パフェとガチ恋
「浜松くーん」
「はい?」
「明日、イッキューさん来るから。よろしくね」
締めの作業中に店長にそう言われた瞬間、俺は「了解っす!」と元気に返事をしながらも、内心は溜め息をつきたくてたまらなかった。どうにかこらえることに成功して、最後のパフェグラスを食洗機に押し込む。
ガコンと勢いよくレバーを下ろすと、一瞬後に騒がしい作動音が始まった。これぞ一日の終わりって感じだ。子どもがおうちに帰る合図が夕焼け小焼けのチャイムなら、食洗機の音が俺のバイト上がりの合図。でも鳴らすのは俺自身。「あの鐘を鳴らすのはあなた」ってか、はは。ちょっと疲れてんのかな……。
イッキューっていうのは簡単に言うと、一日限りの単発バイトの募集がずらっと並んでいるアプリのこと。俺が働いているこのサロン・ド・ミサトは武道館の近くにあって、こりゃライブ帰りの客で混みそうだぞって時だけ、店長が一名限りの募集をかける。そんで早い者勝ちで応募してきた人に店のあれこれを教えるのが、たった一人の常勤アルバイターである俺の仕事だ。
応募してくるのは大体この辺りに住んでいる大学生か主婦で、さすがにパフェの組み立てやオーダーを任せるわけにはいかないから、大概は食器洗いを任せてる。飲食店でアルバイトした経験があれば、配膳と下膳と、あとはレジなんかもお願いしちゃう。だけどそこまでできるケースは本当に稀だ。パフェ屋というキラキラしたイメージからか、簡単そうに思われるのか、なぜか飲食未経験なのに応募してくる人が後をたたない。よってほとんどは、足手まといになるからいない方がマシなくらいだ。食洗機の使い方がわからないなんてのはザラで、食べ残しを捨てる時にいちいち躊躇する人もいる。「このマンゴー、ほとんど手付けられてないですよ」って、だからなんなんだ? そんなことで逐一心が痛むなら、今度から飲食系のバイトには応募しないでほしい。
やることなすことすべて「これで合ってます?」と訊かれてうざったいから、混雑時に単発バイトを雇うの、本当によくないと思う。俺の仕事効率も下がるって、店長にも散々言ってる。だけど聞き入れてもらえない。「そうだよねー、ごめんね浜松くん。でも浜松くん、教えるの上手だから」と、毎回やんわり流されてしまう。仕方ない。俺は店長の困り顔に弱い。
とにかく、俺は単発バイトで来る奴が苦手だ。たった一日の付き合いにしかならない人に、名前を聞く必要はない。ぼさっとした大学生もおっとりした主婦も、みんなまとめて「イッキューさん」で充分だ。
――明日はせめて、使える奴が来るといいな……。
「ハマ。おーい、ハマ」
「んあ?」
脇腹のあたりを肘でつつかれて、俺は薄目を開けた。顔を上げれば演習クラスのメンバーは全員俺のことを見ていて、隣の席の茉莉花は見るからに「やばい」って表情を浮かべている。俺の顔を見て、ぱくぱくとわかりやすい口パク。
――はま・しつもん・されてる。
「浜松くん? 今の田中さんの発表を聞いて、思いついた疑問点を挙げてください」
厳しい目をした教授が、ぴしりと俺に向かって言った。田中さんって、誰だ? ああ、あれかと気が付いて、俺は教授の脇でマイクを握って立っていた背の小さい女の子に目を向ける。顔を見ても疑問点なんて当然思い浮かばなくて、慌ててパソコンを開くも、レジュメの文字が細かすぎて読んでいる時間がなかった。
――くっそ、田中さんめ。こんな発表ごときで頑張ってんじゃねえよ。もう勘に頼るしかねえ。
「浜松くん?」
「はいはい! はい。えーと……このセ……せっ…………せつ……せつせき? なんて読むんすか?」
顔を上げた瞬間、俺は教室全体が静まり返っていることに気づいた。
「田中さん? 回答してください」
呆れ顔の教授が促す。田中さんは「ひゃい」とビビりまくりの返事をした後、顔を真っ赤にして俺の方を向いた。
「そうせきです。夏目漱石のそ・う・せ・き! もう、本当に発表全然聞いてない……」
そう言って、印刷したレジュメの束に顔をうずめる。
「バカだ……」
茉莉花が隣で頭を抱えた。
「まったく、どうしてこんなことも知らずに文学部に入ったんですか」
教授が名簿の俺の欄に迷わずマイナス点を付けるのが、ばっちり見えてしまった。
講義が終わってすぐ、茉莉花と一緒に教室を出た。昼休みの学食って、混んでいて席を探すのも一苦労だから、正直言ってあまり利用したくない。だけど茉莉花が毎週この曜日限定のデザートが食べたいと言うから、仕方なく食券の列に並ぶ。
「いくら内部進学でも、夏目漱石まで読めないとは思わなかったわ……。ハマさ、授業中に爆睡するくらいなら、ざっとでも前日にレジュメに目通しといた方がいいよ。必修で単位落としたら大変じゃない?」
「わかってるよ。にしても、あのババア厳しすぎんだろ。更年期じゃね?」
「うわ、最低……」
茉莉花は大げさに顔をしかめる。
「でもさハマ、年上の女の人の悪口言っていいの? 教授とあの店長さん、そんなに歳変わらないと思うんだけど」
「バッカ茉莉花、お前の目は節穴か? どう見ても店長の方が十五は歳下だろ」
「そう……? 年齢って、見た目だけでわかるものじゃないし。私、結構そういう勘は鋭い方なんだけど」
鼻先にずり落ちてきた眼鏡を押し上げ、茉莉花は首を傾げる。俺は自分の目で見たものしか信じない主義だから、真に受けるのをやめた。ってか茉莉花の奴、なんでそこまで店長にこだわってるんだ? まさか俺のことが好きで、ハートの矢印の先を自分に向けさせようとしてるんじゃあるまいな……。
将来の夢がプロの塾講師なだけあって真面目な茉莉花と、自他ともに認めるサボり魔の俺がどうして仲良くなったのか、今となってはかなり謎だ。きっかけは、去年の夏休みに開かれたサークルの飲み会。暇で暇で仕方なくてなんとなく顔を出したら、飲めや飲めやとエンドレスにジョッキを押し付けられて無性に楽しかった。
「ダメっすよ、俺まだ十八っすよ?」
そう言って、「え~早生まれなの! カ~ワイ~」と三年のお姉さま方にほっぺたをツンとされるまでが俺なりの一連の流れだ。本当はダメっすよなんて一ミリも思ってなくて、全然カモンって感じ。「押すなよ、絶対押すなよ」のフリと一緒だ。
先輩の奢りだからって好き放題飲んでいたらさすがに頭がぐらぐらしてきて、どさっと座敷に倒れ込んだ。そしたら、すぐ隣でこちらを冷めた目で見下ろしている人がいた。それが茉莉花だった。
「未成年飲酒……」
低い声で呟いて、呆れたように首を横に振る。片手に持っているグラスの中身はただのウーロン茶らしかった。
俺はアルコールが回ったノリで茉莉花にしつこく話しかけ、同学年で同学部、それも同じ演習クラスって判明するところまで話を広げた。どうして今まで気づかなかったんだとびっくりしていたら、茉莉花もようやく小さく笑った。
俺は授業中ずっと寝ているから、メンバーのことを知らないのも無理はない。茉莉花は茉莉花で、「パーマをかけてる古着系の男は全員同じに見える」そうだ。
居酒屋を出た後、茉莉花は二軒目に行く先輩たちに「浜松のこと駅まで送ってやってよ」と頼まれていた。別にいいよと俺は断ったけれど、律儀な茉莉花は「頼まれたから」と、ふらつく俺の手を引っ張って歩き始める。
「こっちの方が近道みたい」
そう言って、スマートフォンを見ながら薄暗い脇道に入っていく。俺は引っ張られてついていきながら、真夏の月ってそんなに綺麗じゃないよなとぼんやり考えていた。心なしか水に濡れたみたいに滲んでいて、輪郭がはっきりしない。それとも俺が酔っぱらってるせいか? ビルとビルの隙間から、宙を睨んで答えのないことをぐるぐると考える。
「なあ……」
「何?」
「ちょっと目が回って……あ、そこのカフェ入らね? ほら、明かりがついてる」
「ええ? こんな時間まで営業してるカフェがあるわけ……」
茉莉花は面倒くさそうに振り返り、それでも俺が指さした道の先に目を凝らした。「ほんとだ」と、小さく口を動かす。
「でも大丈夫? もう結構遅いよ。浜松くん実家でしょ? 私は近いからすぐ帰れるけど、家の人、心配するんじゃない」
「全然。ちっちゃい女の子じゃあるまいし。電車なくなったらタクシー使えばいいから」
「さすが付属校出身……」
「それ、バカがバレた時も言われる」
そんなことを言い合いながらドアを開けると、カランというベルの音とともに、よく通る声が耳に飛び込んできた。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいですか?」
声の主に目を向けた俺は、一瞬で全身のアルコールが吹き飛ぶのを感じた。一世一代の出会いという言葉がぴったりだった。
俺がその日に見た店長は、間違いなく世界で一番可愛かった。背が高く、スタイル抜群なのに丸顔かつ童顔。後ろで束ねた真っ黒な髪と、白いシェフシャツとのコントラストが鮮やかだった。上唇からわずかにのぞく八重歯が、スンとした猫みたいであざとい。
カウンター席に通された時、「こちらにどうぞ」と示された手に目が釘付けになった。なんて長くて細い指だろう! 洒落たCMか映画の中にでも放り込まれた気分になった。
「あの。ここってカフェじゃないんですか?」
控えめな口調で茉莉花が尋ねる。店長は明るく微笑んで答えた。
「パフェを提供するサロンです。しめパフェってご存じですか?」
「聞いたことあります」
茉莉花が言うと、店長は嬉しそうに目を細める。
「今の季節ですと、白桃を丸ごと使ったパフェがおすすめです。通年のメニューもご覧になりますか?」
「いえ……! 私、桃で」
店に入る前までは乗り気じゃなかった癖に即答だった。店長は「かしこまりました」と顎を引き、続いて俺に「お客様はいかがなさいます?」と尋ねる。
「あ、じゃあ、俺も桃で」
マジで可愛いな、という心の声の方が飛び出してしまわなくて助かった。店長は「かしこまりました」とさっきと同じトーンで言い、カウンターの反対側に回る。冷蔵庫の中からパフェグラスを二つ手に取った。おしゃれな服屋のショーウインドーに立っているトルソーみたいな、ほっそりした上品なグラスだ。
「ここで作ってくれるんだ」
茉莉花が呟く。カウンターの下から銀色のバットを取り出した店長は、そこに敷き詰められていた透明なゼリーをスプーンで崩してからすくい上げた。三杯ずつ、それぞれのグラスに入れる。次にディッシャーで丸くくりぬいたソルベをのせ、上からピンク色のソースを垂らした。カスタードクリームを絞り、砕いた焼き菓子をまぶす。
みるみるうちに、底の方からグラスが埋まっていく。最後に店長は冷蔵庫の扉を開け、氷水に浸されていた桃を二つ取り出した。包丁でスッと切れ目を入れ、そこから先は手で皮を剥いていく。桃の皮の剥き方なんてものを俺は初めて知った。本当はそれよりも、すいすいと器用に動く店長の指先に見とれていたのだけれど。
ニコちゃんマークの口みたいな形にカットされた桃は、白いクリームの層の上に手早く盛り付けられた。グラスの口から、淡いピンク色の花が咲いたかのような華やかさがある。
店長は俺と茉莉花の前にそれぞれコースターを敷き、パフェグラスを素早く置いた。よく磨かれた細長いスプーンとおしぼりを脇に添える。
「上の段から順にご説明します。白桃の丸ごと果実、バニラ風味のクレーム・シャンティ、アールグレイのシフォンケーキ、自家製フィヤンティーヌ、カスタードクリーム、カモミールのジャム、白桃のソルベ、最後に白桃のジュレになります」
「すごい……!」
茉莉花が目を見開いた。
「フィヤンティーヌって何ですか?」
「薄く焼いたクレープ生地です。食感のアクセントになるので」
「へえー、なるほど」
他にもあれこれと質問する茉莉花の横で、俺は細長いスプーンを手にした。白桃を一切れと、真っ白なクリームを一緒にすくい上げる。唾を飲み込むと、ごきゅっと喉が鳴った。
甘いものは苦手ではなかったが、パフェを自分から頼んだのはこれが初めてだった。ファミレスのメニューで見かけても、魅力を感じたことがない。だっていろんなスイーツを合体させただけだし、量が多いし。カサ増しで底の方に敷き詰められているコーンフレークは、口の中の水分を持っていかれて永遠に食べ終わる気がしないし。
でも今日は、こんなに素敵な人がおすすめして作ってくれたのだから、途中で飽きて残すなんてことはしたくなかった。最後まで食べきるぞと気合いを入れて、俺はスプーンを口に運ぶ。ちょうど茉莉花も同じタイミングで食べ始めるところだった。
「……いかがですか?」
店長が尋ねる。天井の照明が真ん丸な瞳に映って輝いていた。
「……なんか」
俺はふわふわした心地で言う。
「喉……渇いてたんだなって思いました」
何だこの感想、と恥ずかしくなって、すぐに「いや、あの」と撤回しようとした。でも次の瞬間「私も」と茉莉花が口をはさんだ。
「この桃、ジュース飲んでるみたい。下のクリームも美味しい」
「そうでしょう!」
店長は嬉しそうに言う。自信満々な様子がまた可愛かった。
「私が山梨まで行ってたくさん食べ比べして、一番みずみずしい品種を選んだんです。他の季節のフルーツも、果樹園の方が厳選したものを毎週送ってくださることになっていて。丸ごと系でしたら冬に洋梨のパフェを出す予定なので、よろしければそちらもぜひ」
「洋梨好きです! 覚えておきます」
「嬉しい! お待ちしてますね」
まるで仲のいい友達みたいに、店長と茉莉花は声を弾ませている。そんな二人を横目に見つつ、俺はスプーンを動かし続けた。
甘いものをこんなに美味しいと思ったのは生まれて初めてだった。俺が知っている他のパフェとは全然違って、いくら食べてもちっともくどく感じない。むしろもっと欲しくなった。グラスの底の層へと進むにつれて風味がどんどん爽やかになり、舌がさっぱりしていく。
「早っ」
食べ終えた俺がスプーンを置くと、茉莉花がびっくりした声を上げた。
「お気に召していただけたようで何よりです」
店長がグラスを下げる。
「あの。この店、バイト募集してたりしませんか」
ほとんど何も考えずに言っていた。
客として通うのもいいけれど、それよりも俺はここで働きたくなってしまった。「店長」じゃなく、この人の名前を知りたい。この人のパフェ作りを手伝いたい。
「募集は出していませんが……。近々、一人雇おうかなと考えていました。今は混雑しそうな日だけ単発バイトの方を入れているのですが、それだけではとても手が足りなくて」
「じゃあ俺! 俺を雇ってください!」
「ええ? 浜松くん、古着屋でバイトしてるって言ってたじゃん」
「辞める辞める。どれも欲しくなっちゃって、収入が支出に追いつかねえんだもん」
何より古着屋は家からも大学からも遠く、憧れて始めたはいいものの、電車の遅延のせいで先週も遅刻して注意されたばかりだった。この店なら大学から近いから比較的通いやすいし、働けるなら絶好の機会だ。食器洗いでも床磨きでもテーブルセッティングでも、何でも喜んでやってやる。
「それでは、面接をしますので履歴書を持って後日お越しください。飲食バイトの経験はありますか?」
「い、いや、それは……ないんすけど……」
痛いところを突かれてしまった。店長がわずかに表情を曇らせたのがわかったから、慌てて「すぐ覚えるんで!」と付け足す。
後日行われた面接で俺は自己アピールを最大限に頑張り、どうにか雇ってもらうことに成功した。しばらくは大学の授業もサークルもそっちのけでパフェのあれこれを勉強し、一年半が経った今ではそれなりに店長の信用を勝ち得ている、と思う。シフト提出のために連絡先はゲットできたけど、未だに名前では呼べていない。年齢を聞いたらはぐらかされて「浜松くんよりは上だよ」と言われてしまった。それはわかってんだよ……。
エプロンをつけて手を洗い、俺は今日のイッキューさんが来るのを待った。店長は電話で果樹園の人と納品の確認をしていて、店内には客もまだ常連数人しかいない。
カラン、と音がしてドアが開いた。「いらっしゃいませ」と俺は言おうとして、あれっ、珍しいなと思う。男の一人客を見たのはずいぶん久しぶりだ。年齢は三十半ばくらいで、特徴的なチェック柄が裏地にあしらわれたイギリスの有名ブランドの黒いダウンジャケットを着こみ、グレーのマフラーをぐるぐると首に巻きつけていた。
「一名様でよろしいですか?」
俺が言うと、男は黙って大股で距離を詰めてきた。
「お客様?」
大丈夫かこいつ、と思うのと同時に、うわあ男前だな、と気づく。背は俺よりも低いのに顔の彫りが深く、涙袋が目立つ目と、浅黒い肌が印象的だった。
「――イッキューから来ました」
男は低い声で言った。高級なベルベット生地みたいな、無駄に色気のある声だった。
「おおう」
俺は気圧されてつぶやき、すぐに我に返って「あ、こちらへ」と男をキッチンへ促す。心の中では、こいつか今日のイッキューさん、と、この男が当たりか外れか考えあぐねていた。
シェフシャツとエプロンを渡すと、イッキューさんはすぐにバックヤードにある更衣室で着替えて戻ってきた。嵐の前の静けさだった。
「おはようチェックもらってもいいですか?」
そう言って、黒いケースを付けたスマホを俺に差し出してくる。
バックレ防止のために、イッキューには出勤時と退勤時に店のスタッフがチェックをしなければならない決まりがあって、店ごとに割り振られた番号を打ち込むと、出勤が正式に認められたことになる。「はいはい」と、俺は頷いて男のスマホに番号を入力してやった。
電話を終えた店長がキッチンに入ってくる。今日のイッキューさんを見て、ちょっと驚いたように目を見開いた。
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
イッキューさんが頭を下げる。微笑むと、口の端に若干の皺が寄った。
「よ、よろしくお願いします」
店長も挨拶を返す。ぱっと顔をそむけたかと思うと、たった今入ってきたばかりなのにキッチンの外に出て行ってしまった。右足と右手を同時に前に出して、なんだかおかしな動きだった。
「店長さん、お綺麗な方ですね」
イッキューさんが俺に言う。声はやたらセクシーなのにその口調にはいやらしさが微塵もなくて、これまたとんでもなくモテそうなのが癪に障った。なんていうか、ザ・独身貴族って感じだ。この男が独り身なのかは知らんが、とにかくそんな言葉が似合う。ってか、頼むから店長を狙わないでくれ……!
「僕は、具体的には何をすればいいんでしょうか?」
イッキューさんが尋ねた。店全体を観察するように、視線を素早く四方に動かしている。その目がパフェグラスの入った棚に留まり、次いでテーブルへ、それからカウンターに移動した。最後にまた俺に戻ってくる。
「基本的には食器洗いっすね。今までどんなバイトしてきました?」
「一通り全部。飲食も、三ツ星からファストフードまで大体のジャンルは経験してきました」
「へえ」
そんな奴が来たのは初めてだ。どうやらある程度の仕事は任せられそうだぞと、俺は期待値がぐんぐん上昇するのを感じる。
「まあとりあえず定位置は洗い場で。俺か店長が呼んだら、適宜レジとか配膳もお願いします。余裕があれば割り物も作って、マシンの使い方がわかれば、コーヒー系の飲み物も手伝ってもらえると助かります」
「パフェは任せていただけないんでしょうか?」
「いや、それはさすがに無理っしょ」
単発の癖に出しゃばるなよと思って、つい吹き出してしまった。俺だって、客に提供するパフェの組み立てを任せてもらえるようになったのはつい最近のことなのだ。それまでは、自分用の賄いで来る日も来る日も練習していた。材料費は給料から天引きされるのに失敗しすぎて、しばらくは友達とメシを食いに行く金もない日々が続いた。だけど全然構わない。それと引き換えに得た技術は無駄じゃない。
「パフェは俺か店長がやるんで。イッキューさんはサポートに徹してください」
「はい」
食い下がることは一切せずに、イッキューさんはただ苦笑して肩をすくめた。俺が教える立場のはずなのになんだか妥協されたような気がして、経験豊富な年上も扱いづらいもんだなと、一瞬面倒に思う。俺はやっぱり、イッキューのアプリから来る奴のことをそんなに好きになれそうにない。
武道館でのライブが終わるのはだいたい夜の九時過ぎで、その直後から二、三時間後にかけてが客の混雑のピークになる。興奮冷めやらぬ観客たちが、ライブの感想を語り合うためにやってくるのだ。その日のステージに立つアーティストによって、客の年齢層や服装やよく出るメニューもがらりと変わるから面白い。
調べたところによると、今日は「21-twinkle」という男性アイドルグループのツアーファイナルが行われたらしかった。来店する客は、十代後半から二十代半ばの女性がだいたい七割。肩にかけたトートバッグから、ファンサ用のうちわの持ち手を覗かせている人も多い。
飲み物だけ頼んでお喋りするつもりだった客たちも、メニューに載っているきらびやかなパフェの写真を見ると気が変わるらしかった。せっかくだし食べちゃおうか、ライブでカロリー消費したしね、と楽しげな会話が飛び交う。
「すみませーん」
テーブルの横を通った時に呼び止められ、俺は「お決まりですか」と尋ねた。三人連れの女性客だった。
「えーっと、ホットのカフェオレ三つと、レッドベルベットケーキのパフェとプリンのパフェと、あとバラとフランボワーズのパフェで」
「かしこまりました。以上でよろしいですか?」
俺が確認のために注文を繰り返そうとすると、三人のうち一人が「ちょっと待って」と声を上げた。
「あのさ。せっかくだし、メンバーカラー全員分揃えて写真撮りたくない? 伊吹くんの緑と雫くんの青も一緒に」
「あー……確かに?」
「賛成。ライブ前のカフェあんまり映えなかったし」
他の二人も乗り気なようだ。「あの」俺は口を挟んだ。
「うちの店のパフェ、かなりサイズが大きいですよ。シェアする方も多いくらいで。お一人様一杯までにしておいた方がよろしいかと」
「大丈夫大丈夫。私たち、胃袋無限大なんで」
「でも……」
「いいの。この期間限定の洋梨パフェって緑色ですか?」
「はい」
「じゃあそれと、チョコミントも追加でお願いしまーす」
「はあ……」
それ以上とやかく言うのは我慢して、俺はキッチンへ戻った。
期間限定で出している洋梨のパフェは俺が初めて店に来た時に食べた桃のパフェとほとんど同じ構成で、クレーム・シャンティがヨーグルト風味に、ジャムがミント味に変わっている。俺は冷蔵庫に入れて冷やしていたグラスを拭いて作業台に並べ、ジュレやソルベで手早く容器を満たしていった。果実のカットだって盛り付けだってお手の物だ。
「インターネットのレビューで見たのですが」
食洗機のレバーを下ろしながら、イッキューさんが言った。
「ここのサロン、お客さんの目の前でパフェを作るんじゃなかったんですか?」
「混んでない時間帯は客の前で作ります。でもライブ後は同時進行で作らなきゃいけないから、そんな暇なくて」
俺はクレーム・シャンティを絞るのを中断して説明した。お喋りと細かな作業を同時にはできない。クリーム系の層は柔らかいから失敗すると修正がきかなくて、最悪の場合は最初から作り直さなきゃならなくなってしまう。パフェにとって見た目は命だ。てっぺんから最下層まで百点満点の出来じゃなければ、客に満足してもらうことはできない。
集中しようと深く息をついた俺に構わず、イッキューさんは話し続けた。
「僕、キッチンからフロアを見ていて気づいたんですが。緑色のバッグを持っているお客さんは、ほとんど抹茶か洋梨のパフェを頼みますね。そして黄色の方は、かなりの確率でプリンパフェ。おそらくメンバーカラーなんでしょうね。なんて名前でしたっけ、アクスタ? あれと一緒に写真を撮るためなんでしょうか」
「ちょっと静かにしてもらっていいすか?」
よく喋る単発バイトだなと思い、俺はいらいらして注意した。
このイッキューさんはどうも仕事ができすぎてしまうらしく、キャラメルマキアートやマシュマロラテといった用意が面倒な飲み物のオーダーが入っても、グラスが一気に五つ下げられてきても、瞬く間に対応して次の瞬間には暇そうにしている。そして先程から俺が組み立てているパフェの数々を、羨ましそうな目で眺めているのだ。視線が気になって、クレーム・シャンティの渦が微妙に歪んでしまった。盛り付けで隠せばまだ許容範囲内だろうと、小さく息をついて洋梨のカットに入る。イッキューさんはまだ俺のことを見ている。
「……さっきから何すか?」
「え? 何でもないですよ。パフェおいしそうだなーと思って」
飄々とした口調で言われた。俺が最後の盛り付けを終えると、イッキューさんはさっとグラスをトレイにのせ、客のところへ運んでいく。倒したら承知しねえぞと睨んでいたけれど、幸か不幸か、そんな不安な要素はどこにも見当たらなかった。むしろ俺より丁寧かつ素早い配膳ができているかもしれない。「お待たせいたしました」と言いながらする礼が、悔しいけれどとても美しかった。
すぐに戻ってくるかと思いきや、反対側のテーブル席の客に呼び止められたようで、イッキューさんはしばらくホールにいたままだった。代わりに、店長がやけにこそこそと俺に近づいてくる。
「浜松くん、浜松くん」
「何すか?」
「今日のイッキューさん、かっこよくない? 顔もいいけど、声が特に素敵。何歳なのかな」
「知らないっすよそんなん」
俺の声はほとんど悲鳴みたいになっていたと思う。せっかく仕事中に雑談を振ってもらえたのに、どうしてよりによって話題があのイッキューさんについてなんだよ……。
「あの人、私のことなんか言ってた?」
「えー……どうだったかな」
その時、俺の頭には二つの選択肢が浮かんでいた。一つ目は、シンプルに「いや? 特に何も言ってなかったと思いますけど」ととぼける。二つ目は正直に「お綺麗だって言ってましたよ」と伝え、その後に「でも、俺の方がお綺麗だと思ってますよ」と付け足す。
どっちにするか決めかねていると、店長が「でも」と再び口を開いた。
「あれぐらいの歳の男の人が、どうしてイッキューやってるんだろ? 昼間は普通に働いてて、退勤後にバイトしてるのかな」
「わかんないっすよ? 定職につかないで、イッキューだけで生活してるのかもしれないっすよ」
「ええ、それはちょっとヤダ……」
可愛らしい八重歯をちらりと覗かせ、店長は困ったように笑う。そこでイッキューさんがキッチンに戻ってきたから、俺たちは会話をやめた。
「何を話してたんですか?」
「別に。そっちこそ、お客さんと何話してたんすか?」
「何時に上がるか聞かれたんです。閉店までだって答えたら、そうですかぁ残念、って」
さらりと答えるイッキューさんを前に、俺と店長は目を見合わせる。何? この人、なんか客に狙われてるんだけど?
閉店間際になって締めの作業もだいたい終わると、イッキューさんは俺のそばで何やらそわそわし始めた。
「どうしたんすか」
気になって尋ねると、「あの」と言いづらそうに口を開く。
「賄いっていただけるんですよね?」
「ああ、いっすよ。原価分だけ給料から引かれますけど」
「お願いします。洋梨のパフェで」
「了解っす」
「ありがとうございます」
渋い声でお礼を言いながら、イッキューさんはこの日一番の笑みを浮かべた。にこにこしたハンサムな男がパフェを心待ちにしている様子が面白くて、俺はちょっと笑ってしまう。
キッチンを出て、カウンターにグラスを置いた。材料を並べていると、「それにしても」とイッキューさんが話し始めた。
「こんなことを言うのは失礼にあたるかもしれないのですが、このお店は食べ残しの量が多いですね」
ジュレのバットにかかっていたラップをはがす手を止めて、俺は顔を上げた。イッキューさんが依然として微笑んでいるのを確認してから、「まあ、そっすね」と言葉を濁す。
やっぱり今日の単発バイトは、他のイッキューさんとは一味違う。食べ残しについては店長も俺も以前から頭を悩ませていたが、第三者からこんなにもストレートに指摘されたのは初めてだった。
「……いろんな種類のパフェがあった方が、味の好みだけじゃない選び方ができて楽しいし、パフェは大きい方が幸せだ、ってのが店長のこだわりなんすけど。武道館の近くにあるから、さっきイッキューさんが言った通り、アイドルのメンバーカラーで選ぶ人が多いんすよね。それ自体は全然問題ないし、むしろSNSで拡散されやすいから嬉しいんすけど……。明らかに、写真目的で頼みすぎな客もいて。でも店としては、注文されたら出すしかないし。それにはかなり困ってます」
「なるほど」
カウンターに肘をついて軽く手を組み、イッキューさんは深く頷く。肯定もせず否定もしない中立的なその態度が、なんだか妙に好ましく思えた。おそらくこの人はこれまでに色々なところで単発バイトをして、そこの抱える問題に気づき、こんな風に悩み相談をされてきたのだろう。
「浜松さん個人としては、食べ残しについてどうお考えなんですか?」
「……正直、辛いっす。せっかく店長がすげー考えて層の構成とか決めて材料仕込んで、俺も頑張って一杯ずつ綺麗に組み立ててんのに、食べ物の本領を発揮させられないまま捨てなきゃならないってなると、やっぱメンタルやられます」
食べ残しを捨てることにいちいち罪悪感を覚えるなら、飲食バイトには向いていない。それは紛れもない事実だ。いつまでも顔をしかめてゴミ箱にマンゴーを捨てられずにいる単発バイトの奴を見て、トロいな、と俺は今までさんざんイラついてきた。だけど本当は、てきぱき働くために無理矢理、心を麻痺させていただけだった。
苦労して作り上げた宝石の城みたいだったパフェが、数十分後にどろどろの状態になって戻ってくる。三人で五杯のパフェを頼んださっきの客だって、結局、上の層だけつついて残りは食べてくれなかった。やるせない気持ちを堪えて、どうにか処分した。
「浜松さん?」
イッキューさんに呼ばれて我に返った。しまった、パフェの組み立ての途中だ。
「その緑の層は何でできているんですか? ミントの香りがしますが」
「ああ、正解。ミントのジャムっす。もともとは市販品を使う予定だったらしいんすけど、日本じゃどこも売ってなくて。仕方なく海外から取り寄せたら、香りも甘味も強すぎたって店長が言ってました。だからこれは店の特製品。俺、ジャム作る時に必要な砂糖の量知った時、びっくりしすぎて腰抜かすかと思いましたよ」
「ジャムを使ったパフェとは珍しいですね。コンポートが一般的だと思うのですが」
「それ、店長も言ってました。コンポートでもよかったけど、よりオリジナル感を出すためにジャムにしたって。娘さんのアイデアらしいっす」
「あの店長さん、お子さんがいらっしゃるんですね」
「そうなんすよー。シングルマザーらしいっす。うちのおちびちゃんがーってしょっちゅうのろけてきて。だから俺も、気軽にアプローチできないんすけど」
そこでイッキューさんがフッと笑ったから、俺は自分がつい喋りすぎてしまったことに気づいた。ここまで話すつもりはなかったのにどうしてだ? この男、人から悩み事を引き出す超能力でも持っているのだろうか。
これ以上心の内を明かしてしまうのが恥ずかしくて、俺はそこから先は黙って組み立てを進めた。
「はい、お待ちどおさまです」
完成したパフェを俺が差し出すと、イッキューさんは「おお」と頬を緩めた。「いただきます」と軽く手を合わせ、洋梨の果肉を一切れと、ヨーグルト風味のクレーム・シャンティをスプーンですくい上げる。
その様子を黙って見ているのも変な気がして、俺は気になっていたことを訊いてみることにした。
「……てか、イッキューさんはなんでイッキューやってるんすか?」
「夢のためですよ」
「夢?」
「僕、将来スイーツのお店を持ちたいんです。だから勉強のためというか……イッキューのアプリを使えば、アポイントメントを取らずともお店の裏側を覗けるし、素敵な賄いもいただけるので。一石二鳥です」
しゃりしゃりと軽い音を立てて洋梨を咀嚼し、わあほんとにおいしい、とイッキューさんは感嘆の声を上げる。
「昼間は? 普通に働いてんすか」
「どう思います?」
「知らねえけど、その歳で働いてなかったらちょっと怖いっすよ。何やってんすか?」
「何だと思います?」
「わっかんねー……。公務員?」
「公務員は副業禁止ですねえ」
のらりくらりと質問をかわしながらも、イッキューさんの視線はパフェに釘付けだった。次はどこの層までスプーンを入れようかなと見定める目尻に、楽しげな皺が寄っている。
店長がこだわって考案し、俺が丁寧に組み立てたパフェ。心ゆくまで楽しんでほしくて、俺は邪魔をしないようしばらく黙っていることにした。ジュレのバットを冷蔵庫に戻し、ディッシャーとスプーンを食洗機に入れ、洋梨の皮を捨てる。
「気を遣わないでください。お店の裏側を覗くのと同じくらい、店員さんとお喋りをするのも勉強になるので」
「あ……はい。パフェが好きなんすか?」
「はい。食べ物は何でも好きです」
一瞬の迷いもなくそう答えたから、たぶん本当なんだろう。賄いが目当てで応募してくる単発バイトはたくさんいるが、正直言って、こんなに美味そうに食べてくれる人は見たことがなかった。
俺はもともと、店長に近づくことが目的でサロン・ド・ミサトでバイトをすることにした。あの桃のパフェには確かに感動したけれど、それはあくまで店長のおまけに過ぎない存在だったのだ。けれど今では、店長のことと同じくらい、この店のパフェのことを大切に思っている。もっとたくさんの人に、最大限の魅力を味わってほしいと思っている。
「この店に来る客みんな、あなたみたいに食べてくれたらいいのに」
思わず呟くと、イッキューさんが顔を上げた。口の端にカスタードクリームがついている。俺がトントンと自分の口を示して教えると、照れ笑いをしておしぼりで拭う。
「すんません、急に変なこと言って。……俺。やっぱ食べ残しする奴のこと許せないんですよ。イッキューさんもそうでしょ?」
うーん、と低いうなり声が返ってきた。食べ物は何でも好きですときっぱり答えた時とは違って、煮え切らない様子だった。
「……確かに、食べ残しはよくありませんね。写真映えを優先して、食べ物の本分を無下にするなど笑止の至り。けれど自分の食べられる量を見極めるのはとても難しいことですし、初めて注文する品であれば尚更です。どんなに素晴らしい食べ物でもすべてのお客様に気に入っていただけるとは限りません。すごくお腹が空いているから食べられると思って注文したのに途中で満腹になってしまったり、メニューの写真から想像していた以上に量が多かったり、そんな経験はありませんか? 食べ残しをしたお客様を安易に責めるのではなく、どうすれば最適な量を提供できるかを考えるのも、店の役目のひとつだと僕は思います」
イッキューさんが最後のジュレをすくい上げた。透き通った色を楽しむためか、目の高さにスプーンを掲げて恍惚の溜め息をつく。しばらく眺めたのち、名残惜しそうに口に運んだ。おしぼりをまるでナプキンのように使って丁寧に口元を拭った後、スプーンを置いて膝の上に手を揃えた。
「ごちそうさまでした。大変美味しかったです」
「どうも」
「食べ残しについてですが、僕が力になりましょう」
「……へ? 力になるって」
「僕、ラジオ番組を持ってるんです」
「はい?」
ぽかんとした俺を前に、イッキューさんは説明を始めた。
「数年前、イッキューでバイトしたお店のことを紹介するポッドキャストを趣味で始めまして。よくあるでしょう、音楽ストリーミングサービスなんかに。ありがたいことにリスナーの方が増えて、今年からはジャパン放送の正式な番組になったんです」
「へー……って、え、めちゃくちゃすごいじゃないっすか!」
「ありがとうございます。で、僕の番組でこちらのお店を紹介させていただければ、お力になれると思います」
「どうやって? そんな簡単に上手くいくとは思えないんすけど」
「いきますとも。方法は聴いてのお楽しみ」
イッキューさんは小さく笑い、「よかったらどうぞ」と言って俺の手のひらに何かをのせた。
「番組のオリジナルステッカーです」
目が¥のマークをした坊主が、パフェやケーキやドーナツを食べているイラストだった。
「ええっ、本当?」
数週間後の演習クラスで俺が一部始終を話すと、茉莉花は目を見開いた。
「その人って、伝説のイッキューさんじゃん!」
そう叫んで、ガタンと椅子から立ち上がる。
「知ってんの?」
「うん。うちテレビ無いからさ、一人暮らし始めてから寂しくて、ラジオ聴くのが趣味になったの。それでファンになっちゃった。私のところにも来てほしいって、トラブルが発生するたびに思ってる。いいなぁー、羨ましいよハマ」
「茉莉花のバイト先、塾だったよな?」
「そう。伝説のイッキューさんはスイーツのお店にしか来ない。ポッドキャスト始める前までは、居酒屋とかにも来てたらしいけど。でも飲食店だけ」
「じゃあ無理じゃん」
「来てほしいと思うだけならいいでしょー」
くたくたと椅子に座り込んで、茉莉花は溜め息をついた。
「でも私、その回だけ聴き逃してた気がする。タイムフリー再生ってまだできる?」
「多分」
俺はスマートフォンを取り出し、ラジオのアプリを開いた。先週の回を再生し始める。
ピッ・ピッ・ピッ・ポーン、と時報の音が響いた。
『深夜三時を回りました、ジャパン放送から全国七局ネット。伝説のイッキューさんがお送りするザ・ゴールデン・イッキュー。今週も、おはようチェックいただきました!
今回ご紹介するのは、九段下から徒歩五分の場所にあるサロン・ド・ミサト。僕がいただいたのは期間限定の洋梨丸ごとパフェです。まずはこれ、使われている果物の質が圧倒的にいい。口に入れた瞬間、僕は果汁のプールで泳いでいる心地になりましたよ。あとは、中層のミントのジャムが抜群。店員さんによると、これ、お店の特製らしいです』
高級なベルベット生地のような、渋い色気のある声が鼓膜を震わせる。
『さて本日は、お店の魅力を一緒にお伝えするゲストの方をお呼びしました。伊吹さん、ご挨拶を』
『こんばんはっ! きらめく星はみんなのハピネス! 「21-twinkle」の緑担当、茅野伊吹です!』
星が瞬くような効果音が挟まれた。
『伊吹さんと僕は数年前からの友人なんですよ』
『そうそう。俺がデビュー前に働いてたケーキ屋のバイト仲間でさ。このおじ……お兄さん、すごい甘党なんだ』
『僕のことはいいんですよ』
スタッフらしき数人の笑い声が聞こえた。
放送当日、予告なしだった人気アイドルの登場は、オンエア中にSNSで瞬く間に拡散された。リアルタイムで聴いていた俺も、「伊吹くん」や「ザ・ゴールデン・イッキュー」といった単語が、ド深夜にも関わらずみるみるうちにトレンドのランキングを駆け上がっていったことを覚えている。
『伊吹さんは、グループの宣伝隊長を務めていらっしゃるんですよね?』
『そうそう。だからファンのみんなの投稿も、俺が見つけてメンバーに共有することが多いかな。この前のツアーで出した新しいビジュアルのアクスタが好評ですごく嬉しいよ! これからもじゃんじゃん俺たちの分身を持ち歩いて、美味しいものや綺麗な景色と一緒に写真を撮ってほしい。でも、一つだけお願いがあって』
『ふふ。伊吹さん、ちょっと……』
『あっ、今のやらせっぽかった? ごめんごめん。でもマジで思ってることだから』
快活に笑った後、アイドルは声を落として言った。
『俺たちのグッズと一緒に写真を撮ってくれるのは嬉しいけど、お店や他のお客さんを困らせることはしないでほしいんだ。撮影に長い時間をかけたり、注文したものをたくさん残しちゃったりすると、周囲の人の円滑な仕事や楽しい時間を妨げてしまうかもしれない。カフェやレストランって、写真撮影じゃなくて食べることを楽しむ場所だからさ。みんなでハピネスにマナーを守っていこうぜ! お願いします!』
短い沈黙が流れた。ゴッ、という鈍い音の後に『伊吹さん、下げた頭をマイクにぶつけないで……』とイッキューさんの声が聞こえる。
『あー。なんか、パフェの話してたら食いたくなってきちゃったな』
『僕もです。というか、僕は四六時中スイーツにガチ恋をしているので……』
『……イッキューさん、ガチ恋の意味わかってる?』
『いや……ふんわりした認識です』
イッキューさんは恥ずかしそうに笑った。
『さて、わたくし伝説のイッキューさんがパーソナリティを務めるザ・ゴールデン・イッキュー。今週もお別れの時間が近づいてきました。注文や写真撮影のマナーに関しましては、僕からもお願い申し上げます。武道館近くのサロン・ド・ミサトにも、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
以上、当番組は「一日分の給料を一日で」がコンセプトの単発バイトアプリ・イッキューの提供でお送りいたしました。それでは今週も、おつかれチェックで即入金。また来週お会いしましょう!』
『バイバイ! 聴いてくれてハピネス!』
俺が再生終了ボタンを押すと、茉莉花が小さく息をついた。「で? どうなの効果は」と、脇腹を小突いて訊いてくる。
「そりゃまあ……抜群ですけど」
俺はにやけているのがバレないように答えた。
『ザ・ゴールデン・イッキュー』で店のことを紹介してもらってから、撮影目的で過剰な量の注文をする客は徐々に減り始めた。「21-twinkle」のメンバーによる呼びかけをきっかけに、様々なアーティストのファンの間で、旅先や飲食店でのマナーを見直す動きが広まったらしい。
俺は店長と相談して、ライブ後に来た客向けのサービスを考え始めた。準備が整い次第、その日にライブをするアーティストの曲やメンバーカラーをイメージしたパフェを、通常より小さめのサイズで提供していく予定だ。
「今日もバイト?」
「おう。授業始まる前に水買ってくるから、茉莉花、荷物見てて」
「オッケー」
鞄から財布を取り出して、俺は椅子から立ち上がった。
教室から出た瞬間、外にいた誰かと思い切りぶつかってしまった。「きゃっ」という声とともに、何かがばさばさと落ちる音がする。
「ああ悪い! ……田中さん、だっけ」
床に散らばった本を俺は拾い集める。どれも小説らしき文庫本だった。田中さんは小さな背中を丸めて「ひゃい」と怯えたように頷く。
「……こないだ、ごめんな。俺、深夜バイトしてるからいつも寝不足でさ。発表ちゃんと聞けてなかった。夏目漱石だっけ? あの後ちょっと調べたよ」
言いながら俺が渡した本を、田中さんは胸に抱きかかえた。
「そうなの。夏目漱石が好きなの。浜松くんも読んでみたら? 面白いよ」
「どうだろ。文豪って堅苦しいイメージがあって、チャレンジしづらくてさ」
「堅苦しいなんてことないよ。例えば……そうだな。漱石は大の甘党で、一か月もしないうちにジャムを一人で十缶近くも消費しちゃう人だったの。可愛いでしょ? 『吾輩は猫である』の中にも、猫の飼い主がジャムを舐める描写があるんだ」
「ジ、ジャム。へえ」
頭の一部が妙にむずむずしてきて、俺は微細な違和感の正体を探る。そう言えば田中さんと店長は苗字が同じだったなと、今になって気づいた。
「……田中さん」
「何?」
「あのさ。……ひょっとして、お姉さんが九段下でパフェの店やってたりしない?」
田中さんが目を見開く。年齢の割には幼い顔に、困惑と驚きが入り混じった表情が浮かんだ。
「私、お姉ちゃんいないよ?」
「あ、そっか。ならいいんだ。俺の勘違いだったみたい」
「でも、ママが九段下でパフェのお店やってる」
「ママが?」
俺はぽかんとして繰り返した。
でも、だって、俺と田中さんは同じ大学二年生で、店長は見た目からして三十前後のはずで……。
――年齢って、見た目だけでわかるものじゃないし。
この間の茉莉花の言葉が、突如脳内で再生される。次の瞬間、俺は膝から床に崩れ落ちていた。
「同級生のママは……無理だ……」
バイトを始めてから今日までの情景が、走馬灯のように頭を駆け巡る。パフェを作り続けた俺の努力、食べ残しに頭を悩ませた日々。無駄じゃない。絶対に、無駄じゃない。ガクチカとかになるし…………。ああ、でも、さらば俺のガチ恋。
「ねえねえ。ママのお店のこと、どうして知ってるの?」
多大なるショックに耐えていると、不思議そうな声が頭上から降ってくる。涙を呑んで見上げれば、店長の「おちびちゃん」が、親子でおそろいの八重歯をのぞかせて笑っていた。
【おわり】