ちと活発チャプター
〈一月十日〉
休み時間、御手洗くんがおもむろにハーモニカを吹き始めたらあたしは即興で踊らなきゃならないってのがクラスのなんとなくのルールで、あたしはバカみたいに手足をズンチャカやりながら、実はいろーんなことを考えてる。
こんなルールができたのは、もとはと言えばあのカッパじみた音楽の先生のせいだ。去年の担任だったその先生は、毎日、お昼の休み時間になると廊下でアコーディオンを弾いた。御手洗くんの役目は、その隣で造花のついたバスケットを持って一緒に練り歩くことだった。先生が生徒に曲のリクエストを聞いて弾き、御手洗くんがうやうやしくバスケットを前に差し出すと、みんな面白がってブラックサンダーとか十円玉とか元彼にもらったネックレスとかを入れた。
バスケットは先生の私物だったけど、先生はその中身にはまったく興味がなかったみたいで、毎回お菓子を一個だけ選んで、あとはぜんぶ御手洗くんにあげてた。だから御手洗くんの制服のポッケにはいつもお弁当用のふりかけとかチョコとかのちょっとしたものがいっぱい入ってたし、財布は小銭でパンパンだった。誰の物だったかも知らないヴァンクリのネックレスを手首に巻きつけたりなんかもしていて、それゆえの物珍しさというかなんというか、子どもが着ぐるみに群がるのと同じ感じで、結構モテてた。
カッパじみた先生はあたしたちが高校二年生に上がる年に別の学校へ行っちゃって、離任式のときに、御手洗くんはバスケットを譲り受けてた。ハグとガッチリした握手で、無駄にハートフルなお別れの光景だった。
それからずいぶん長いこと、あたしたちはその先生のこともバスケットのことも忘れていた。数学や物理は難しいし、そもそも高校生って常にお腹が空いてて眠いしで、とてもそんなことに思いをはせている場合じゃなかったのだ。
季節はめぐって、冬になるまでに御手洗くんは徐々に変わって、なんだかとっても気だるげになった。あんなに快活だった笑顔がニヒルになったし、話し声もややトーンダウン。おまけに最近は、グレープフルーツの匂いがする。
クラスのみんなでさりげなくその変貌のわけを聞いてみたら、春に姉ちゃんが結婚してん、と答えが返ってきた。
「しかもな、その相手がまたろくでもない男やねん」
御手洗くんは言った。
「親父に挨拶するー言うて家に来て、リビングに入ってからもずーっとサングラスかけてんねん。親父が来たら、さすがに取ってたけど……。なんで、なんっっで姉ちゃんもあんな奴がええねん。俺の姉ちゃんはな、強くて、優しくて、それはもう……強くて。あんな極道野郎のイヌにとどまっていいような人間じゃないねん」
話しているうちに、だんだんそのときの感情がよみがえってきたみたいだ。椅子に座ったまま御手洗くんがバン! と机を叩いたから、あたりは静まり返ってしまった。
「あ……みんな、ごめんなあ」
御手洗くんがうっすら笑って謝ったから、いいよ気にしないで、みたいな優しい雰囲気が教室全体にできる。
「それで?」
誰からともなく話の続きを促すと「……冬休みの間に」と御手洗くんは押し殺したような声で続けた。
「姉ちゃんから電話があって。あなた、来年の秋に叔父さんになるのよ~! って」
叔父さんになるのよ~! のところを御手洗くんが裏声で言ったから、あたしはこんなときでもエンターテイナーの心を忘れないなんてすごすぎると思った。でも、御手洗くんはウケ狙いじゃなく単に無意識にやっていたみたいで、そのまま話を続けている。
「姉ちゃん、今つわりがしんどいらしくて。母さんが作ったおかずを、様子見ついでに俺が届けに行かされんねん。で、みかんとか柑橘の匂いがすると吐き気がマシになるってネットに書いてあってさ。だから俺、ミストかぶってグレープフルーツになろうと思って」
そこまで言って御手洗くんは椅子を引き、座ったまま両ひざを抱えた。下を向いて、一個の巨大な球体みたいな恰好になる。柑橘の匂いがする。
「どう? 俺、グレープフルーツになれてる?」
ドン引きするか、肯定するか迷っているような雰囲気が、一瞬、探り合うように漂った。でも、答えは決まっていたようなものだ。弱ってるイケメンは、あたしたちの大好物だから。
「……かっ」
みんなの声がそろった。
「カ――ワ――イ――イ――!」
ちょっと顔がよくて面白くて話しやすいからって、このクラスのみんなは、女子も男子もずいぶん御手洗くんに甘い。もちろん、あたしも含めて。
〈一月十五日〉
冬休みが明けて少し経って、御手洗くんは突然、学校にハーモニカを持ってきた。
「音楽は胎教にいいから、せっかく持ってるんやったら演奏して聴かせろって姉ちゃんが。だから俺、休みの間に結構頑張って、それなりに吹けるようになってん」
机にバスケットが置かれると、うわー懐かしいそれ! って声が上がって、まだ何も始まっていないのに数人がアメやガムを投げ入れた。
「シスコン上等や。俺は姉ちゃんの豪快なパンチと愛のある罵倒が恋しい。それでは聴いてください。ベイビー、俺の玉座を奪った、まだ見ぬ君へ……」
御手洗くんがそう言ってカントリー・ロードを演奏し始めたから、あたしを含めた取り巻きの女の子たちはワッと歓声を上げた。
「すごい、すごいよ御手洗くん」
「玉座を奪い返せるよ」
「未来はあなたのものだよ」
「かっこいい、かっこいいよ」
「私がお姉さんの代わりになるよ」
みんなそろって同じようなことしか言わないから、あたしはなんかつまんなくなって、抜け駆けしようと思って立ち上がったんだった。アピールするなら目立ってなんぼだ、「ちょっと、寧々何してんの」って友達のヒカリちゃんに訊かれたけど聞き流した。カントリー・ロードに合わせて阿波踊りを始めた。
「おっ、いいぞ三嶋」
御手洗くんが口の端でそう言ったから、あたしは嬉しくなってその場でくるっと一回転した。周りのみんなが手拍子を始めて、主役が御手洗くんじゃなくあたしになってきたから恥ずかしくて死にそうだったけど、急にやめたらしらけちゃうと思ってチャイムが鳴るまで踊り続けた。
教室のドアが開いた。
「もーっ、あんたたち。いつまで遊んでるのよぅ。お席に着きなさいっ」
次の授業の担当は、生徒から「お嬢ちゃん」って呼ばれてる若い女教師だった。話すときに何にでも「お」をつけるから、このあだ名。顔はかわいいしスタイルもいいから、喋り方を直したらモテると思うんだけどな。
お嬢ちゃんがレースの服をひらひらさせながら教室に入ってくると、みんな一斉にバラけてそれぞれの席についた。
この高校って偏差値が低いのも大概にしろってレベルだけど、あたしが通ってた中学校よりマシだと思う。もちろん真面目に授業受けてる奴なんてめったにいないけど、少なくともみんな着席してる。中学校は規則が厳しかったから生徒たちは反抗しようと必死になってたけど、高校になってある程度の自由を手に入れて、誰も彼も歯向かう意味と気力を失っちゃったみたい。自分に与えられたものがデカすぎると、上手く使いこなせずに遠慮しちゃうってほんとの話だ。
「三嶋さ、さっき踊ってなかった?」
隣の席のチョコパイがそう言ってきたから、あたしは「踊ってたよ」って何でもないふうに答えた。へえ、ってチョコパイはどうでもいいような返事だけして、右手で左手の指を意味もなく引っ張った。
チョコパイはあたしの幼なじみで、スキーが得意でインターハイなんかにも出られたりしているらしい。冬の間は大会に出るために雪の降る地方へ行くことも多くて、だから今日みたいに一日中学校にいることは珍しい。
あたしは椅子に座ったまま前のめりになって、チョコパイの顔をのぞき込んだ。ゴーグルとネックウォーマーをしていた部分は元の肌色のままだけれど、鼻を中心とした部分だけ、三角形に雪焼けしている。
チョコパイには本当は麦彦っていう立派な名前があるんだけど、小学生一年生くらいのときにあたしが「マックの三角チョコパイみたい」と雪焼けのことをからかったら、まわりの子が面白がってみんなしてチョコパイチョコパイと呼び始めた。そして、そのまま定着してしまったのだ。それまであたしはムギと呼んでいたはずなのだけれど、雪焼けは何年たっても健在だし、みんながチョコパイと呼んでいるのにわざわざ呼び方を戻すのも照れくさかった。照れくささをやっつけることができないまま、いつの間にか高校生になってしまった。
チョコパイの才能が開花したのは、四歳のときに家族ぐるみで行った旅行でのことだ。びっくりするくらい運動神経が鈍いあたしはスキー場のコース外で雪だんごを作っているしかなかったけれど、チョコパイは初めて見る雪に大興奮で斜面を滑りまわっていた。というか転びまくっていたのだ。あっちをぶつけ、こっちをぶつけ、でもとても楽しそうで、まるで野生のオコジョみたいに生き生きとしていた。
お昼ご飯を食べてからの数時間後まで、チョコパイはあたしの目の前にある初心者コースにいたはずだった。でも、営業終了の合図、オルゴール調の『ロマンスの神様』に気づいてあたしが顔を上げると、視界のどこにもあのオコジョもどきがいない。あたしは不安になって雪だんごを取り落とした。
「寧々、来てー!」
頭上から声が聞こえた。上級者コースへと向かうリフトから身を乗り出して、チョコパイがあたしを呼んでいた。
「何でそんなところにいるんだ!」
「あぶない麦彦! ちゃんと座りなさい!」
チョコパイのお父さんとお母さんが叫んだ。あれよあれよと上っていく息子を追いかけようと、あわててリフト乗り場へ向かっている。あたしの両親も一緒に走り始めて、急に小脇に抱えられたあたしはお昼に食べたカレーが逆流しそうだった。
上級者コースへ行くにはリフトの乗り継ぎをしなくちゃいけなくて、あたしたちがまだ一台目の途中にいるとき、チョコパイは既に二台目をいざ降りんとしていた。
「やめなさい! そこで待ってて!」
チョコパイのお母さんが言うのも聞かずに、えっちらおっちら斜面へ向かっている。あたしたちはようやく乗り継ぎ地点まで来たけど、リフトはじれったいほど遅くて追いつけそうになかった。
チョコパイが斜面に身を乗り出すとき、スローモーションみたいに見えた。小さな体がすごい速さで滑り始めると、誰かが悲鳴を上げた。あのスピードのままどこかにぶつかったら、大怪我どころじゃすまないかもしれない。
あたしたちの横を弾丸みたいに通り過ぎるとき、風の音に交じって楽しそうな笑い声が聞こえた。あたしたちが息を詰めて見ていると、はるか下方の平面に差し掛かった瞬間、ザザッ! と低い音を立ててチョコパイはぴたりと止まった。
「よかった……」
チョコパイのお母さんが膝から崩れ落ちた。ことの張本人はゴーグルを外して、呑気にあたしに向かって大きく手を振っている。
「すごいな……ムギくん」
あたしのお父さんがつぶやいた。ぽかんとしているあたしの手を取って、おーいとチョコパイに振り返している。あたしはされるがままにしていた。
あんなチョコパイ知らない。あたしが知っているあの子は、もっとどんくさかったはずだ。才能、とふと思った。才能があるんだ――あたしと違って。
「一緒に滑ろう、寧々?」
下方で合流したときに無邪気な顔で誘われて、何も言えなかった。うん、と本当はうなずきたかった。
あたしは何をするにもドジでのろまだけど、チョコパイがそれをバカにしたことは一度もない。いつも「一緒にやろう!」と必ず言ってくれていた。でも、ドジでのろまなのはチョコパイだって同じだったのだ。二人して失敗して、やっちゃったー、って笑っている時間が楽しかった。スキーでは、それができなかった。
もし、あたしに斜面を滑れるだけの才能があれば。どんどん遠ざかるチョコパイに追いつけるだけの力があったら。
「ぼくね、スキーだいすき」
旅行から帰る途中の車で、チョコパイがあたしにささやいた。
「ぜんぶのことよりもすき。テレビよりもすき。おふろよりもすき」
「あたしと遊ぶよりも?」
「うーん、うん」
悪意のないその笑顔が忘れられない。チョコパイはこんな会話を今では覚えていないだろうけど、覚えられていないというのも、やっぱり少し寂しい。
あだ名をつけたときだって、きっとあたしは寂しかったんだ。小学生になって自分の気持ちを言葉で表せるようになって、でも、置いていかないで! って素直に叫ぶことはできなかった。だから代わりに、くだらないことを言うしかなかったんだ。
「……三嶋は、そこまでして御手洗の気ィ引きたいの?」
四歳のころのキンキンした響きが一切残っていない声がして、あたしは過去の回想から現実に返る。そういえば、いつから寧々って呼んでくれなくなったんだろう?
「気を引きたいってか、目立ちたいの」
「どうして?」
「あんたが知る必要ある?」
あたしが睨むと、チョコパイは気圧されたように「ごめん」って言ってうつむいた。
その表情を見て、あたしはちょっとだけ後悔した。チョコパイを見ていると、真っ白くてちっちゃいウサギを手の中で大切にしているみたいな気持ちになるのに、同時にその耳を乱暴に引きちぎっちゃいたいような気持ちにもなる。何か月か前、ヒカリちゃんに貸してもらったマンガの中にあたしのこの気持ちとまったく同じモノローグがあったんだけど、その主人公はそう思ってる相手のことが好きで、てことはあたしはチョコパイが好きってことになっちゃうから、すごく混乱した。だからこんな、こんなわけのわからないことをつらつらつらつら考えているわけなんだけど。
今、あたしがあたしの中で活発にこねくり回している「頭日記」みたいな名前のこれは、いつか大人になってからあたしが思い返すためのもので、そのときになってきっと初めてあたしは自分が誰を好きだったのかを理解するんだと思う。余裕で全科目赤点取るくせにこういうことを考えつくあたり、あたしは多分脳みそのどうでもいい部分が賢い。
「……その問題」
チョコパイがもう一度声をかけてきた。
「わかんないの? 因数分解」
「そうですけど。どーせあたしはバカだよ」
「じゃあ一緒にやろう」
チョコパイは途中まで解いたノートをあたしに見せてくれた。字が汚いし、筆圧が強すぎるしで、申し訳ないけれど、解読を諦めようかとわずか一秒で思う。「ありがと」って言って返そうとしたら、三×五を間違えてるのを見つけてしまった。
「ここ、十二じゃなくて十五だって」
「え、じゃあこっから下ぜんぶ違うじゃん」
「そもそもxとyが無い時点で間違ってない? それ」
あたしとチョコパイはそろってため息をついた。
「みーたらーいくーん。問三、おねがーい」
お嬢ちゃんが言った。御手洗くんがまた指された。ちゃんと授業を受けてるのは、あたしのクラスでは御手洗くんだけだから。チョコパイだって、見てる方がかわいそうになっちゃうくらいのイイコチャンだけど、九九も怪しいほど頭が悪いから、先生の話を聞いてても多分なんにも理解できてない。
御手洗くんはダルそうに席を立って黒板に数式を書きに行って、ほら、みんなメイクとかネイルとかの手を止めて目で追ってる。この学校にはピュアなタイプのバカしかいないから、御手洗くんはモテるんだ。不良タイプしかいなかったら、きっとヴァンクリのネックレスと財布奪われてボコボコにされて終わりだ。
次の日も御手洗くんはハーモニカを持ってきていて、正直あたしは踊るのは昨日の一回こっきりのつもりでいたから、演奏が始まってからみんなにじろじろ見られると戸惑った。えっ今日やんないの? って言われてる気がした。だから仕方なく立ち上がってコサックダンスのステップ踏み始めたんだけど、みんなは手拍子しながらおかしそうに笑い始めて、あたしはだんだん自分が目立つ存在からただの笑い物になっていくのを感じた。あたしはみんなと同じように御手洗くんのことが好きだし、御手洗くんのことを好きなみんなのことも好きだけど、こんなふうに取り囲まれて面白がられたいわけじゃなかった。昨日は御手洗くんにほめられたら嬉しいなって思って踊っただけなのに。
先生に呼ばれてたチョコパイが廊下をスッと通って、あたしは一瞬たすけてって言おうか迷ったけど、助けるって何をどこから? って心の中の冷静なミニ・チョコパイに突っ込まれたから黙った。
助けてくれないのはわかってる。でも、四歳のときのスキーや昨日の因数分解みたいに、あたしが困っていたら「一緒にやろう」って言ってくれるのは知ってる。じゃあさ、いっそ一緒に踊ろう? シャルウィーダンスと誘いたいけれど、ここでやめて抜け出すわけにはいかないから、あたしはたった一人で見世物にならなきゃならない。
次の日も、その次の日もあたしは周りの空気に負けて踊ってしまった。恥ずかしすぎて全人類みな死ねとか思っているのに、もうやーめたって言って抜け出すことはできなかった。自分で始めたことなんだから、誰かを責めようもない。御手洗くんがハーモニカ吹いて、その音色が踊れって歌ったら、やだなって思う前に手足がズンチャカやるようになってしまった。
クラスにできたこのルールに一番喜んだのはヒカリちゃんで、それはあたしが踊っている間だけ、ヒカリちゃんは他の女の子たちより御手洗くんに少しだけ近づけるから。「寧々ってほんとバカなことするよね」とか「あ、今日はパントマイムみたいよ」とか、演奏中の御手洗くんに話しかけてもいいのはヒカリちゃんだけってルールも、なんとなく確立されつつあった。御手洗くんは、うんとか、そうとか息継ぎのついでに短く答えて、それだけでヒカリちゃんは体をぞわぞわさせているみたいだった。休み時間が近づくたびに、ヒカリちゃんの腕にはすごい密度のプチプチができていて、それはもう鳥肌を通り越して鳥になる前兆みたいに見えた。
あたし、あたしはきっとチョコパイに止めてほしいんだと思う。ホイホイ踊ってみんなに笑われながら、いっつもチョコパイのことを考えてる。何かにびびってるのがデフォみたいになってるチョコパイが、人が変わったみたいにバッて急に御手洗くんの口からハーモニカを奪ってくれたらいいのに。それからプロみたいな技術で演奏を始めてくれればいいのに。そしたらあたしは踊るのをやめて、代わりに御手洗くんに向かって手拍子をしてやるんだ。ほら、ほら踊って。恥ずかしいでしょ? やめてほしいでしょ?
あたしは誰かにいじめられたとかそういうわけじゃないけれど、集団が作る空気の苦さみたいなものを御手洗くんに理解させたかった。なんとなく、しらけるとか滑るとかいうことを経験せずに育ってきたような雰囲気を感じるから。あとは、チョコパイのかっこいいところを見たかったんだ。雪の降らないこの町では、ヒーローみたいな姿のチョコパイを見ることはできない。だったらあたしの一人や二人救ってみせてほしかった。そうじゃないと、あたしはどうしてこんなに長い時間チョコパイのことを考えているのかわからなくなっちゃうから。
〈一月二十二日〉
しばらく考えるのさぼってたけど、それは誰かにこの話題をべらべら喋るのは気が引けたのと同じ理由。夜中にめちゃめちゃ人っぽい声で「ねえーっ」って鳴くネコがいるけど、いっそのこと人間じゃなくそいつに話した方がアドバイスとか意見とか返ってこないし楽かもしれない。でもネコには逃げられるに決まってるから、代わりに自分の頭の中でこねくり回すしかない。
月曜、学校に来たら天地がひっくり返ってた。クラスの女の子たちがみんなライザップのビフォーみたいな表情してて、何があったか訊いたら、御手洗くんのことよって言われた。
「え、知らないんだけど。なんのこと?」
さらに訊いたら、一人一言ずつ教えてくれた。
――御手洗くん、夏ごろから先生と付き合ってたんだって。
――相手は誰だったと思う? お嬢ちゃんだよ。
――いっつも御手洗くんを指す女だよ。
「ああ! だから御手洗くんは、あんなに熱心に授業受けてたんだ!」
あたしがそう叫んだら、ヒカリちゃんにものすごい顔で睨まれた。当然おはよーなんて挨拶しに行くこともできなくて、あたしは背中にまだ視線が残ってるのを感じながら自分の席についた。チョコパイはスキーの大会か何かがあって今日も欠席みたいだ。
ガラって音がして、教室のドアが開いた。みんなの顔が強張った。
御手洗くんが登校してきた。
御手洗くんはいつものようにダルそうな猫背で席まで歩いて、ガン! って音を立てて椅子を引いた。体がダンベルになってるみたいに勢いよく腰を下ろした。おびえた顔で様子をうかがうあたしたちに向かって「おはよう」ってにこやかに言ったけど、頬杖をついた手首には、ヴァンクリのネックレスがついてなかった。
「……み、御手洗くん」
ヒカリちゃんが口を開いた。
「私たち……数学の西園寺先生と御手洗くんがその、つ、付き合ってるって聞いたんだけど。嘘だよねそんなの?」
「嘘やないで」
御手洗くんはヒカリちゃんに笑いかけて答えた。
「付き合うてるって言うか、付き合うてた、やけど。別れさせられたもん。今は見えへんけど俺、昨日の夜、親父に腹パンされたんやで。でかいアザできた」
御手洗くんはずっとにこにこしてて、でも目は空っぽの部屋みたいに暗かった。自殺する直前の人とかお金持ちでも愛されない人とかが映画の中でしてるみたいな表情だった。
ヒカリちゃんは髪の毛が逆立つくらい体をぶるっとさせて「ひっ」って言って、あたしのとこまで駆け寄ってきて、腕にしがみついた。つい五分前までは、あたしのこと睨んでたくせに。
なんとも気まずいことに一時間目は数学で、でも、教室に入ってきたのはお嬢ちゃんじゃなくて国語のしなびたジイちゃんだった。ジイちゃんはチョークを手に取ったかと思うと、ヒョロッヒョロな字で黒板に「自習」とだけ書いて出ていった。いつもならあたしたちは自習になると喜んでパーッと弾けちゃうんだけど、今日は誰もポテチもゲームも広げずにじっとしていた。
あたしは、ハーモニカはないけどよっぽど踊ってやろうかと思った。今ならきっとみんな頭がおかしくなっているから、あたしが踊り始めたら手拍子じゃなく一緒にステップを踏んでくれるはずだ。御手洗くんも突っ伏した顔を上げて何か吹いてくれるかもしれない。でも、あたしの体は動かなかった。石にされちゃったみたいに冷たく固まっていた。恥ずかしかったから。痛い目見るのが嫌だからって、こういうときに行動を起こせない自分がなんだか気に食わなかった。
あたしはスマートフォンのロックを解除して、チョコパイにかちかちラインを打った。今朝の御手洗くんとお嬢ちゃんとヒカリちゃんのこととか、今はこの張り詰めた空気がむしろ眠いこととか、あとは大会頑張れよ的な一言。チョコパイごときを相手に何で緊張してんの、って思いながら送信ボタンを押した。しばらくマンボウみたいに口を開けたままじっとトーク画面を見ていた。
「寧々、ちょっと時間ある?」
放課後、ヒカリちゃんにそう訊かれて、あたしはうんってうなずく前に腕をつかまれて踊り場まで引きずられた。みんなは反対側の階段から降りてくから、そこには誰もいなかった。
踊り場はよく告白なんかに使われてる場所だから、あらもしかしてヒカリちゃんたらあたしのこと……なんて思ってたら「告白じゃないよバホ」って見透かされたみたいに言われた。バホってのはバカとアホのダブルミーニングで、あたしだけに使うヒカリちゃんの造語だ。
「お嬢ちゃん、学校辞めさせられるんだって」
階段の一番上に腰かけて、ヒカリちゃんはぽつりと言った。
「え、無職になるってこと?」
「知らない。でも結構な家のお嬢様だったらしいし、困らないんじゃない? 昼休みに職員室でジイちゃんが校長と話してたの聞いたの。……て言うか、今はあの女が無職になるかどうかはどうでもいいんだって。御手洗くんの方が大事でしょ」
みんながみんな、御手洗くんの方が大事だとは思ってないかもよ?
あたしはそう言おうか迷って、やめた。言っても、ここにいる時間が長くなるだけだから。
「お嬢ちゃん、本当にお嬢様だったんだ……。あの喋り方はキャラ作ってるのかと思ってたんだけどなあ」
あたしは体を後ろに倒して、踊り場に寝転がった。
御手洗くんは自分のお姉さんのことをものすごく慕っていて、結婚してしまったときにすごく落ち込んでいた。だからきっと、豪快って言葉とは程遠いお嬢ちゃんに期待したくなったんだと思う。姉ちゃんには裏切られたけど、性格が真逆のこの女なら大丈夫かもしれないぜ! って具合に。
かなしいな、とあたしは思った。シスコンの御手洗くんがかわいそうなのではなくて、御手洗くんに起こってしまった出来事すべてが悲しいと思った。グレープフルーツの匂いをさせて、ぎゅっと丸まってる御手洗くんを思い出した。あのとき、両ひざにうずめた顔にどんな表情を浮かべていたんだろうと思ったら、果汁がしみたみたいに目の奥がピリピリと痛くなった。
「でさ」
ふいに真面目な顔をして、ヒカリちゃんはあたしのことをまっすぐに見つめた。
「私、バレンタインに告ったら御手洗くんと付き合えるかな?」
「はあ?」
言葉を呑み込む前に、口が勝手に大声を出した。あたしはヒカリちゃんの顔に穴が開くくらい強くその目を見つめ返した。
「ヒカリちゃ、何言ってんの……」
「御手洗くんは先生と別れたってことでしょ? だったら私にも可能性あるじゃん。もともと私、あの二人のこと知る前からバレンタインに告っちゃうつもりだったんだよね」
ヒカリちゃんの何がすごいって、こういうことに関しては、完全にコンピューターと変わらない考え方をするところだ。人の気持ちとか、空けるべき期間とか、そんなことは一切気にかけちゃいない。今だって「どう思う?」ってあたしに訊いてきてるけど、そんなの、あたしがどう答えたってヒカリちゃんはこの計画を実行するだろう。あたしの役目は、小さい確認ボタンみたいなものを軽く一本指で押すだけだ。
「……頑張ってね」
「先越さないでよとか、言わないんだ」
「え?」
「寧々だって御手洗くんのことが好きなんじゃないの? うちのクラスの女子みんなそうじゃん。寧々だって抜け駆けしたいから、あんなバカみたいな踊りを始めたんじゃないの?」
「ああ、まあ、そんな感じだけど……」
めんどくさいな、ってあたしは思った。あたしは御手洗くんのことが好きだけど、それはたぶん、ラブではなくて……。でも、そんなこといちいち丁寧に話し始めたら、きっと明日の朝になるまで上手く説明できずに日が昇ってしまう。御手洗くんに対してラブを抱いていないっていうのは、一+一の答えを知らないのとおんなじだって感じの空気が、あたしたちのクラスにはあるから。
でも、どうして御手洗くんってこんなにモテてるんだろ。確かに、顔はそこそこかっこいいけど。性格だって優しいし頭もいいし映画にもマンガにもアイドルにもスポーツにも詳しいし、グレープフルーツの匂いがするし、関西弁がかわいいし、何を話しても楽しそうにしてくれるけど。
家でぶちぶち今日のことを考えてたら、一階でインターホンが鳴った。聞き耳を立てていると、どうやら来たのはチョコパイのお母さんみたいだった。あらアありがと、って、うちのお母さんが言っている声がする。
「……いで、麦彦が……こん……のよ」
チョコパイのお母さんの声は小さくてよく聞こえない。
「えっ、ムギくん、すごいじゃない!」
うちのお母さんの声はかなり大きい。
「……ら……ねねちゃ……なる……ね」
え、あたし? 今、寧々ちゃんって言った?
「ああそうかー、そうだねーあの子、すごく寂しがるわよ」
寂しがる? 何を?
一階に降りて話の内容をしっかり聞こうか迷っているうちに、チョコパイのお母さんは帰っていってしまった。あたしはちょっとドキドキしながら部屋を出て階段を下った。
「おかーさん、今来てたのって誰?」
「ムギくんのお母さんよう。たくさんいただいたからって、わざわざリンゴ届けてもらっちゃった」
お母さんは手に持った紙袋の中をあたしに見せた。真っ赤なリンゴが五個くらい入っていた。
「ねえ、寧々。ムギくん、来月からスキーに行くんだって」
「いつものことじゃん。なんなら今日だって行ってたよ」
「違うって。プロの選手になるために、強豪校に転校するんだって」
「ええ?」
さっきのお母さんに負けないくらい、大きな声が出た。なんだか今日はびっくりして訊き返すことが多い日だなと思った。
「一人暮らしですってよ。偉いわねえ高校生のうちから」
あたしはふう――っと気が遠くなってしまって、ソファにどさっと体を投げ出した。
チョコパイが? 引っ越す? スキーのために?
切れ切れのクエスチョンマークが頭の中をぐるぐる回った。来月、って、今月はもう半ばを過ぎてる。あたしの心臓は急にうるさく脈打ち始めた。これって、かなり一大事じゃない?
あたしは音速でスマートフォンのロックを外した。チョコパイから昼間の返信が来ていた。大会頑張ったよって、それだけ。たった一個の短い吹き出し。御手洗くんのことには一切触れてなかった。きっとしばらく考えて、困って、迷ってからそうしたんだなって思ったら、なぜだか胸がきゅうっと痛くなった。
〈二月五日〉
登校したらチョコパイがいたから、あたしは眉間に寄るシワを指で平らにしながら「引っ越すの?」って訊いた。
「なんで知ってんの」
チョコパイは驚いた顔でそう言って「母さんが喋ったのか」って一人で納得していた。
「いつ?」
「今月。十四日だったかな?」
「もうすぐじゃん! それに、チョコの日だし」
あたしは自分がどんな顔をしているのかわからなかった。心はいろんな感情が混ざり合って変にカラフルっぽかった。
「なに。泣きそうなの?」
チョコパイがにやっと笑ったから、あたしはそんな顔ひさびさに見たと思って本当に涙を浮かべてしまった。あたしの目尻に浮いたしずくを見て、チョコパイがわかりやすくおろおろし始めた。
あたしは「因数分解ちゃんと理解してから行きなよ」って言って、戻ってきたばかりのトイレにまた向かった。あたしこそ因数分解理解してないじゃんって、廊下をほとんど走りながら思った。
バレンタインは何を作るつもりなのってヒカリちゃんに訊いたら、買いチョコに決まってるでしょって頭をはたかれた。手作りよりも買った方が美味しいし見た目もきれいだから、って。いじらしさとか、まごころの度合いとか、そういう手作りのいいところにまったく目を向けてないところがヒカリちゃんらしいなと思った。
一方、お嬢ちゃんとのことがバレてからの御手洗くんは、やっぱりちょっとおかしい。ハーモニカは当然ナシで、あたしは助かったーって思いながら静かな教室でゆっくりお昼ご飯を食べてた。
「……寧々」
突然、ヒカリちゃんがカタリとお箸を置いた。
「踊って」
ふざけてない真剣な顔だった。
「え、嫌」
あたしはうろたえながら首を振る。
「お願い! みんなが楽しそうにしてたら、御手洗くんも元気になるかもしれないじゃない。こんな静かな昼休み、私、わたし……苦しい」
「はあ?」
だったら自分で踊りなよ、くらい言ってやればよかった。あたしが何も言い返せずにいるうちに、他の女子も口々に「なになに、三嶋さん踊ってくれるの?」と言い始めた。御手洗くんは、何もかもがどうでもいいって顔で窓の外を見ていた。
「踊って、踊って」
やだ。でも逆らいたくない。
「ほら、早く」
無理。でもやらなきゃ。
「お願い」
やだって。
ガタ、と、隣で立ち上がる音がした。
「三嶋&チョコレートパイ、踊りまっす!」
チョコパイのそんな大きな声を初めて聞いた。ひらっと風のように手を取られたかと思うと、次の瞬間には、立ち上がって繋いだ手の間をくるりと回っていた。
王子様かしら?
「はい。終わり」
チョコパイは顔を赤黒くして着席した。
学校の帰りに、一人でスーパーに寄った。バレンタインコーナーをふらふら眺めて、チョコパイに何をあげようか考えてる自分にぎょっとした。よりによって、なんであいつに? チョコパイにチョコパイをもらうの間違いじゃなくて? 確かに、今日のあれは良かったけど……。寒さで乾燥した手の表面に、今日の休み時間の熱っぽさがまだかすかに残っていた。
あいつのあだ名と同じ名前のお菓子を見て、あたしはしばらく自分と話し合いをしていた。出した結論は、このさい認めるしかないってことだった。あたしは御手洗くんじゃなくてチョコパイが好きだって、自分に素直になった方が苦しくないよって、あたしの心臓のあたりがささやいた。
電子レンジを爆発させたことがあるくらいの料理オンチなのに、おうちで簡単生チョコクッキーサンド、みたいな名前のキットを買って帰った。今日作るわけじゃないのに、夜ご飯のあとにキットの箱を開けた。星くずみたいにきれいなトッピングと小さなローラーが出てきて、ちゃんと使いこなせるか不安になった。クッキーの材料らしい白い粉の袋も入っていて、もしこれだけ剥き身で持って外を歩いていたら、麻薬の密売人と間違えられて捕まるかもなと思った。
〈二月十三日〉
帰りにデパート寄ってチョコを選ぶの手伝って、ってヒカリちゃんに言われたけど、断った。帰ったらチョコパイにあげるクッキー焼くからごめんね、なんて口が裂けても言えない。お腹が痛くなる気配がする、って嘘をついた。
チョコパイは学校には来ていなくて、でもきっと今日はスキーじゃなくて引っ越しの荷造りをしているんだろうなとあたしはぼんやり考えていた。
普段は御手洗くんの陰に隠れてひっそりしている男子たちが今日は妙にうるさくて、おれ、義理でもいいからくれよ? って言っているのを何人も見た。御手洗くんは今日が何日とか気にしてないのか、いつもと同じようにダルそうにしてた。授業は相変わらず真面目に受けてたけど、ときどき何も見ていないみたいな目をしていた。
「御手洗くん」
休み時間になると、ヒカリちゃんが笑いながらそばに寄っていった。
「最近、ヴァンクリのネックレスしてなくない? どうしたの?」
御手洗くんはヒカリちゃんの方を見なかった。いつもなら、どんなに気だるげでも絶対に顔を上げてくれるのに。
「グレープフルーツの匂いもしないよ。お姉さん、もうよくなったの?」
ヒカリちゃんは顔をくしゃっとさせて笑っていた。
「私、あの匂いすごい好きなんだよ。また付けてきてよ」
御手洗くんは黙っていた。
「バスケットはどこに行ったの?」
ヒカリちゃん。もう、そろそろやめなきゃ……。
「ねえ、こっち見てよ。ハーモニカ吹いてよ? 寧々が踊るの、面白かったじゃん」
げっ、ここで名前出されるの? あたしはみんなの視線から顔をそむけた。
「御手洗くんってば」
「うるっせえな」
突然、御手洗くんは椅子を倒して立ち上がった。ヒカリちゃんの肩のあたりを押して無理矢理どかし、教室を出ていってしまった。
「御手洗くん!」
声を上げて出入口に駆けていったのは、ヒカリちゃんじゃなくてその他大勢の女の子たちだった。押し合いへし合いドアに詰めかけている人たちの横で、ヒカリちゃんは口を半開きにして突っ立っていた。
「ヒカリちゃん……」
あたしはそうっとしゃがんでその目を覗き込んだ。
「御手洗くんの他にもいい人なんていっぱいいるって。もうあんなシスコンに時間使うのやめよう」
「……かっ」
ヒカリちゃんが口を開いた。
「かわいそう」
「かわいそう?」
あたしはびっくりして訊き返した。
「御手洗くん、お姉さん取られて、お嬢ちゃんとも別れさせられちゃって、すごい傷付いててかわいそう。周りに八つ当たりしちゃうくらい苦しいんだ。私が、守ってあげないと……。私が、御手洗くんの味方でいてあげなくちゃっ」
えぐ、ぐ、く、うぐっ……ってヒカリちゃんは泣いていて、でも、その涙は悲しいから流れているんじゃなくて自分に与えられた使命に対する喜びから来ているみたいだった。あたしは正直ちょっと引いてて、十代ってもろいなっておばさんみたいなことを思った。
あたしたちはもろくて、好きになった男の子を理解してあげられるのは自分だけだって信じちゃうくらい単純。バホだ。
ヒカリちゃんは午後の授業をすっぽかして学校を飛び出していった。肩ひもがゆるゆるのリュックを何度も背負いなおしながら、手にはチョコレート代を入れた財布をしっかり握りしめて走っていった。
家に帰ってキットを出して、さっそく調理に取り掛かった。
いざ道具と材料を手にしてみれば、説明がサルでもわかるくらい丁寧だったおかげで、簡単にできた。完成したばかりのクッキーサンドを一つつまんで、あたしはうっとり吐息をついた。
スマートフォンが鳴った。
チョコパイからのLINEだった。「そろそろ行くよバイバイ」って、ひょっとして句読点の概念がないのかな。……ていうか、そんなこと考えてる場合じゃない。行ってくる? どういうこと?
「お母さん!」
あたしはリビングに向かって声を張り上げた。
「ムギが引っ越すのっていつ?」
「今日でしょ? お母さん言わなかった?」
「言ってないよ!」
わけもわからないままあたしは袋にクッキーサンドを詰め、玄関でスニーカーを履いた。家を飛び出しながら、あたしが今まで抱えてきたこの思いは、今日でようやくひと区切りつくんだなと思った。区切りって、この前のテストによると英語でチャプターのこと。区切りが「終わり」とは違うみたいに、あたしとチョコパイの関係も、形を変えながらずーっと先まで続いていけばいい。
新しいLINEが来ていた。「もしかして日付間違えてた?」って、間違えてたのはあんただよ。あたしは、もう何日も前からカレンダーとにらめっこしてたんだから。
今はLINEだって電話だってZoomだってなんだってあって、それにちょっと頑張れば数時間で会いに行けちゃうのかもしれないけど、やっぱり距離が開いてしまったら、こんなふうに勇気と勢いだけで手作りのチョコレートをあげるのは難しくなってしまう。だから今、今、届けなきゃいけないのだ。あたしの鼻息は試合直前の闘牛並みに荒くなっていた。
君に染まってしまえば染まってしまえばとか、この体抜け殻になる日まで抱きしめるよとか、お願い思いが届くようにねとか、愛しいこの時間にぴったりの曲をいっぱい、いっぱいあたしは知っているけど、この気持ちはそのどれにも当てはまらない。いや、全部の曲からワンフレーズずつもらってきてギュッと詰めた感じだった。体ごと弾け飛んでしまいそうになりながら、あたしは歩道橋の向こうのチョコパイの家まで走った。走ったって今、思ってるってことは、現時点で心の中でこれを考えているあたしは、その結末をもう知ってるってことなんだけど。どうせならマンガのモノローグみたいに現在進行形で喋ってみたい、それくらい、何度思い出してもあたしは偉いねって自分をほめたくなるくらい頑張った。
ふいに、見慣れない車とすれ違った。あたしは猛スピードで移動していたから一瞬だったけれど、気付かないはずがない、助手席にチョコパイが乗っていた。
「待って――止まって!」
あたしはギュッと真逆に方向を変えた。どこにもないはずの勇気を振り絞って、絞って、今までの恥ずかしさとかこれからの寂しさとか全部を押し込めて、腕がちぎれるくらいに手を振った。
車が速度を落として、停車する。あたしは追いついた。チョコパイが助手席から降りる。運転席にいるおじさんに「ちと、ごめんなさい」と言って丁寧に頭を下げた。
「その子が例の幼なじみ?」
窓を開けたおじさんがニヤリと笑って言った。
「そうです」
チョコパイの顔が赤くなる。なんで?
「いいじゃーん。愛だねえ」
おじさんは窓を閉めた。
「誰……」
「コーチ。スカウトしてくれた人」
「ああ、そう」
変な沈黙が流れた。
行かないで、なんて言えない。目のふちが燃えているみたいに熱い。泣けない。かわいい女の子でいたい。こんな、梅干しみたいな表情をしたくはないのに……。
顔をひくひくさせるあたしを見て、チョコパイは静かに待ってくれていた。走り終えてから数分たっても、まだまだあたしの心臓はうるさい。
「……これ!」
急にあたしが大声でソイヤッと袋を突き出したら「うわ!」って驚いたような声が降ってきた。顔を上げてみる。大輪の笑顔の花が咲いている。冬なのに暑苦しいくらいだ。
「ありがと。あの、サンキュ!」
「同じ意味だって!」
おかしいくらいに素直な、この人のことが大好きだ。よかった! あたしは笑って、行ってらっしゃいを言えた。
【おわり】