気なふりをして答えた。みんな安心して応援席に戻っていったけれど、優斗くんだけが『ほんとに? 痛くないの?』と訊いてくれた。だから私は『痛い。すごく痛い。保健室に行きたい』と本音を言えた。
飼育係として世話をしていた金魚が動かなくなっていた朝も、親友が転校してしまった日の放課後も、相方が欠席して日直の仕事を一人でやっていた日中も同じだった。
つらい? 悲しい? 一人でできる? 私にトラブルが降りかかるたび、本音を言いやすくなる問いかけをしてくれた。当時人気があったのは、スポーツ万能の子や勉強ができる子だった。どちらにも当てはまらなかったけれど、私は優斗くんが好きだった。どんな風に答えても、『そっか』と受け入れて、寄り添ってくれたから。
ふいに目の前で一年生くらいの女の子がよろけ、自転車ごと派手に倒れた。
「あっ」
思わず両手が前に出た。女の子はゆっくりと起き上がったが、苦痛に顔を歪ませている。手を差し伸べるべきか迷っていると、優斗くん似の男の子が自転車を止めて駆け寄った。
「ハルカ、転んだの?」
その途端、うわーん! と女の子が泣き出した。
「怪我した? 痛い?」
「いたいー」
もしかしたら妹? 男の子はかがみ込み、さらに訊く。
「まだやる? もうやめる?」
「もう、やだー! もう、やめるー!」
悲痛な声音。顔全体をくしゃくしゃにして泣きじゃくるハルカちゃんを見ていたら、つられて私の目まで潤んできた。
「大丈夫?」
母親らしき女性が、慌てて二人のもとに走り寄る。
「だいじょうぶじゃないー、だいじょうぶじゃないー」
そうだよ。全然大丈夫じゃないよね。転んだら痛いもん。ありのままの感情をぶつけるハルカちゃんに共感した。まずい、どんどん視界が滲んでくる。
「ハルカ、痛いって。もう、やめたいんだって」
この子も優斗くんと同じ。相手の気持ちに寄り添ってくれる。
優斗くんが懐かしい。会いたい。
回れ右をして早足でベンチに戻る。瞬きをしたら、瞳にしがみついていた涙がとうとう一滴落ち、ジーンズに染みを作った。もう駄目だ。
理性が吹っ飛び、あっけなく涙腺が崩壊した。
悲しい。心が潰れちゃいそう。
今までなら大地が優しく肩を抱いてくれたのに。彼は別人になっちゃった。別れ話が終わるやいなや、誰かに電話していた。相手はきっとナオちゃんだ。ウキウキした後ろ姿だったもの。
部屋に置いてある水色のカップやタオルや着替え、貸したままのCD。私の持ちものが全部処分されて、ピンク色に入れ替わっちゃうんだね。想像すると叫び出したくなる。
ピンク色の服を買えばよかった。ふんわりしたスカートを穿けばよかった。他の女と比べられているのが悔しくて、わざとジーンズを選んだ自分に腹が立つ。
今朝、髪を巻こうとヘアアイロンを手に取ったけど、途中でやめた。誰かの真似なんかしない。私は私。ストレートヘアが一番似合うと意地が働いた。こんなにひねくれているから、ふられちゃったのかな。
もうナオちゃんとランチしたくない。顔も見たくない。でも理由を訊かれたらどうしよう。仕事だからって嘘をつく?
今後、私が取ってきた仕事をナオちゃんが調査して、大地がデータにまとめる事態だって起こり得る。そうなったら三人で打ち合わせ? そんなの、絶対に無理!
もう頭の中がぐちゃぐちゃ。
助けて。優斗くん!
私もお母さんと手を繋ぎたかった!
授業参観に、来てほしかった!
美味しいお菓子を食べたかった!
どれくらい時間が経ったのか。泣くだけ泣いたあとで、ふっと、全身の力が抜ける瞬間が訪れた。ハンカチで顔を拭いて空を見上げる。
頭痛はするし、腫れた瞼のせいで視界が狭まっているが、少しだけ気力が湧いてきた。
運動場から大人の歓声があがった。誰か、自転車に乗れるようになった子がいるのかも。
優斗くん似の男の子は、どうなったかな。
再び運動場に足を踏み入れ視線を巡らせると、十メートルほど離れたところにいた。右足でペダルを踏んだはいいが、左足がうまくペダルを捉えられない。
頑張れ、頑張れ。
すぐに帰るつもりだったのに、一生懸命な姿を見たら最後まで応援したくなった。
しばらくして両足ともペダルに乗せられるようになったものの、どうしても二回転させるとよろけて足をついてしまう。十数度目の挑戦で、やはりバランスを失いよろけ、ついに自転車から降りてしまった。顔をしかめて立ち尽くしている。
諦めちゃった……?
しかし違った。額の汗を袖で拭い、ずれたヘルメットを正しい位置に戻すと、再び自転車にまたがる。決意のこもった表情でハンドルグリップを握り、「やー!」と雄叫びをあげて、勢いよくペダルに右足を掛けた。
今度はタイミングばっちりだ。
左足も上手にペダルを捉え、危なっかしく蛇行しながらだけれど、確かに自転車を走らせている。
やったー!
男の子は口を一文字に結び、一心にペダルを漕ぐ。その必死さに心揺さぶられ、大きな拍手をした。
唐突に、『大地が隣にいない明日』へ続く扉の映像が、脳裏に浮かぶ。わずかに開いた隙間から明るい光の筋がこぼれ、こっちへおいでと私を誘う。
十分後にはまた悲しみがぶり返し、視界が曇るかもしれない。夜になったら、膝を抱えたまま動けなくなるかもしれないし、明日の朝目覚めたら、世界の終わりのごとく落ち込むかもしれない。それでも今は、前に進みたい。
「ユウト! やったじゃん! すごい、すごい!」
弾む声に顔を向けると、ハルカちゃんと母親が、右手を振り上げ飛び跳ねていた。
びっくり。あの子の名前も、ユウトくんなんだ!
素敵なめぐり合わせに、胸が熱くなる。
ユウトくんは二人の声援を受けて、緊張が解けたらしい。
ふっくらした頬を赤く染め、きらきらした瞳で未来を見つめ、高揚感に包まれた笑みを浮かべて夢中になって自転車を漕いでいる。
背中に歓喜のマントをはためかせながら。
今度は私の番だ。
すでに輪郭が鮮明になった空想の中の扉に手をかけ、力強く押し開く。
さぁ、踏み出そう。
せーの!
【おわり】