私を見下さないで
製菓工場の短期バイトはほんとにきつくて、三日目にして行くのが嫌になった。日曜だけ休みの週六日、八時から十七時勤務。ベルトコンベアで流れてくるドーナツに、銀のアラザンやピンクのいちごフレークをひたすらトッピングし続ける。作業漏れした訳あり品を、お土産として持って帰れるのは唯一のメリットだ。安い紙でできた箱に詰めて、下り方面のバスに乗り込む。
いつもの停留所で降りて、自分の部屋よりも一つ上の階まで階段を上がった。
「ドクター大介、いるー?」
「京香」
奥の部屋から声がしたから、私はすたすた歩いていって勢いよくドアを開けた。細かい埃が舞って、換気されていない室内に一瞬うっと息が止まる。
「うわ。お前、すげぇ甘い匂いすんのな」
そう言って、大介は嬉しそうにシャーペンを置いた。小学生の頃から使っている勉強机には、信じられないほど分厚い参考書が数冊積んである。『基礎病理学ハンドブック』とか、『国試マニュアル完全版』とか。タイトルを見ただけじゃ、私にはまったく理解できない。ページをめくっても、どうせわからないだろうけど。
私が箱を差し出すと、大介はさっそく開けてドーナツを一つ取り出した。
「お前は? 食べないの」
「いらない。見てるだけで吐きそう」
「ふーん。バイト、あと何週だっけ?」
「三。言っとくけど、毎日持ってこられるわけじゃないからね」
「わかってる。いただきまーす」
大介は昔から、なんでもほとんど嚙まずに飲み込むみたいに食べる。瞬く間に一つ目を平らげ、早くも二つ目に手を伸ばした。
私は紺色のカバーがかけられたベッドにダイブして、スマホをいじり始める。不在着信が十件。この前コリドー街でナンパされて、断り切れずにラインだけ交換したシステムエンジニアだ。語尾にいちいち「~」をつけるなら、お前もう田中拳じゃなく田中ビブラートに改名しちまえよ。見た目を思い出してみても一ミリもタイプじゃないから、ブロックして永遠にバイバイすることにする。この手の男って、どうしてタンクトップを着て鏡の前で自撮りしたがるわけ? デブはデブでも自称筋肉質のデブのこと、あと何年生きても許せる自信がないよ。
「うまっ。これ、すごいうまい京香」
「はいはい。よかったね」
大介はデブだけどタンクトップを着ないし、自撮りもしない。小学二年生の時にこのマンションに引っ越してきてからというもの、こいつはずっと勉強一筋だ。そしてそれ以外のことに関しては、信じられないくらい無頓着。今だって、何年も前に大介ママがイオンで買ってきたTシャツを着ている。猫が縁側で寝てるイラストの、笑っちゃうほどダサいやつ。大学にも週三で着ていっているらしい。
もう何個目かわからないドーナツに手を伸ばしながら、「そういえばさ」と大介が口を開いた。
「俺、今度お見合いすることになったわ」
「……は?」
私は手からスマホを落とした。ちょうど彼氏のタンタンからラインが届いて一瞬そっちに気を取られたけれど、すぐに我に返って状況の整理を試みる。
大介がお見合い? 俺と恋愛は相容れない関係なんだ、とか言ってたこいつが?
「え、本気で言ってる? いつ?」
「まだ結構先。先方の都合もあるし、一か月後とか」
「断れなかったんだ?」
「ううん。親父の大学時代の友達の娘さんらしいし、断る理由もないなと思って」
「……乗り気なの?」
私はぽかんとして尋ねた。タンタンからもう一通ラインが来て、脳の中心じゃないサブ的な部分で、早く返信しなきゃなとぼんやり思う。タンタンは束縛が強くて、ちょっとでも私のレスポンスが遅くなると、すぐ大げさに嘆いて寂しがる。「だこちて!」って、涙目になってるウサギのスタンプの連打。でも、こっちのことをちゃんと片づけてからにしないと。
「大介、結婚する気あるの? だって、彼女できたこと一度もないでしょ?」
「ないけど……。このまま生きてても俺、一生好きな人と付き合えそうもないし。親父がしろって言うなら、別にしてもいいかなって」
「へーぇ……」
親父の言いなりかよ、という言葉はかけるだけ無駄だ。大介のパパは隣の市にある総合病院で内科医をしていて、子どもの頃からそれを見習って大介も医者になることを決めていた。パパと同じ大学の医学部にも現役で入って、ママみたいな人と結婚して、このまま順調にいけば、大介は父親の立派なクローンになるはずだ。甘いものが大好きで、かつ、私服が死ぬほどダサいという点においても。
「ちなみに、これが相手の写真」
大介がスマホの画面を私に見せた。運転免許証の写真みたいに生真面目な表情で、大人しそうな女の人がこちらを見つめている。薄紫色のワンピースがよく似合う、良家の淑やかなお嬢様って感じだった。歳は私たちより六、七くらい上か。
「あのさ」軽く唇を舐めて私は切り出した。
「大介……あんた、当日どんな格好するつもり?」
「大学の入学式の時に親父に借りたスーツだけど」
「どこで会うことになってるの?」
「帝国ホテルのラウンジ」
「約束の日までに、美容院とかジムに行く予定はある?」
「えっ? ないない。必要ある?」
「ヤバいヤバいヤバいヤバい」
私はベッドから体を起こして体育座りをした。膝と胴の間に顔をうずめる。美容院もジムも必要ないって、こいつ本気で言ってる? 深く息を吐くと、鼻の周りの空気の湿度が上がった。
こんな男と一対一で向き合って会話をしなきゃならないなんて、相手の人がかわいそうだ。だってせっかく予定を開けておしゃれをして、最高に綺麗な状態で臨んだお見合いで、待ち構えてた男がダッサいスーツのモッサい男だったらどうする? 私だったら、自分の市場価値を疑って泣きたくなっちゃう。
「――大介」
「はい?」
「今すぐ、その食べかけのドーナツを置け」
「え?」
「んで体重計にのれ! ヒゲ剃れ! 痩せろ! 眉剃れ! 髪切れ! 風呂入れ! 野菜食べろ! 化粧水塗れ!」
「な、なんだよ急に……」
目を見開いた大介が、ぼとりと参考書の上にドーナツを落とした。ベッドから降りた私の手の中で、スマホがまた新しいラインの受信を告げる。ごめんね、と脳内でタンタンに謝った。今日のところは、どうやらしばらく返信できそうにない。
男の見た目は清潔感が九割と言うけれど、大介は自分の見た目にあまりに無関心すぎて、今まで九割五分のポテンシャルをドブに捨てていた。よく見たら鼻筋は通っているし、パーツの配置も悪くないし、ダイヤの原石じゃないかと思ってはいたのだ。でも、磨いたら想像以上だった。
もちろん、その魅力を引き出すには最大限の努力が不可欠だった。お見合い発言を聞いたその日から、私は大介をパーソナルトレーナーつきのジムに入会させ、美容院と眉毛サロンと歯科医院に行かせ、食生活を管理し、睡眠時間の報告を義務付け、服を選び、スキンケアを教示し、コンタクトを作らせた。大介は初めの一週間のうちはぶつくさ文句を言っていたものの、やがて大人しく従った方が小言を言われずに済むと気づいたらしい。いつしかもくもくと自分磨きに励むようになっていた。こういう時、高学歴は呑み込みが早いから楽だ。
短期間でのチャレンジだったから不安はあったけど、我ながらうまくやったと思う。仰天チェンジのオファーを受けたら、かなりの高視聴率を期待できそうなレベル。大介はマックスの時より体重を十キロ近く落とし、こざっぱりした髪をワックスでセットできるようになった。ホワイトニングした歯は真っ白のピカピカで、整えた眉はきりっと凜々しい。栄養と睡眠と保湿が行き届いた肌はぷりぷりで、淡いブルーのセットアップは知的な雰囲気を引き立てる。バッグと靴は黒で統一して、腕時計はシルバー。さらには、ダメ押しでブルガリのプールオムをひと吹き。
「あらあら、京香ちゃんが色々と手をかけてくれてたのは知ってたけど、まさかここまでとはねぇ」
お見合い当日、支度を終えた息子を見て、大介ママは感激した様子で胸に手を当てた。
「着替えるとまた変わるでしょ?」
「見違えたわぁ……。京香ちゃん、スタイリストになれるんじゃない?」
「どうだろ。もうちょっと頭がよければ、なれたのかもしれないね」
叶わなかった夢のことを思っても悲しくなるだけだから、私は早々に話題を切り上げて自分の作品を眺めた。視線に気づいた大介が、真顔でバッと両手を上げる。ポーズをとっているつもりなんだろうけど、銃を突きつけられて脅されている人にしか見えない。
「大介ばっかりこんなにお世話してもらって申し訳ないわぁ。京香ちゃん、この子にお礼できることがあったら何でも言ってね」
「おばさん、そんなの気にしなくていいよ。好きでやっただけだし。ただのスタイリストごっこっていうか」
「そうだよ。おふくろも覚えてると思うけど、子どもの頃の京香に人間としての基礎知識を教えてやったのは俺たちの家族だ。靴を脱いだら揃えるとか、食べる前にいただきますを言うとか。お礼するって言われたら遠慮するとかさ? そのおかげで、こいつは歴代彼氏の前で恥をかかずに済んだんだから。今はようやくその貸しが返ってきただけだよ」
「じ」自分で言っちゃうかそれ……と、続きかけた言葉を私は呑み込んだ。ムカつくけど、こいつの言う通りだ。
大介一家が引っ越してくるのとちょうど同じ時期、私の家はかなり荒れていた。私のママは年中ヒョウ柄のキティちゃんサンダルをつっかけて歩くような変わった感性の持ち主で、当時はたまにしか帰らないパパを探して、日がな一日町を歩き回っていた。おかげで、私には着る服も食べるものもない。学校にも通わず、買い物にも行けず、ある日とうとうゴミだらけの部屋の中で死にかけた。そんな時、鍵のかかっていないドアからひょっこりと顔を出したのが大介だった。
「もうすぐおやつの時間だからさ。友達を呼んでいいって言われたんだけど、俺、クラスに仲いい奴いないんだ。そしたらおふくろが、下の階に同じ歳の子がいるから連れてきなさいって」
初めてこの家に入れてもらった日、おばさんが出してくれたホットケーキの味を私は一生忘れない。大人になって働いて、恋をして、化粧をして、綺麗なアクセサリーを買えるようになっても、あのハチミツの輝きに勝るものはない。どんなに素敵な人と出会って、どんなに高級なお店のご飯を奢ってもらっても、あのとろけたバターの香りより素敵なものはない。
だから今回、役に立てたならよかった。今はどうか大介が、お見合い相手の前でボロを出さないよう祈るばかりだ。お願い神様、と眉間に皺を寄せた私の前で、大介は鼻をスンと鳴らした。手首を顔に近づける。
「自分に匂いがついてると落ち着かないんだけど。これっていつ消えるの?」
「オードパルファムだから、少なくとも帰ってくるまでは消えない。それくらい慣れてよ」
「無理かも。あと、この中に着てるTシャツってやっぱおひるね猫じゃダメ? 可愛いから喜んでもらえると思うんだけど」
「ダメに決まってんでしょ!」
私は大介の背中をドンと押して靴を履かせ、外へと送り出した。ベランダから観察していると、音楽を鳴らしてやってきたパン屋のワゴンにさっそくふらふら引き寄せられている。そっちじゃないだろ、てめえのミッションは! はじめてのおつかいかよ!
「こらえろ!」
私は思わず手をメガホンにして叫んだ。
大介の姿が見えなくなってから、私も出かける支度をすることにした。今日はタンタンと動物園に行く予定だ。
他人に依存するなと大介に怒られたことは何度もあるけれど、私は彼氏がいないと生きていけない。だって恋愛以上に楽しいことってなくない? 前から知りたいと思ってるんだけど、無趣味の人って恋人がいない時は何してるんですか? 星とか数えてんの?
タンタンは私より一つ年下の二十三歳で、新宿にある店でホストをしている。「お酒を飲むとすぐに眠くなっちゃうから、ナンバーワンになれないんだ」そう言って甘えるのが得意な子。他の卓に置かれたドンペリや飾りボトルを見て、心底忌々しそうな顔をするのが玉に瑕。でも基本的にはいい子だ。店で小物扱いされてもひがまず、いじけもしない。本人はそれを偉いとも何とも思っていないらしい。「だって、頑張るのは当たり前のことでしょ?」そう言われるたびに、私の心は太陽を直視した時の目みたいに痛む。
午後四時から動物園で待ち合わせて、一時間くらいかけて軽く見て回った。猿山が一番面白くて、しばらくお喋りしながらそこにいた。
「あの猿、地元の友達に似てる」
そう言ってタンタンは笑いもせず、しきりにおびえていた。後でその友達に電話をして、元気にしているか確かめるのだという。
「京香ちゃん、最近どんな感じ?」
「別に何も変わらないよ。ずっとラインしてるから知ってるでしょ」
「そうだけどさー。なかなか店に来てくれないから気になっちゃって」
タンタンはへにゃりと笑った。少し長すぎる金髪が、風でふわふわなびいている。孵化したての雛みたいで可愛かった。
タンタンは体が小さくて、鈍器みたいなゴツい厚底ブーツを履いてようやく、身長が私と一緒くらいになる。初めてこの子を見た時、私は高校生が年齢詐称しているんじゃないかと思ったほどだ。あの時も、確かタンタンは今日と同じ服を着ていた。ピンクと紫のテディベアがプリントされた、黒地のだぼっとしたパーカー。
解散間際、動物園の出入り口にて「悪いんだけど」と切り出された。
「地元にいる母さんの具合がよくないらしくてさ。色々送ってやりたいんだけど、今月結構厳しくて。だから京香ちゃん」
タンタンが言葉を続けようと再び口を開いた瞬間、私は財布から一万円札を三枚取り出した。製菓工場でドーナツと向き合う時間の約三日分。
タンタンのいる世界では、諭吉五十人分くらいの金額が一瞬で溶ける。なのにたった数人分のお金をせがんでくることの違和感に、私は気づかないふりをしている。
「ありがとね。忙しいと思うけど、よかったら今度また店にも来てよ。いっぱいサービスしたいからさ」
お金を受け取った後、タンタンは何度も私を振り返って手を振りながら去っていった。
マンションに帰ってから化粧を落としてジャージに着替え、ママのキティちゃんサンダルをつっかけて上の階へ行った。部屋に入ると、大介がセットアップ姿のままベッドに長々と横たわっている。仰向けになり、片方の腕で目元を覆っていた。
ずり下がったズボンからパンツが見えて、胴のところにカルバンクラインの文字が見える。先月までのこいつは、大介ママがイオンで買ってきた白のブリーフを穿いていた。私があれこれ言う以外の部分も、ちゃんと気にしてたのね。そう思って、私は成長した子猫を見る母猫のような気持ちになる。
「うまくいかなかったの?」
「いや……」かすれた声で言って、大介は寝返りを打った。
「うまくいきましたとも。いい人だったよ。本音かどうかは知らないけど、向こうも楽しかったって言ってくれたし。会話も弾んだ」
「じゃあ、なんでそんなぐったりしてるの」
「おふくろ以外の女の人と、久々に喋って疲れた……」
「へぇ。……え、私は?」
「訂正。おふくろと、京香以外で」
「ほぉん」
私はベッドの端に腰かけ、意味もなく足をぶらつかせた。紺色の掛け布団カバーは海に似ていて、そこに横たわる大介は魚みたいだ。縦長でひらべったく、鱗が目立たない感じの魚。
顔を上げると、部屋の壁際に設置された背の高い本棚が見える。医学書が七割、その他英語とかが三割。私と大介の間には、おそらくミジンコとイルカくらいの知能の差がある。私は医者になりたいと思ったことは人生で一度もないけれど、ろくに勉強してこなかったせいで損していること、きっといっぱいあるんでしょうね。確実に何かを失ってきていることはわかるのに、それが何なのか想像すらできないことが悲しい。
「――土日は、湘南に行きます」
ベッドに寝ころんだまま、大介がぽつりと言った。
「は?」
「淑子さん――今日のお見合い相手が言ってたんだ。予定がない時、土日はたいてい湘南に行くんだってさ。普段は親父さんにもらった会社で社長してるんだけど、オフの時もビル街にいると嫌気がさすって。何もせずに何時間もぼーっと海を眺めてると、心が休まるらしいんだ」
「へぇ……」
サーフィンとかじゃないんだ。なんかもったいないと思っちゃうのは、私が社長じゃないからだろうか。
十分くらい経つと、後ろで大介のいびきが聞こえ始めた。話し相手がいなくなってつまらない。仕方なく、無呼吸の秒数をカウントすることにする。
高校三年生の時、ろくに帰ってこなかったパパは病気になってからようやく家に居着いた。私は進学を諦め、アルバイトしながら介護をすることにした。病院はどこも短期入院しか認めてくれず、長期入院が許されるのは、自宅介護が不可とみなされた場合だけだったのだ。嫌な時間だった。私が過ごした二十四年の人生の中で、最も暗くよどんでいた時期だ。家族なのだから、世話をすることは愛なのだという美学などクソくらえだった。早く死んでくれないかなと思い、そう思ってしまった自分がとても嫌になった。親の汚物など見たくないし片付けたくもない。そんなまともな感覚を持ったままでは、とてもやっていけそうになかった。
キティちゃんサンダルは私の手元にあるから、ママはきっと、誰かにお姫様抱っこでもされて家を出ていったんだろう。正直言って羨ましかった。
家族に縛られ、自由を奪われるくらいなら、きっと結婚などしない方がいい。そう考えていたら、言葉にしなくてもそれがにじみ出ていたらしい。「京香といるとネガティブになる」そんなセリフとともに当時の彼氏に振られた。仕方ないじゃんと言っても聞き入れてもらえなかった。思い出しただけでむしゃくしゃする。どうかこれから一生、あいつに左右の眉毛が繋がってしまう呪いがかかりますように。
介護をしている間、私なりにずっと考えていたことがある。
人間は生まれてすぐの時はあまりに無力で、おむつをしめ、柔らかいものを食べて眠ることでしか生きていけない。やがて成長すると一人で歩いたり走ったりするようになるけれど、死ぬ間際には再び寝たきりになって、おむつと柔らかい食事だけの生活に戻る。人生の始点と終点が同じなのは不思議なことだ。きっと時間というのは大きな輪っかになっていて、時計の針が回るみたいに、私たちはぐるぐると同じところを巡り続けているだけなんだろう。
パパが死んで一年が経った去年の暮れ、久しぶりに思い出して大介にそう話したら、輪廻転生のことかと訊かれた。意味がわからなかったからネットで調べてみたけれど、なんとなく違う気がした。私が言っているのはそんな大規模な話ではなく、例えば、私のママがブックオフで売ったのと同じ絵本を私の友達が買って子どもに読み聞かせていたとか、そういう程度の話だ。
大介のいびきが深い寝息に変わる頃、タンタンからラインが届いた。猿に似た地元の友達は、ばり元気とのことだった。
大介と淑子さんが結婚することになったのは、それから半年後のことだ。私はその間にタンタンと大喧嘩をして別れた。私の作ったカレーが辛すぎると言って、タンタンが鍋に大量のチーズを溶かしたのが悪いのだ。私は二週間後に他の人と付き合ったら既婚者で、ショックで泣いていたらタンタンが謝ってきたから、仲直りしてまた付き合った。
「今度の金曜日、タキシード選びに付き合ってほしい」
大介に頼まれた。自分のセンスに自信がないから、私にチェックをお願いしたいのだという。それは淑子さんの役目じゃないのかと思ったけれど、向こうは社長業で忙しいんだと言われた。ドレスはタキシードに合わせて後から決めるらしい。淑子さんにとっては、湘南に行くことと、夫になる大介の晴れ着を選ぶこと、どっちが大切なんだろう。
日比谷までは大介の車で行った。初めて会った帝国ホテルで、二人は式を挙げるのだそうだ。大きな会場なのに、招待客はずいぶん少ない。二人とも友達が少ないからなと、運転中に大介は他人事のように言った。
試着の間、カーテン越しに大介と話をした。
「なんかなー……実感わかねぇわ」
「嬉しくないの?」
「どうだろ……。親父とおふくろが喜んでるのを見ると、やっぱり嬉しいよ。でも俺自身が嬉しいのかって訊かれると、正直よくわからない」
「わからないって? どういうこと」
「うーん……。淑子さんのこと、いい人だなとは思うよ。大切にしたいと思うし、泣いていたらどうにかしてやりたいって考えてる。でも、世界中の人が敵になってもとか、生まれ変わってもまた君をとか、そういうのに当てはまるかって訊かれたら、全然そんなことないなって」
「自分より大事にできないってこと?」
「そんな直球に訊かないでくれよ」
その反応では、はいと答えたも同然だ。私は目の端がピッと裂ける音を聞いた気がした。
「バカじゃないの。他に好きな人がいるわけでもないのに」
「俺に好きな人がいないって、どうして決めつけるんだ」
「ずっと近くで見てきたからでしょ!」
私は待合用の赤いビロードの椅子に座り、うつむいて鋭く息をつく。落ち着け、と自分に言い聞かせた。
大介がどこのどんな人と結婚しようが、正直どうでもいい。
確かに私は子どもの頃、こいつとこいつの家族には本当にお世話になった。育ててもらったと言っても過言ではないくらいだ。でもそれだけの感謝で、私の人生のすべてを捧げてあなた方にお仕えします、とはならない。
どうか幸せになってくれと思うし、こっちもこっちでどうにかやっていきますから、なるべくお互い迷惑をかけないようにしましょう、と思う。もちろん私は大介たちに恩があるから、できることがあれば引き受ける。お見合いをするとなれば見た目を整えてあげるし、頼まれればこうしてタキシードも選んであげる。
でも、これは我慢できない。
私のパパとママはお互いの気持ちを確認せずにあやふやなまま家族になったから、その結果、私が自由を奪われた。周囲に迷惑をかけないためにも、結婚は本当に好きな人としかするべきじゃないのだ。死ぬまで面倒を見たいと思える人が相手じゃなきゃダメだ。なのに大介にそんなタブーを犯されてたまるものか。こんなの、現実になったら許さない。
シャッと音がしてカーテンが開き、白のタキシードを着た大介が姿を現した。
「どう?」
そう言って、銃で脅されているあのポーズをする。全然進歩してない。
「――私、結婚式には出ないから」
座ったまま下から睨みつけて言った。「え」と、大介の表情がフリーズする。私よりもずっと頭がいいのに、勉強以外のことに関しては、理解がひどく遅いのだ。
「絶対に、出ないから」
繰り返し言うと、鼻の奥がツンと痛んだ。「え、え」と、大介はおろおろしている。その手が小学生の頃のように、私に向かって差し伸べられた。泥みたいな暗い感情の中から、私を連れ出そうとしているのだ。嫌だ。連れ出されたくなんかない。正しいのは私だ。
ブライダルショップの店員が、泣いている私を見て目を見開いた。何事かと尋ねようとし、私の名前がわからないから戸惑っている。新郎の衣装選びに付き合う親族でもない女なんて、彼らからしたらどう考えても取り扱い注意の人物だろう。
「ごめんなさい……先に帰ります」
私は大介の手を振り払い、鞄をひっつかんで外に出た。鼻をずびずび言わせながら、駅へと続く階段を下りる。
まだ開店前の時間だったけれど、気づいたら新宿まで移動して改札を抜けていた。明かりが点く前のアーケードの下をくぐって、タンタンがいる店に向かって歩く。
MCMのリュックとか、ピンクのワンピースとか、ストローを刺したモンエナの缶とか、そういう恰好をした子とすれ違うたびに、お前らが、と思う。お前らが○○。○○に入る言葉は何だろう? 憎い、ではない。怖い、でもない。
半年前にタンタンの太客になりかけた女はぴえん系ではなく、私に似た顔の、私に似た声の、私に似た服装の、でも私ではない、私によく似た女だった。ある日、その女にタンタンがラインで付き合おうと迫っているのを知ったのだ。
「どうして? タンタンの彼女は私でしょ?」
軟禁して問い詰めると、「京香ちゃんが店に来てくれなくて寂しかったんだ」と言われた。いらいらした。本当にいらいらした。私から離れるなんて許さない。ショックで、悔しくて、私の方が何倍も寂しくなった。「京香ちゃんは僕が店を干されても悲しくないの?」涙目でそう訴えてきたから、後日店に行って高いシャンパンを入れて黙らせた。
大通りを歩き続ける。また、黒髪に色白で涙袋がぶくぶくの子とすれ違った。お前らが○○。当てはまる言葉が思いつかない。お前らが……お前らが、この街の経済を回している? 正解。それだけは間違いない。
ドアを開けると、すぐ手前でスマホをいじっていたホストが「あ」と口を小さく開いた。店内を振り返る。
「おい」
「はいー?」
カウンターから、ぴょこんとタンタンが顔を出した。私に気づき「え、京香ちゃん」とびっくりしたように服の袖で口元を覆う。
「どうしたの。お店まだやってないよ」
「わかってる。タンタンに会いたくなっただけだから」
私が言うと、手前にいたホストがふはっと短く笑った。
大介のことを話している間中、タンタンは横に座ってずっと私の肩をさすってくれていた。私が膝の上に手を置くともう片方の手でさっと捕まえ、一本、一本、指の付け根を撫でてから絡みつくように握ってくれる。不健康で青白い肌。深爪にしすぎて、ところどころ赤黒い血が滲んでいた。
「京香ちゃん、面倒な幼馴染を持ったね」
「でしょ? もう腹が立って仕方なくて」
「でも僕、その人が言ってることちょっとわかるな」
「えっ?」
私は耳を疑う。タンタンが私の肩に頭をのせて言った。
「たぶんだけどさ。その幼馴染さんは安定したいんだよ。一人ぼっちだと、何かあった時に完全に人生詰んじゃうもん。でも困った時にサポートし合えるパートナーがいたら、心強いでしょ?」
「それはそうだけど……」
「ね? そうでしょ?」
瞳を輝かせ、まばゆいばかりの笑顔を私に向けてくる。「僕のパートナーは京香ちゃんだよ」そう言って、タンタンは私の腰に腕を回した。
「こんなに大切にしたいと思える人に会ったことないよ。何かあったらすぐ飛んでいって助けてあげたいと思うし、泣いていたら何時間だって話を聞いてあげたいと思う」
「ありがとう」
タンタンは優しい。それに可愛い。でも優しくて可愛いほど、私はこの子が他の客の目に留まる可能性におびえなければならなくなる。どこにいても、誰と何をしていても、タンタンが私以外の女と過ごす時間のことを考えてしまう。
この子には私しかいなくていい。私だけで。
「京香ちゃん」
「なあに」
「京香ちゃんのパートナーは僕だよね?」
「そうだよ」
「だよね! ……あのね、だからほんの少し、僕のことも助けてくれる?」
さっきまでの私がそうしていたように、今度はタンタンがうつむき、膝の上で拳を握りしめた。
「どうしたの。なんでも言って」
私はその顔を覗き込んだ。
「……僕がホストやめたいと思ってること、前にも何度か話したよね」
「うん」
「この店に借金をしてるのは知ってた?」
「えっ? ……知らない」
開店準備を終えた他のホストが、たばこをふかしながら私たちのことを見ている。私が視線を向けると、にっこりと目を細めた。普通の人なら顔をそむけるだろうに、見物させてもらいますからどうぞごゆっくり、とでも言うかのようにひらひらと手を振る。
「聞いてる? 京香ちゃん」
「ごめん」
「いいよ。僕が担当してた子……あ、京香ちゃんに出会う前の話だよ。その子が未収を残したまま飛んじゃってさ。給料から毎月一定額天引きされてるんだけど、このままだと、返済が終わるの五年以上先なんだよね」
「五年……」
そんなに長くタンタンがホストを続けていられないことくらい、私にもわかっている。この仕事の賞味期限は短い。
自分の担当に売れてほしいけれど、私以外の女を見てほしくない。自分のものになりそうでならない存在だから、少しでも引き留めるためにみんな限界まで金を使うのだ。それを理解しているから、ホストはありとあらゆるスキルを駆使して客を飼う。でもタンタンには、可愛がられる以外の営業スキルがない。歳を重ねれば、無邪気さは徐々に痛々しさへと評価が変わってゆく。
「ほんとに申し訳ないんだけどさ。京香ちゃんにその未収を肩代わりしてもらうことってできないかな? 時間はかかるかもしれないけど、もちろん返すよ。僕がホストを辞めたら同棲しよう。昼職もすぐに探すから」
「でも……」
私が身を引くためにすっと手を浮かせると、タンタンが後を追うように自分の手を押し付けてきた。体温を感じたら動けなくなった。頭の芯がぼうっとして、私は何におびえているんだっけ、と思う。
「……そんなことできないよ」
残った言葉をかき集めて、数秒後に私はようやくそう言った。
「私がお金持ってないの、知ってるでしょう。たまにしか店に来られないただのフリーターだよ」
「違う。それは京香ちゃんが自分のお金しか使ってないからだ」
力強く断言して、タンタンは私の目を見つめた。眉を八の字にして、悲しげで愛しそうな表情を浮かべる。小鳥のような軽いキスをしてから、もう一度話し始めた。
「お父さんが亡くなった時の保険金があるでしょ?」
喉の奥が、ひゅっと鳴るのを感じた。タンタンの目から目を離せない。視線が貼り付いてしまったみたいだ。青紫色のカラーコンタクトをはめた瞳が、はるか高みからすべてを見下ろす天体のように、私の心をこじ開けようとしている。
「お願いだよ。こんなことを頼めるのは京香ちゃんしかいないんだ。今日だって、悲しくなった時にまっすぐ僕のところに来てくれて嬉しかった。もし僕の未収がなくなったら、わざわざ店じゃなくても好きな時に会って話せるんだよ。この前の動物園みたいな時間が永遠に続くよ」
「じゃあ、今すぐ同棲してよ。未収の肩代わりはできないけど、家賃の節約はできるよ。返済が終わって昼職になってからも、そのまま一緒に生活すればいいでしょ?」
「わかってないな」
タンタンが口元をゆがめた。さっきとは別人みたいな、ぞっとするほどの冷たい笑みを浮かべていた。
「順番を逆にすることはできないんだ。肩代わりが先、同棲は後。京香ちゃんはあくまで僕の時間を買ってる立場なんだからさ」
全身の血が、ゆっくりと足元に流れていくのがわかった。いつの間にか忘れていた。お互いに何を言われても、何を頼まれても、私たちの立場は逆転しようがないのだ。もし仮にパパの保険金がなかったとしても、タンタンは今と同じように私に優しくしてくれていただろうか? そんなの、考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。
「好きだよ。早く京香ちゃんだけの僕になりたい」
耳元でそうささやかれ、私は他になすすべもなくタンタンの髪を撫でた。お世辞にもつやつやしているとはいえない髪だ。毛づくろいをするみたいに、枝毛をいくつか裂いてみる。「やめてよ」くすくす笑いながら言われる。可愛いこの子のことが大好き。
ケーキの上に一本だけ残ったロウソクみたいに、私の冷静さは辛うじて点っているだけだ。あとちょっとでも風が吹いたら、簡単に消えてしまうだろう。
地上から、地下へと続く階段をドタドタと駆け下りてくる音がした。ドアが勢いよく開く。
「京香!」
額に汗をびっしょりかいて、大介が姿を現した。店内にいた全員が、一斉にそちらに注目する。吸血鬼じみた見た目のホストたちとは異なり、りんごみたいな色の頬をして、幅広の肩で息をつく大介は明らかに場違いだった。居酒屋に小学生が入ってきたかのような、健全すぎる違和感がある。
「京香」
大介は疲れ切った声で言った。
「帰ろう。淑子さんとの結婚は考え直すから」
ピュウッ、とホストの一人が軽く口笛を吹いた。大介は大股で歩み寄ってきて、私ではなくタンタンの前で止まった。腕を組み、仁王立ちになる。
「君が……」
「立石灰沙夜です。お兄さんは京香ちゃんの幼馴染さん?」
「そうだけど」
「へぇ……思ったよりイケメンだったな」
「私が改造したから」
「ちょっと黙ってろ京香」
大介は額に手を当て、苛立ったようにハァと息をついた。急いで追いかけてきたからか、ワイシャツのボタンを掛け違えている。変にぽこっと盛り上がった生地の隙間から、おひるね猫のTシャツが見えた。ダサいから外では着るなって、あれほどうるさく言ったのに。
「二人で何の話をしてたんだ」
「幼馴染さんには関係ないことですよ。強いて言えば……僕たちの明るい未来について?」
「ホスクラの未来に明るいもクソもあるかよ」
大介は鼻で笑った。この場にいる自分以外の全員への、明らかな軽蔑が滲んでいる。私は目のふちが熱くなるのを感じた。こいつの言いなりになんて、絶対になりたくない。
「ほら京香。帰るぞ」
差し伸べられた手を、怒りに任せて振り払った。大介の顔がさっと青ざめる。
「うわぁ。嫌がってるじゃないですか」
タンタンに肩を触られたから、そっちも叩き落とした。「え」と、タンタンの顔も青ざめる。
ソファに座って脚を組んだまま、私は二人を睨みつけた。
「私を見下さないで! 大介はいい大学に行って、このままいけばお医者さんにもなれて、淑子さんと結婚もできるんだろうけど、みんながみんなあんたみたいな恵まれた環境にいるわけじゃないんだよ。なのに自分だけがしっかりしててあとの全員は頑張ってないから自業自得みたいな、そんな目で見ないでよ! 初対面の人には敬語を使えって、小さい頃の私に教えたのは誰だった? タンタンに対する今の自分の口の利き方を思い出してみなさいよ! ホスクラ通いに明るいもクソもあるかって、同じことが私の目を見て言えるわけ?」
「それは……」
大介が言葉を呑み込む。
「タンタンもタンタンだよ。未収の子に飛ばれたからって、それを私に泣き落としで肩代わりさせようとすんな! 世の中そんな浅いテクでうまくいかないんだよ。消費者金融には手を出したくないんでしょ? 何が何でも借金を肩代わりしてほしいなら、まずはそのへんに転がってるボールペンを一万円で私に喜んで買わせることから始めてみなさいよ」
「京香ちゃん……」
タンタンも言葉を呑み込む。
重苦しい沈黙が流れた。美味しくないものを食べた時みたいな表情で目を見合わせる男二人を見ていたら、張り詰めていた糸が切れて、なんだか泣きたくなってしまった。どいつもこいつも、もちろん私も含めて、どうしてこんなにろくでもない奴ばかりなんだろう。帰りたい、と切実に思った。けれど思い浮かぶのはパパとママの名残があるあのマンションではなく、もっとこう、面倒な何もかもから解放された楽園みたいな場所だ。それって天国のこと? 違う。私は死にたいと思ってなんかいない。ただもう一度、ゼロからやり直したい。
「帰ります」
本日二度目の言葉を口にした。これは、家に帰ります、という意味だ。目の前にいる大介とタンタンが邪魔だったから、両脇に押しのけて店の出入り口を目指した。
「立石」
ドアが閉まる直前、ナンバー入りのホストがタンタンに言うのが聞こえた。
「お前、今度また客に肩代わり断られたら、オーナーが本気で取り立てに来るからな。殺されんなよ」
コンビニでバイトを始めた。思っていたよりも大変で、家に着いた途端に泥のように眠る日々が続いた。覚えることが多くて頭がパンクしそうだ。ベルトコンベアにのったドーナツを毎日のように見ていた頃はうんざりしていたけれど、これなら工場の方が私には向いている。
その日も夜勤シフトを終え、疲れ切って昼まで寝ていた。インターホンの音で目を覚ました。
「……はい」
念のためにチェーンをかけてドアを開けると、強面の男がそこに立っていた。目を針のように細め、ボタンを深く開けた柄シャツから丈夫そうな胸板をさらけ出している。
「お姉さんごめんね。昨日か今日あたり、立石って男が訪ねてこなかった?」
「タンタン?」
私がびっくりして訊き返すと、男はぴくりと眉を動かした。
「知り合いか。電話通じる?」
「さぁ……かけてみないとわかりませんけど」
「ちょっと貸せ。スマホ持ってこいよホラ」
「え、や。やです」
ドアを閉めようとすると、男は足を間に挟んで妨害してきた。私はすぐ近くにあった自転車の空気入れを摑み、男の足を押し出して無理矢理ドアを閉める。すぐに鍵をかけた。ドンドンドン、と男が乱暴にノックしてくる。インターホンを立て続けに鳴らされる。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
「お姉さん、早く開けてくれないと近所迷惑だよー。大家に文句付けられちゃうよ」
男の声を聞きたくなくて、私は部屋の奥まで逃げ込んだ。頭を抱えてうずくまる。
タンタンとは、ひと悶着あった二週間前のあの日以来連絡を取っていない。「だこちて!」のスタンプが向こうから送られてくることはなかったし、私も気まずくてこちらからメッセージを送ることなんてできなかった。
「オーナーが本気で取り立てに来るからな。殺されんなよ」
ナンバー入りのホストがそう言っていたのを思い出した。
タンタンは今、どこにいるんだろう。寂しくない? 大丈夫? ちゃんとあったかい恰好してる? とても心配。でも、もし私以外の女のところに逃げ込んでいるんだったら許さない。騙され、捨てられ、凍えた状態で見つかって、未収金も何もかもむしり取られればいい。つまるところ私はこんな状態になってもまだ、タンタンに離れていってほしくないのだ。我ながら執着心が強すぎて笑える。
ドンドンドン、というノックに交じって、コツ、コツッと窓ガラスに何かが当たる音がした。振り返ると、使い古された定規やシャーペンがベランダにいくつか落ちている。唖然として見ていると、また一つ、上から降ってきてコツンと鳴った。
「京香。お前、電話出ろよ」
私がベランダに出てみると、上の階から大介が顔をのぞかせた。
「ごめん。気づかなくて」
「なんかヤバい奴いっぱい来てるよな。各階に最低でも四人はいる」
「四人? そんなに?」
「あぁ。だからこいつが見つかるのも時間の問題」
大介が傍らに目を向けると、見覚えのある顔がぴょこんと飛び出した。
「タンタン!」
「こいつ、階数を間違えてさ。京香じゃなく俺のとこに逃げ込んできた」
「ドジなんだから……」
「ごめんね京香ちゃん」
困ったように目を潤ませるタンタンのことを見ていたら、はるか昔にママとTSUTAYAで借りて観た『ロミオとジュリエット』を思い出した。地上とバルコニーで見つめ合う二人。これじゃあ、私がロミオ側か……。
ドンドンドン、と再び音が聞こえた。今度は私の部屋からじゃない。大介の家のドアがノックされているのだ。
「お兄さーん、誰と話してるの。さっき一人って言ってたけど、あれ嘘だろ」
「なぁ、お前」
大介がタンタンに向き直った。
「絶対とっとと出てった方がいいって。このままだとバカみたいに高い利子吹っ掛けられるぞ。罪を犯したら、減刑のために早めに自首した方がいいって言うだろ」
「僕は犯罪者じゃない。女の子にちょっといい酒を入れてもらっただけだよ」
タンタンは細い腕を組み、厚底ブーツを履いてもなお十五㎝は高い位置にある大介の顔を見上げた。
「捕まらなければ平気だよ。ここ四階だし、ベランダから降りられないこともないでしょ? 地上に着いたら、幼馴染さんの車で逃げればいい」
「なんで俺が協力する前提になってんの?」
「京香ちゃんが幼馴染さんに頼むから」
タンタンが私を見下ろした。
「京香ちゃん、僕、世界中の人が敵になっても京香ちゃんのこと愛してる。生まれ変わっても絶対にまた君を見つけるよ。だからさ、今だけは、僕のこと助けて?」
好きな人に言われて、これ以上に嬉しいことってある? もしこんな状況じゃなければ、私は一瞬で地面にくずおれていたことだろう。
「いいよ」
「いいの? こんな先人に五億回は使われてるようなセリフで?」
大介が拍子抜けした声を上げる。
「うっさいな」私は笑いながら言った。なんだかおかしくなってきた。今しがたのタンタンのセリフが嬉しくて、嬉しかったけど、ついに我に返ってしまった。この子、本当に全然私のこと好きじゃないんだな。
きっと私以外の誰に対しても、タンタンはお金なしで愛を与えることができないのだ。こうすればこの女は喜ぶ、こうすればこの女は言うことを聞いてくれる、と、何もかも計算し尽くして行動することでしか生きられない子なのだろう。でもだからこそ、私は今までの時間がとても楽しかった。今までに払ったお金以上に幸せな時間をもらったのだから、最後にお返しをしたいと思った。取り立てからの逃走の手助け。それが私にできる精いっぱいのことだ。
「……大介」
「何、京香」
「協力して」
私が言うと、長い長い沈黙が流れた。やがて大介は「クソッ」と吐き捨て、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。せっかくのセットが台無しだ。というか今日は日曜なのに、なんでめかしこんでるの?
私の部屋がある三階のベランダから、駐車場がある地上まで手すりを伝って降りる時はヒヤヒヤした。目を瞑って足を宙へ踏み出すあの感覚は、もう二度と味わいたくない。
最後に降りてきた大介は、地上に着いてから車のキーを忘れたことに気づいたらしい。額に手を当て「最悪だよ」と嘆いた。
「僕が取ってくるよ」
タンタンがそう申し出たけれど、大介は「結構でーす」と断り、再び一階のベランダに手をかける。足が震えていた。
「タンタンに甘えればよかったのに」
戻ってきた大介に言ったら「嫌だね。そんなビビりじゃねぇよ」と拗ねたように肩を小突かれた。
幸いホスクラのオーナーとその仲間たちは廊下の住民を威嚇するのに夢中で私たちの逃亡に気づいていないらしく、すんなり車に乗り込むことができた。大介がアクセルを踏み込む。
「なんでおしゃれしてるの?」
数分が経過した頃に訊いてみた。マンションから逃げてきた時にかなり汚れてしまったけれど、今日の大介はアイロンがかかったスラックスとジャケットでびしっと決めている。車の芳香剤も、中の液体がたっぷり残っている新品だった。
「もともと出かけるつもりだったんだよ!」
大介はなぜか怒ったように言った。後部座席では窓を開けたタンタンが後ろを振り返り「来てない! 振り切った!」と元気よく叫ぶ。
「今日は大事な予定が二つあって……今からその一つ目の場所に向かう。家からまあまあの距離だし、逃げるついでに俺の用事に付き合ってくれてもいいだろ」
そう言いつつも、大介はカーナビを見ていない。行き先までのルートは、完璧に頭に叩き込んでいるらしい。
それからしばらく、車内は静かだった。考えてみればおかしなメンツだ。喋ることも見つからなかった。窓から吹き込んでくる秋風が冷たい。
「海だ」
やがてタンタンが呟いた。
顔を上げて見てみると、すぐ横に一面の波がさざめいていることに気づいた。季節と時間帯のせいか、海は寒々しい感じの薄青い色をしている。反対側に目を向けると、緑と黄色の江ノ電がゴトゴトと踏切を渡っていくのが見えた。
「あの人、土日は湘南にいるから」
大介がぽつりと言った。婚約者の淑子さんのことだ。
「俺、これから謝りに行く。あなたと結婚はできませんって」
私に向けてというよりも、それは独り言のようだった。
大介はビーチのそばに車を停めた。静かで、人通りも少ない。孤島のような景色が広がっていた。
「ヤッホー、やまびこヤッホー」
明らかに場違いなことを言いながら、タンタンが海に向かって駆けていく。途中で、ブーツと靴下を脱ぎ捨てた。
バシャバシャと水しぶきを上げるその姿は、何もかもから解放されているように見えた。海って、見た目だけで言えば楽園のような天国のような場所だ。風がベタベタするし、潮の匂いがきついし、足を踏み入れればすぐに嫌になるけれど、視界に入った瞬間だけは、すがすがしい気分にさせてくれる。
「さむ、さっっっむ! 京香ちゃーん見て、綺麗な貝殻拾った!」
足を湿った砂だらけにして、タンタンが私の前で両手を広げた。ピンクやオレンジの平貝、グラデーションが美しい巻き貝、光沢が眩しい子安貝。思わず手を伸ばすと、タンタンは「ダメ」と言って一歩下がった。
「京香ちゃん、未収を肩代わりしてほしいなら、まずはそのへんに転がってるボールペンを一万で買わせることから始めてみなって言ったよね。ちょっと待ってて」
両手に貝殻を持ったまま、タンタンは裸足でビーチの横の舗道に向かって走っていった。スーパーの袋を下げた外国人の夫婦に、何事か話しかけている。やがて笑顔で手を振って戻ってきた。
「買ってもらった。一万円はさすがに無理だけど、これくらいなら余裕よ」
ひらり、ひらりと五千円札を風に乗せて振ってみせる。私はあっけにとられた。
「どうやったの?」
「秘密。そこはやっぱホストの得意分野っしょ。言っとくけど、悪いことはしてないからね。ちゃんと合意の上での売買だからね」
「それは、見てたからわかるけど……」
へへっと得意げにタンタンは笑う。たくさんの女を翻弄してきた男のはずなのに、その時だけ、無邪気で小さな男の子に見えた。
「あ」と、タンタンが口をOの字に開く。
「こんにちは」
声がした方を振り返ると、真面目そうな女の人がそこに立っていた。見覚えのある顔。大介の婚約者の淑子さんだ。今は元・婚約者だろうか。薄い唇を割って「大介くんと話してきたわ」と静かな声で言った。
「あなたなんですってね。結婚をやめろって言い出したの。式の日取りも会場も招待客も引き出物もプレイリストも決まっていたのに、人騒がせな」
「すみません……やめろって言うか、式に出席しないって言っただけですけど」
「でも、あなたの言葉が大介くんの行動のきっかけになったのは間違いないわ」
「申し訳ありませんでした」
謝る時は必ず頭を下げるんだ、と小学生の頃の大介の声が蘇る。あんたのおやつを勝手に食べてごめんなさい。手を洗わずに参考書に触れてごめんなさい。どんなに些細なことでも、深々と頭を下げさせられた。やりすぎだと思ったこともある。教えてくれてありがとうと思ったこともある。
「いいわよ。あんな煮え切らない男、どうせ結婚したってうまくいかなかったと思うし。戸籍にバツ印がつかずに済んだだけマシだわ」
淑子さんは溜め息をついて言った。
「で、私がほしいのは、大介くんじゃなくてこっち」
「はい?」
私はぽかんと口を開いたまま固まった。手で示されたタンタンが「え、僕?」と目を見開く。淑子さんは軽く頷いた。
「あなた、さっき地元の人にそこらで拾った貝殻を買ってもらってたでしょう。私の会社、今ちょうどいい営業の子がいないの。あなたを雇いたいわ」
「い、いやいやいやいや」
タンタンは顔の前で大きく手を振った。珍しく、本気で動揺している。
「営業って、だって僕、見ての通りホストですよ? それに借金もあるし」
「ホストだろうが何だろうが関係ない。借金っていくら?」
「百二十万……と少し」
「なんだ。それだけ? そんなの、貢献次第で私が返済してあげるわよ」
「ほんとに?」
「本当に。あなたが私の会社に来て髪を切って黒染めしてピアスの穴を隠してカラコンを取ってスーツを着て、馬車馬のように働いてくれるならね」
「全部やります!」
元気よく挙手したタンタンは、それからふと思い出したように私を振り返った。
「京香ちゃん……いい?」
「私が決めることじゃないでしょ。自分がやりたいと思うならやってみなよ」
「ありがとう」
タンタンはへにゃりと笑った。つかの間、そこだけ光が差したみたいに空気が明るくなる。この子の笑顔は本当に素敵だ。ずっと好きだった。でも、もうおしまいだ。ホストじゃなくなったタンタンの彼女に私はなれない。
淑子さん行きつけの美容院で黒染めしてもらいに行くのだと言って、淑子さんとタンタンはビーチから去っていった。
「京香」
後ろから肩を叩かれた。大介が、目のあたりをうっすらと赤くして立っていた。
「婚約解消だよ。お前の方も何かと片付いたみたいだし、少し歩こう」
そう言って、手を差し伸べてくる。硬いペンだこが私の指先に触れた。
秋の夕暮れは寂しくて綺麗だ。手を繋いで歩く私たちを、紺色の闇が包んでいた。空はまだ薄いオレンジ色で、今にもちぎれそうな雲はもの悲しい。影は見当たらず、でも光は水面に浮いて、あたりからは波音しか聞こえてこなかった。
「いろんなことがあったな」
大介がぽつりと言った。
「今日の用事の二つ目は、お前と歩くことだったんだ」
私はうつむき、足元の砂を見つめた。大介の話の続きを待つ。
「親父さんが死んだ後、俺に言ったことがあるよな。時間は大きな輪になっていて、時計の針が回るみたいに、俺たちはぐるぐる同じところを巡り続けているだけだって」
「うん」
「それ、正しいと思うよ。俺、今までずっと進んでばかりだったけど、今日ようやくゼロに戻った気がする。何年かぶりにスタート地点に立って、自分の気持ちに気づいたんだ」
振り返ると、大介の瞳に沈みかけの太陽が映っているのが見えた。
「ずっと好きなんだ」
足を止めて言われた。
「自信がなくて言えなかった。京香はいつも俺のそばにいてくれたけど、俺以外の人が好きで、その人との恋愛に全力だから……。気が引けてた。今だってそうだよ。目が合うと嬉しいのに怖い。悪魔みたいな女だ」
大介は目だけでかすかに笑った。本当に困ったな、とでも言いたげに。
私はつい噴き出した。だって、こんなのおかしい。私が磨き上げた容姿で自信をつけて、私に告白してきたみたいじゃない。
「私、さっきタンタンと別れたばっかりだよ」
「うん……でも試しに、俺と付き合ってみるのもありなんじゃないか」
「ちょっと気が早すぎるよ。焦るなんて大介らしくない」
私は繋いでいた手をほどいた。皮膚と皮膚が完全に離れるその時まで、大介の指が私の指に引っかかるのを感じる。待ってくれ、と心の声が聞こえてきそうだった。
悪魔みたいな女だと大介が言うからには、それを演じてみるのも悪くない。タンタンと別れてすぐに、他の人を好きになることなんてできない。でも大介を彼氏にする価値があるか、見極める時間を設けたって罰は当たらないんじゃない? だってここにいるこの男は、そんな私のことが好きだって言ってるんだから。
「私ね、パパの保険金を使ってスタイリストの学校に行くことにしたよ」
私たちの頭上を、鳥が小さく鳴きながら飛んでいった。
「だからかっこいい人に見慣れて、大介なんか眼中になくなっちゃうかも」
「それは――」大介は目を伏せて息をつき、眉間にしわを寄せた。「それは困る」
「なら、お互い頑張ろうよ。大介ならもっと素敵になれるよ。今度は私が勉強を、大介が恋愛を頑張る番。逆転なんて面白いでしょ?」
「面白い? ……面白い……面白い、のか」
だんだん語尾があやふやになって、大介が混乱しているのがわかる。頭がいいからって、何でも手に入るわけじゃないんだよ? そんな風に、もっと悩めばいい。もっと私のことを考えればいい。
私が依存するには、大介はまだ物足りない。もう少し、魅力が欲しい。
「今日からまたスタートして、もっと素敵になってね」
強い風が、あたり一帯を吹き抜けていく。「わかった」そう言って大介がうつろになった目を開いた瞬間、夕日の名残で海がきらめくのが見えた。
【おわり】