意識高い系第二新卒の憂鬱
会議室で六名の男女が話し込んでいる。
ガラス張りのパーテーション越しに、議論が白熱しているさまが見える。社員証をぶら下げた彼らの視線は一様に手元の企画書に注がれている。
Aを主張する男とBを主張する女が激しくぶつかり合い、他の面々が二人の論旨を汲んで整理していく。会議は長時間に及んだが、やがて満足げに男が立ち上がり、ホワイトボードに書き連ねられた候補の中から、赤いマーカーでAを囲む。女は悔しそうに唇を嚙み締めながら、自らを納得させるように深く頷いた。
ここから彼らの企画は本格的に始動する。来夏の発売に向けて、全員が一丸となり準備を進めなければならない。デスクに散らばった企画書が片付けられ、ホワイトボードをまっさらにした後、彼らは会議室を後にする。都内某所、某大手メーカー。どの会社でも見かけるような企画会議の一幕である。
「お世話になります、ワークスペースコンサルティングの光村です!」
スマートフォンを耳に当てて声を張り、道玄坂を駆け上がる。ワイシャツの下のインナーに汗が染み込む。まだ七月頭だというのに、梅雨が去ると同時に酷暑がやってきた。
「お世話になります」は今日だけでたぶん百回くらい言った。百はさすがに盛りすぎだろっていうツッコミは受け付けない。オフィス仲介の世界においてはこんなのザラにあることなのだ。
二十二歳。高卒で働き始めたから、社会人歴は四年強。去年の冬、勤めていた複合機メーカーをやめて、今の会社ワークスペースコンサルティング――通称WSCに転職した。創業八年目、社員十二人の小さな会社で、オフィスはこの坂道をもう少し上がった先の雑居ビルの中にある。
入社するまで、俺もオフィス仲介という仕事がなんなのか、あまりわかっていなかった。
広くは不動産業。不動産業と聞くと、多くの人はマンションの賃貸や売買をイメージするだろう。でも、その人たちの大半が自宅の次に長い時間を過ごす場所はオフィスで間違いないと思う。
会社が自社ビルを所有していて、その中で全て完結しているならオフィス仲介と関わることはないかもしれない。俺の前の職場がそうだった。でも賃貸の場合は事情が違う。従業員や売上の増減、はたまたビルの取り壊しなどの事情で、今いるオフィスを引き払い、移転の必要に迫られることがある。
そのとき登場するのが、オフィス仲介だ。空室を抱えるビルオーナーと移転を希望する会社の間に入って条件を調整し、両者の契約を成立させるプロフェッショナル。物件の提案や案内はもちろん、条件交渉や契約手続きもオフィス仲介に任せておけばいい。
……といくらでも聞こえのいいことは言えるが、中身はとても泥臭く、百本の電話はその裏付けでもある。
前提として、東京にはビルが多すぎるのだ。空室も賃貸条件も日々せわしなく移り変わる中、濁流のように流れる情報をかきわけ、クライアントに最適な情報を見つけ出す。
オーナーへの電話、物件の下見、地理の把握、オフィスマーケットの把握、などなどやるべきことは無限にある。オーナー、クライアント、内装会社、その他パートナー企業と、仁義を通すべき相手も山ほどいる。一つの漏れが契約を壊し、一つの不義理が未来の己の首を絞める。
俺たちは持てる限りの時間と体力を注ぎ込み、仲介をする。
知ったような口を聞いているけれど、俺はこの世界でまだまだ下っ端だ。
高校を出て勤めていたメーカーでは、法人相手に飛び込み営業をしまくっていた。年功序列に学歴主義、忖度が幅を利かせる環境に嫌気が差し、WSCに転職したのが去年の冬のこと。
結論から言えばこの転職は大成功だった。フラットな社風に歳の近い先輩たち。平均年齢は二十九歳だったか。固定の席に縛られないフリーアドレスデスクが導入され、人間関係にも偏りがない。
そして何より実力主義。不在がちな社長の代わりに、九名の営業を束ねるのは営業マネジャーの関ヶ原さんだ。関ヶ原さんはまだ三十代で、転職組だから社歴もそんなに長くない。だけどトップセールスを独走し続ける関ヶ原さんのポジションに異論を唱えるものはいない。親子ほど歳の離れた管理職が若手を支配する会社にいた俺は、入社当初驚きを隠せなかった。
なお、評価の仕方もシンプルだ。売上の目標を達成すれば、基本給にインセンティブが上乗せされる。つまりは頑張った分だけ報われる。まさに俺が求めていた環境そのもの。
しかし俺には最近、引っかかっていることがある。
今年の四月に、俺の半年遅れで入ってきた新入社員、咲野花。あいつに対して抱えるモヤモヤを尊敬する先輩たちの誰にも、まだ話せていない。
『パッとしないやつでよかった』
それが、咲野を初めて見たときの感想だ。
「咲野花と申します。青川大学政治経済学部出身で、趣味は散歩です。よろしくお願いします」
四月頭の朝礼。みんなの前で当たり障りのない自己紹介をした咲野の大きな瞳はうかがうようにきょどきょど揺れて、人見知りの飼い猫を連想させた。営業職で採用されたのが不思議だった。
これまで紅一点だった経理の藤本さんはキラキラ系美人だが、藤本さんと比べると咲野は小柄で幼く見えた。みんなの弾けるような拍手にぺこぺこと頭を下げた咲野は、ストッキングの片足が細く伝線していることも全く気づいていないようだった。
どんくさそう、仕事できなさそう、要領悪そう。拍手をしながら、頭の中で好き勝手言った。悪口のようで、悪口ではない。むしろ俺にとって、咲野の印象はよかった。ものすごく。
中途採用メインのこの会社に、同い年の新卒が入ってくると聞いたときから憂鬱だったのだ。俺より優秀なやつだったらどうしよう。情けなくもそう思った。
だって、高校を出てすぐ働き始めた自分が、ポッと出の新卒に負けていいわけがない。前の会社ならいざ知らず、ここでの敗北はこの四年間で培った営業力の全否定だ。
そうならないように頑張るけれど、そうなったら本当に笑えない。
入社初日の咲野の姿は、そんな俺の不安を払拭してくれた。やる気に溢れているわけでもなければ、頭の回転が速そうなわけでもない。誰もが振り返る美女でもなければ、特別愛想がいいわけでもない。俺を脅かす要素が咲野には見当たらず、俺は心のそこからほっとしたのだ。
でもそれは、とんでもない見当違いだった。
「咲野。なんかこれ、物件が違う気がする」
四月の二週目。共有フォルダにアップされた写真のデータを見て、咲野に声をかけた。
「えっ、ごめん。どれ?」 「これ。俺が頼んだの、『ライスビル』じゃなくて『米ビル』だよ。名前が似てるから間違えただろ」 ノートパソコンの画面を指差して伝える。ちなみに咲野は早々に、タメ口をきくようになった。これは咲野が馴れ馴れしいからではなく、他の先輩が「同い年なんだから光村にタメ口でいいよ」と勝手に許可をしたからだ。まあたしかに同い年だけど、俺の方が四年も先輩なのに……。
それはいいとして(よくないが)、問題はこの写真だ。新人研修の一環で、咲野は現在ビルの下見に明け暮れており、俺たちは咲野に「おつかい」を頼んでいいことになっている。
それで今日、咲野の下見エリアにある『米ビル』の写真を撮ってきてほしいと頼んだ。築年数は経ているが、煉瓦造りの重厚な建物で、ハマる人にはハマりそうなのだ。明日アポで会うクライアントに、写真つきで提案したかった。
しかし共有フォルダには、『米ビル』ではなく、『ライスビル』というビルの写真がアップされていた。
知らない物件だ。会社で使っている物件データベースにも登録されていない。
米とライス。名前が紛らわしいことは認める。とはいえ咲野が撮ってきたライスビルはギラギラしたガラス張りの外観で、米ビルとは似ても似つかない。しかも米ビルは二百坪あると伝えていたのに、このライスビルはペンのように細長く十坪くらいしかないように見える。ネットを叩いてもあまり情報がなく、オーナーが誰かもわからない、とにかくマイナーなビルだった。
「ごめん。米ビルの写真も撮ってあるから、すぐに共有フォルダに入れる」
俺の指摘に、咲野はそう言った。
「え、米ビルも撮ってんの?」
「うん。ライスビルの方はたまたま見つけて、郷さんに見せようと思って撮ったものだから」
「郷さんに? なんで?」
郷さんは一つ上の先輩だ。声も体も大きくクライアントの懐に飛び込むのがうまい。誰にも嫌われない営業スタイルで若手売り頭として活躍している。
「郷さん、お客さんへの情報提供のために、『シーシーステイ』の場所調べてなかった?」
「シーシー……?」
問い返しながら、思い出した。営業マネジャーの関ヶ原さんに泣きつく、郷さんの声。
『アメリカ発のシーシーステイが日本法人立ち上げたってマジっすかね? 俺が対応中の「日々是民泊」さんが、シーシーステイがどこにあるのか気にしてるんすよ。競合だから、あんまり近くに行きたくないみたいで。すげー調べてんですけど全然情報がないんですよね……。あーまじでどこにいるんだろう!』
助けを求められた関ヶ原さんは郷さんとともにネットの海をさまよったものの、特にめぼしい情報は出てこなかったようだった。
「……まさかだけど、このライスビルにシーシーステイがいた、とか?」
「あ、うん。たぶん」
咲野は自分の摑んだ情報の重要性に気づいているのかいないのか、きょとんと頷く。
フォルダに格納されたライスビルの館内板の写真を再確認すると、たしかに『C.C.STY』と掲示されている。
「ちょっときわどいな。STYがステイがどうか怪しい」
「あ、たしかにそうかも」
「……咲野、こういうのはちゃんと、フロアまで行って確認しないと……」
「そうなんだ。ごめん、勝手に上がったらダメかと思って」
謝る必要はなく、その感覚は正しい。見つかったらクレームになる場合もあるから、入ったばかりの新人は適当なところで切り上げるのが正解だ。
でも俺は咲野に難癖をつけたくてしょうがなかった。焦っていた。
だって、もしこれが本当にシーシーステイなら、とんでもないお手柄だ。
郷さんも関ヶ原さんもお手上げの情報を、新人が下見ついでに拾い上げるなんて。
だが咲野は自分の置かれた状況に無自覚のようで、
「もしよかったら、光村から郷さんに伝えてもらえないかな。私この後、下見報告のミーティングがあって」
などと言ってくる。俺は快諾した。営業は出払っているし、藤本さんも会計士さんとの打ち合わせで外している。双方合意の上で、俺は咲野の手柄を闇に葬ることができる。
「わかった。伝えとく。ひとまずライスビルのオーナーに連絡入れて探ってみる」
「ありがとう。ライスビルと米ビルのオーナーは同じだよね。何か教えてくれるといいけど」
そう言って咲野は俺のもとを離れる。ライスビルのオーナーが、米ビルと同じ?
……ああ。そうか。どうやら咲野は、二つのビルが同一オーナーの所有だと思い込んでいるようだ。米とライスで名前が似ていて、場所もまあまあ近いからだろう。
素人だなと、ほっとした。咲野がシーシーステイのオフィスを見つけたのはド素人のまぐれにすぎない。二つのビルは造りも全然違うし、米ビルのオーナーは精米機をはじめとした農耕機械の老舗メーカーだ。米ビルはもうすぐ都の歴史的建造物になる噂も出るほどに味のある物件だし、あんなギラついたビルを建てるとは到底思えない。
確証を得るべく、俺はスマートフォンを持って席を立った。非常扉から外階段に出て、米ビルのオーナーに電話をかけた。
「お世話になります、ワークスペースコンサルティング光村です。米ビルの件でご連絡なのですが……あ、ちなみに近くにあるライスビルは御社のご所有では……ないですよね?」
いえ、両方ともうちの持ち物ですよと快活な返答があり、電話を落っことしそうになった。しゅ、趣味変わってませんか!?
つまりは咲野の当てずっぽうが正解だったのだ。平静を装いライスビルの空室を聞いたら、つい最近埋まりましたと言われた。咲野の摑んだ情報がどんどん確実になっていく。
この目で現地を見なければと、俺はその晩ライスビルに足を運んだ。ガラスの自動ドアから入り、一基しかない、だけどピカピカのエレベーターに乗り、C.C.STYの入居フロアまで上がった。咲野と違って俺は慣れているから、万が一見つかっても「すみません間違えました」で適当にごまかせる。
扉が空いた瞬間、英語で激論を交わす外国人男性と日本人女性の姿が飛び込んできた。『ジャパニーズ、ミンパクカルチャーイーズ!』と目を剥き、身振り手振りで何かを訴える女性。彼らはディベートに夢中で俺の存在に気づいていない。静かに地上に降りて郷さんに電話をかけた。
『すげえな、どうやって見つけた!?』
郷さんは大喜びである。咲野のことを隠すほど俺は陰険ではない。だけど話の途中で電波が途切れ、電話が切れ、翌日もそのまた翌日も郷さんとすれ違い続け、うやむやになった。俺は、うやむやになるのを好都合ととらえる程度の陰険さなら持ち合わせていた。
咲野はというと、下見研修に追われてシーシーステイの行く末などには一切の関心がないようだった。
実際、咲野の下見は難航していた。一日三十棟だったノルマは二十棟まで減らされたが、それすらも終わらないらしく、直属の上司である館林さんが目標を十棟まで下方修正した。
情けないやつ。足が遅いのか地図が苦手なのか、どっちにしてもやっぱり営業向きじゃない。また好き勝手思いながら、でも俺はほっとしていた。大丈夫だ、咲野はド素人。恐るるに足らない。そう自分に言い聞かせ、何気なく共有フォルダの中にある咲野の下見データを覗いた俺は――度肝を抜かれた。
なんて細かい下見写真だろう。外観やエントランスの写真は角度を変えて四、五枚あるし、駐車場や館内板、郵便受けまで漏らさず撮影されている。
いちばんゾッとしたのは、定礎石の写真まで入っていたことだ。定礎石とは建物の外壁下部に埋め込まれ、『定礎』と大きく彫られた石だ。誰もが一度は目にし、けれど意識に留めない物体。着工を記念し建物の平安を祈る、験担ぎの石なのだが、そんなものまで咲野は撮っていた。
撮ればいいってものじゃない、チェックする先輩の身にもなれ。こんなだから、十棟にまで目標が下がるんだ……
自分を安心させる言葉をひたすら並べながらも、俺ははっきり意識した。
俺の中で咲野は脅威となりつつある。
最初に侮ったせいで、かえって反動がついてしまったのかもしれない。
間違いなく要領はよくないし、空気が読めるタイプでもない。オフィス仲介の肝である街や業界地図にも特に関心はなさそうし、何より野心のようなものが感じられない。
でも何かがある。着眼点なのか、勘なのか、咲野は俺の脅威たりえる何かがある。
「おいー! 咲野、やったな!!」
そしてフロアに響いた関ヶ原さんの声で、みんなが咲野に注目した。四月の三週目、咲野が突然、ビッグクライアントを摑んだのだ。
全員出払っているタイミングで内見希望の連絡があって、唯一身動きの取れる咲野が対応した。会長直々の内見で、物件の申し込みをしたいとその場で言われたらしい。
東京パイル社というタオルメーカーだった。こっそり検索すると、見覚えのあるキャッチコピーが画面に浮かび上がった。
『至高の消耗品、それはタオル』
少し前に渋谷駅をジャックしていた広告だ。かなり突飛だが、少なくともあの規模の広告を打つだけの財源があることは間違いない。ずっと法人相手に営業してきた俺は、ホームページの作りや会社概要を見ればわかる。この東京パイル社は、間違いなく超優良企業だ。
咲野が売上管理ソフトに二百万円という金額を登録すると、社内が沸いた。新卒の売上目標は月五十万円。もし東京パイル社の契約を取れば、四百パーセントの達成率になる。
咲野は順調にやりとりを重ね、ゴールデンウィーク前にはオーナー側への条件交渉に成功した。あとは東京パイル社側の正式決定を残すのみだが、会長直々に動いているのだから全ては滞りなく進んでいくだろう。
五月はきっと、脅威の達成率で売上を創出した初の女性営業への喝采で幕開けする。
俺の心は、思いのほか凪いでいた。人間、怖いのは絶壁から突き落とされるまでで、いざ突き落とされてしまえば意外と平気なのだろうか。それとも今は落下の途中で、岩肌で体を打った瞬間、爆発的な痛みに襲われるのだろうか。平たく言えば俺は、ショックすぎて実感が湧かないだけなのかもしれなかった。
そしてゴールデンウィーク明け、押し寄せた仕事で気を紛らわせ、夕方すぎに会社に戻ると、関ヶ原さんと館林さんが神妙な面持ちで話し込んでいた。オフィスの空気も重く、全員がなんとも言えない顔をしている。
「どうしたんすか」
郷さんに小声でたずねると、無言で外へと促された。非常扉をそっと閉めて外階段に出ると、郷さんは声を潜めた。
「東京パイル社、壊れたらしい」
「え……?」
どうして。
「理由は今、精査中だってさ。お客さん、うちからビズオフィスに鞍替えするんだって。咲野も今日会長さんから突然言われたらしい」
郷さんは顎に梅干しを作りながら、唇を嚙み締める。俺も何も言えない。
『鞍替え』は営業にとって、最低最悪の結末だ。進めていた契約から突如降ろされ、仲介会社だけを乗り換えられる。ビルや条件はそのまま。つまり「お前でさえなければ」と宣告されるもの同然だ。
なぜそうなった。順調そうだったのに。いったい咲野は東京パイル社に対して、何をやらかしてしまったのか。
「それで、咲野は」
「呆然って感じだったな。関ヶ原さんが休憩にいかせて今いないけど、最初の案件がこれってちょっと心配だよな」
郷さんの言う『心配』はおそらく二重の意味を孕んでいた。咲野のメンタルは大丈夫かという意味と、咲野に営業をやらせて大丈夫かという意味だ。
郷さんが冷たいのではなく、むしろ郷さんはあたたかい人だ。だからこそ大事なクライアントを咲野に任せていいのか、慎重に見極めるべきだと言っている。
東京パイル社が鞍替えとなった理由は迷宮入りした。関ヶ原さんや館林さん、咲野本人は知っているのかもしれないが、社内での周知はされなかった。
『出端をくじかれる』とはこのことで、この日を境に咲野はもがきながら沈んでいった。
生気がなくなり、体が一回り小さくなったような気さえする。ハードな契約を数多とこなしてきたオフィス仲介の男たちも、新卒女子の心を的確にケアすることにおいてはド素人だった。咲野がどんどん萎れていくのを、俺たちは誰も止めることができなかった。
電話を終えてエレベーターに駆け込む。汗で張りついたインナーを引っ張って肌から剥がした。時計を見る。五時五十七分。ぎりぎりセーフ。なんとか六時の売上報告ミーティングに間に合った。
フリーアドレスデスクの端っこに鞄を置き、手帳とペンだけ持って集中室へ向かう。簡易な可動式パーテーションで区切った空間には、九人の営業が集まっていた。いちばん端、郷さんの隣に体を滑り込ませ、坂道ダッシュで乱れた呼吸を整える。
「じゃあ全員揃ったから、始めるよ」
関ヶ原さんが印刷した売上管理表を睨みながら、一人一人に今月の進捗を確認していく。
先月、六月はギリギリのところで会社の売上目標を達成できなかった。今月で巻き返さなければいけない。まだ七月一週目だというのにみんなの顔には鬼気迫るものがある。
「次、光村。今月は達成が見えてるのか?」
「はい」
呼吸を整え、脳内に貼りつけたカンペを読み上げる。
「和地弁理士事務所さんは来週契約予定で、バズライタースタジオさんは今契約書の内容確認中です。あとは、鵜川和装さん」
「鵜川さんは……あれか。現ビル一階の美容室が退去して焼肉店がオープンするから移りたいって話だっけ」
「はい。呉服店さんなので、においのリスクを気にされています。新オフィスに移るにしても内装準備にけっこう時間がかかりそうなので、お客さんも急ぎ足です。オーナーに協力をあおいで契約を巻きます」
「オッケー。そのまま取りこぼさないように。先月のスウィーティーアメニティさんの分も、しっかり取り戻せるよう頑張れよ」
関ヶ原さんの切れ長の瞳が俺を圧迫し、激励する。顎を引いて頷き、拳を握り締める。
スウィーティーアメニティ――略称SWAMの一件を思い返すといまだに悔しい。
審査落ちだった。申込みまで進んだが、オーナーに弾かれた。
ビジネスホテルにアメニティグッズを卸売販売しているSWAMの財務状況は何ら問題がなかった。移転理由は立地と環境改善。ガチャガチャした新宿の雑居ビルから品のあるビルに移りたいという要望。たしかに大ガード傍の小滝橋通り沿いにある入居物件は、一階が宝石買取り店で二階はDVD鑑賞と、まさに繁華街新宿を体現したようなビルだった。
対照的な物件を探し、俺は四ツ谷駅付近の『権三郎ビル』を提案した。一階がオーナーの娘さんの営むカフェ、それ以外は全て事務所という大人しめのそのビルを、代表の甘利社長はとても気に入ってくれた。
値引き交渉はいっさいしなかった。
「下町育ちなんで、なんでも値切りがちなんですけど、オーナーさんに嫌われたら元も子もないですからね」と気さくに笑った顔が印象に残っている。やりとりもスムーズで、客観的に見ても優良顧客だったと断言できる。
しかし結果はまさかの審査落ち。オーナーの意向で理由は非開示だった。採用試験と同じで、入居審査に落ちても明確な理由を教えてもらえないことは珍しくない。
代わりの物件を提案しますと伝えたが、甘利社長の落胆は大きく、いったん移転そのものが延期になった。
俺もショックだった。甘利社長、あんなによくしてくれたのに。
最初の内見を終えた後、権三郎ビル一階の『GONZA COFFEE』で甘利社長にご馳走になったコーヒーの味が忘れられない。こぢんまりとした感じのいい店で、最近雑誌の取材も増えているのだと、店主であるオーナーの娘さんが教えてくれた。
「僕、コーヒー好きなんで、ちょっと任せてもらってもいいですか」
甘利社長はそう言って、俺の分のコーヒーもカスタムしてくれた。注文時に甘利社長が並べた言葉はもはや呪文で、ホイップとソイしか聞き取れなかった。あんなにおいしいコーヒーを飲んだのは人生で初めてだった。打ち合わせで飲むコーヒーなんてブレンド以外にないと思っていた。「すごい、詳しいんですね」とオーナーの娘さんも驚いていた。
あの味が恋しくて、ちょっと高い缶コーヒーを買ってみたりもしたが、落差を感じるだけで終わってしまった。
「じゃあ次は咲野」
関ヶ原さんの声に視線を上げる。みんなの顔が並ぶ中、咲野の顔だけセピアのカメラフィルターを通したように生気がない。「はい」と咲野が返事をすると、後ろで束ねた髪がポメラニアンの尻尾のようにぽこんと揺れる。宿主のテンションを読まない呑気な尻尾だ。
「今月見込める案件はまだありません。あと、この間の茨城モーターさんは……」
「今、僕の方で対応中です。ただ、他社にも声かけしているようで、正直厳しめです」
郷さんが咲野をフォローする。
「了解。じゃあ茨城さんは郷に任せて、咲野は体調優先でみんなのサポートに回ろう」
関ヶ原さんの声は心なしか優しい。WSC初の女性営業である咲野に、居心地の悪い思いをしてほしくないのだろう。周りも関ヶ原さんの影響を受けてか、売上ゼロを更新し続ける咲野を責めない。
みんなの気遣いに包まれる咲野花。しかしその甲斐なく、咲野は今、誰がどう見ても病んでおり、直線と点だけで似顔絵を描けそうなくらい表情がない。
東京パイル社の一件があってからも、しばらく咲野は踏ん張っていた。ただ、先月末の茨城モーターの内見が咲野にとどめを刺した。創業三十年目の堅実な会社で、満を持しての東京進出とニーズもはっきりしていた。この案件が咲野の起死回生の一手となればいいと誰もが思っていたし、咲野自身もそう思っていたことだろう。
だが……待ち受けていたのは惨憺たる結果だった。鞍替えの傷も癒えないうちに、咲野は担当替えをされたのだ。
理由は単純。ぶっ倒れたからだ。やる気が空回り、咲野は内見中にぶっ倒れた。
上京時にまとめて内見したいという先方の要望に応えるべく、朝七時から十二棟の下見をして挑んだのが仇となった。持ち堪えていた線香花火の先端がぽたりと落ちるように、咲野の目からは光が消えた。あれだけきょどきょどしていた目は一点に固定されたまま動かず、じっと見つめると吸い込まれそうなほどの虚無が広がっていた。
咲野がこのまま萎れていてくれるなら俺は安全圏にいられる。
ライスビルのときに感じた脅威とは無縁でいられる。岩肌で肉体を強打する寸前に俺は東京パイル社の破談というネットですくいあげられたのだ。
つまり、これでいい。これで万々歳だ。そう思うのに、俺は萎れた咲野を見ていると無性に焦ったいのだ。肩を摑んで、揺さぶって言ってやりたくなる。
お前はそんなもんじゃないだろう、咲野。
とはいえ俺も人のことに気を取られている場合ではなかった。一本の電話が俺の売上計画を狂わせたからだ。
「キャンセル……ですか?」
『はい、光村さんにはお世話になったのに、本当に申し訳ないのですが』
順調に進んでいた鵜川和装からの連絡だった。現ビルの一階に入るとされていた焼肉店の出店が白紙となったのだ。代わりに元のテナントである美容室の内装を引き継ぎ、別の美容室がオープンするらしい。つまり鵜川和装は商品ににおいが付着するのを心配する必要がなくなり、移転の動機を失った。
「そうすると光村、鵜川和装の分を補填できる案件ってあんの?」
「すみません、現状、ありません」
「それはダメだよ、光村」
関ヶ原さんは、淡々と俺を詰めた。
鵜川和装の件は仕方ないと思うよ。むしろお客さんとオーナーと信頼関係を構築できていたからクレームにならずに済んだ。でも、今月は前回のスウィーティーアメニティの件もあったから絶対に達成するって言ってたよな。それを宣言するなら、契約が一つ壊れてもカバーできるように他の案件も仕込んでおかないとダメだよ云々。
「ああ……どうしよう」
翌日、一番乗りに出社した俺は誰もいないオフィスで頭を抱えた。傍らにコーヒー。やる気を出すために金色のボトル缶を買ってみたが、ろくに味わえるメンタルではない。売上管理ソフトを立ち上げ、停滞している案件をしらみ潰しにチェックしていく。今日は朝から晩までアポ続きなので、今やるしかない。
東京都知事選の立候補者ハンムラビ村井は取引不可。選挙が終わるまでの期間限定事務所は短期解約でオーナーとトラブルになる可能性があり、何より怪しい。前にSNSで同じく無所属のアテネー鈴木と無限リプライバトルを繰り広げ、ネットニュースになっていた。たぶん関わってはいけないタイプ。
電産興業もダメだ。社長の逮捕歴判明で深追い不可。豊ビレッジはぜひ話を進めたいが、何度連絡してもつながらない。
やっぱりないなあ。ない。今から連絡してどうにかできるような案件はない。
上に下に画面をスクロールしていると、『スウィーティーアメニティ』が目に入る。ステータスは移転延期。備考:審査落ち。
本当は、権三郎ビルがダメになった後も手伝いたかった。でも深追いできなかった。
理由不明な審査落ちの中には、ときにリスクが潜むからだ。オーナー側は、さまざまな手段を駆使してクライアントを調べる。提出された決算書や申込書からはわからない情報まで、調べ上げる。そこで会社や社長のよからぬ前歴、よからぬ組織との繋がりが発覚することも、なくはないのだ。
甘利社長がそんな人だとは思えない。しかしそれはあくまで俺の印象に過ぎず、判断を下す権利を俺たち仲介は持たない。
デスクに置いたスマートフォンが震える。メッセージアプリを開き、目を剥いた。
〈ご無沙汰しております。オフィス探しを再開しようと思うのですが、またお力添えいただけますか。甘利〉
あれから音沙汰なしだったのに、よりによって今か。正直、すぐ返事をしたい。ぜひやらせてくださいと言いたい。でもダメだ。審査落ちの理由を特定しないまま進めて、また同じ結果になったらどうする?
「ああーどうしろってんだよぉ。もうやだー」
誰もいないのをいいことに机に突っ伏し、泣き言をこぼしていると、カタンと音がした。
驚いて顔を上げると、いつの間にか出社した咲野がドア近くの書類棚の前に立ってこっちを見ていた。片手には俺と同じ、金のボトル缶。流行ってるなあ。ってそんなことはどうでもいい。
「いつ来たんだよ!」
「……ごめん、邪魔だった?」
「いいよ! てかお前も早いじゃん!」
羞恥心から声が大きくなる。
「館林さんの代理で、書類を届けにいくから」
「へえ! どこに!」
「新宿」
新宿。今の俺がその地名から連想するのはもちろんSWAMのことだ。以前にも申込書の受け取りでいった雑居ビル。
オフィスは備品だらけで汚いからと甘利社長はわざわざ階下まで申込書を持ってきてくれた。一階の宝石買取り店の脇にある小さなエントランスで、申込書を受け取った。
「なかなか凄まじいビルでしょう」と甘利社長はビルを振り返り笑った。なんでも「若かりし頃」に実家の家業を継ぐか継がないかの話が浮上し、甘利社長は自分のやりたい仕事を貫くために大急ぎで起業したらしい。そのときにわけもわからず借りたビルが、ここなのだと言っていた。
「なあ、待って」
書類を鞄にしまい、オフィスを出発しようとする咲野を呼び止める。
「あのさ、新宿行くならついでに頼まれてほしいんだけど――」
案件が回ってきたら、まずはクライアントの入居物件を見にいけ。オフィスはときに言葉よりも雄弁に、クライアントについて教えてくれる。
入社したばかりの頃、関ヶ原さんにそう教わった。
最初はその意味がよくわからなかった。でも、徐々に実感が生まれた。たとえば社長に逮捕歴のある電産興業は、ホームページや社長の身なりがバブリーな割に、入居物件は古くて薄暗く、テナント構成も雑然としていた。前歴が足枷となり、好みのビルの審査に通らないのかもしれない。
連絡がつかなくなった豊ビレッジは立派なビルに入居していて、館内板を見たらすぐ下の階に大手外資系仲介会社ジャパンオフィスマネジメントの支店が入居していた。上下階でやりとりしやすい彼らに仲介を任せたのかもしれない。
予測の域は出ないが、予測すらできない状況は脱せる。だから俺は咲野に頼んだのだ。SWAMが入居する『承福ビル』を撮影してきてくれないか。
SWAMに関して、なんでもいいから糸口がほしかった。すでに現地を見たことがあるし、なんのヒントもないかもしれないが、やらないよりはいいだろう。
頭を切り替えて午前中のアポに力を注ぎ、渋谷に戻ったのは昼過ぎだった。昼休憩をとったらまた渋谷で内見だ。
咲野から早くデータを受け取ろうと、坂を上るペースを速めたとき、鞄のポケットの中でスマートフォンが震えた。
「はい、光村で――」
『あんた、不動産屋さん?』
出るなり聞き覚えのない、柄の悪い男の声が言う。こめかみを汗が伝う。
『ぼかぁね』相手は続けた。
『ぼかぁね、新宿の原石発掘隊のもんですが』
「あっ……」
やっと把握する。『原石発掘隊』は承福ビルの一階で営業しているあの宝石買取り店だ。なぜ俺の連絡先を知っているのか。まさか移転希望で、甘利社長に番号を聞いたとか?
『それでもう一度聞きますけど、あんたは不動産屋ってことでいいんだね』
「はい、おっしゃる通り、弊社は不動産の仲介会社です。住宅や土地は取り扱っておらず、オフィスのみではありますが……」
いろんな可能性を考え、慎重に対応する。
『細かいことはいいよ。じゃあこの咲野さんっていう女の子は、おたくの社員さんで間違いないんだね』
「咲野ですか!?」
道玄坂の真ん中で声を上げた俺を、行き交う人々が振り返る。混乱しながら俺は続ける。
「はい、咲野はうちの社員ですが、何か」
『うちの周りをこそこそ嗅ぎ回ってたのさ、ビルの下見だなんだって言ってるけど、間違いないのかね』
「す、すみません。合ってます。下見です」
『ったくこんなオンボロビルの下見だなんて、紛らわしい。ここ最近「ジュエリーディスカバー」の輩が度々真似してくるもんだから、いよいよスパイが来たのかと……ああ、もういいもういい、あんたは帰りな』
厄介払いするような声と共に、電話が切れる。すぐに咲野に電話をかけると、疲弊しきった声が応じた。
俺は焦った。ただでさえ燃え尽きた線香花火、萎びた花のようだった咲野だ。理不尽な捕獲に相当なダメージを食らったのではないか。負けたくないとは常々思っているが、何も厄災をふりかけたいわけじゃない。
しかし道玄坂のカフェに現れた咲野は、生気のない、いつもの咲野だった。
「さっきは驚かせてごめん」
そう言って俺の目の前の椅子を引く。
「いや、こっちこそ」
時短と罪滅ぼしのために買っておいたアイスコーヒーとサンドイッチを、咲野の方へ滑らせる。ストローを取り出す咲野を俺は観察する。やっぱりいつも通りに見える。いやわからない。この無表情が全てを覆い隠しているだけで、アポを終えて会社に戻ったら、辞表が提出されているなんてこと、ないだろうな。
「写真は撮れたから」
咲野は鞄からスマートフォンを取り出した。
「お、おお。助かった」
いったん思考を断ち切り、写真のデータを確認していく。どれも丁寧に撮影されていた。排気ガスで煤けたクリーム色の外壁、件の原石発掘隊。その横のドア一つ分ほどの入り口、また定礎石の写真を撮っている。小豆色のエレベーター。狭いエレベーターホール。
……謎の手ぶれ写真。原石発掘隊に見つかったときにブレたのか。それならこれで終わりだろうか、と思いつつスライドすると、また別の写真が表示された。
「あれ、これって……」
さっき見たのとは違うエレベーターホールの写真だった。半開きのドアと、その向こうに見える来客用の呼び鈴。ネームプレートには、スウィーティーアメニティと掲示されていた。
「これ、入居フロアまで行ったのか……!?」
「え、行ったよ」
「ダメだって! 見つかったらクレームになる可能性が」
そこまで言いかけて、俺はフリーズした。
――……咲野、こういうのはちゃんと、フロアまで行って確認しないと……
俺だ。余計なことを咲野に吹き込んだのは俺だ。あのとき。シーシーステイのとき、咲野に初めて脅威を感じた。難癖をつけてやりたくて、ものすごく適当なことを言った。
ひどい愚行だ。でも、それだけならこんなダメージは受けない。俺に最もダメージを与えたのは、写真の撮影時刻だった。
スマートフォンを取り出した。原石発掘隊との電話が終了したのは、十二時二十五分。咲野との電話が終了したのは、十二時二十七分。写真の撮影時刻は、十二時二十九分。
咲野は、戻ったのだ。原石発掘隊に捕まり、疲弊しきった声で俺の電話に応じ、そのあと急いで、SWAMのフロアを撮りに戻った。前に俺が言ったから。
汗が一気に噴き出した。冷房のおかげで乾きかけていたのに、インナーシャツが濡れていく。顔が熱かった。体も。わかっている、これは羞恥心だ。照れなどというかわいい表現を許さない、強烈な、自己嫌悪と隣り合わせの羞恥心。くだらないプライドのために適当な難癖をつけた自分のことがどうしようもなく恥ずかしかった。
「そういえば、そのフロアで下りたとき」
俯く俺に、咲野が思い出したように言った。
「コーヒーのにおいがした。コレとよく似てたから、自分がこぼしたのかと思ったくらい」
そう言って咲野は鞄の中から、今朝の金のボトルを取り出す。その真ん中に印字された、レトロなフォントが目に入る。
甘利珈琲工房監修。
心臓が跳ねた。この商品を何度か目にしていたはずなのに、気づかなかった。甘利? まさか。まさかな。名前だけでこじつけるなんて素人のやることだ。でも俺は知っている。その素人が正解に行き着いたケースを、シーシーステイのとき、咲野によって目撃させられた。頭の中で勝手に記憶の抜粋が始まる。
――僕、コーヒー好きなんで、ちょっと任せてもらってもいいですか。
――すごい、詳しいんですね。
――下町育ちなんで、なんでも値切りがちなんですけど。
俺はスマートフォンを鷲摑み、検索画面に急いで甘利珈琲工房と打ち込んだ。表示された住所を見た。
台東区浅草。甘利珈琲工房のキャッチコピーは、『下町が誇る不朽の味』。
「悪い、先に行くわ」
俺は立ち上がった。もう出ないとアポに間に合わない。鞄を持ち、椅子を戻し、咲野を振り返る。
「写真助かった、というか全体的に助かった、ありがとな」
それだけ伝えてカフェを飛び出した。道玄坂を駆け上がりながら、電話をかける。
「お世話になりますっ、ワークスペースコンサルティング光村ですっ! 甘利社長っ、遅くなってしまい……申し訳ございません!」
申し訳ないことだらけだ。甘利社長、せっかく頼ってくれたのに足踏みしてすみません。咲野、変な嘘ついてごめん。高卒とか大卒とか素人とか、俺がいちばん忖度していた。
「あのっ」波打つ声で、俺は腹から声を出す。
「あの、つかぬことを伺いますが甘利社長のご実家って――!」
七月最終週とあって、売上報告ミーティングはいつにも増して緊迫感があった。関ヶ原さんに名前を呼ばれ、俺は脳内に貼りつけたカンペを読み上げる。
「鵜川和装さんがキャンセルになりましたが、スウィーティーアメニティさんが復活しました。前とは違うビルで申し込んでいて、今月契約の方向で調整しています」
「グレイト。素晴らしい」
関ヶ原さんは深く頷く。
「スケジュールだいぶタイトだけど大丈夫?」
「オーナーが協力的なので問題なさそうです。暫定で契約日も決まってます」
「オッケー。色々あったけど、上手くまとまりそうでよかったな」
「はいっ」
本当によかった。物件が見つかったことも、審査落ちの理由がはっきりしたことも。
同業他社お断り。
それが真相だ。甘利社長が継がなかった家業とは、東京を代表する下町・浅草の甘利珈琲工房で、それは権三郎ビルオーナーの娘が運営するGONZA COFFEEの競合でもあった。
「僕の実家は、僕の会社とは何も関係ないですよね!? 素敵なお店で、入居したら応援しようと思ってたのに」
甘利社長は当初は憤慨していたものの、あるときからその怒りは失速した。なんでも、実家に帰ったときにその話をしたところ、新たな事実が判明したのだ。
大手飲料メーカーが缶コーヒーの新商品を開発するにあたり、当初いくつかの監修候補店が存在した。コンペ形式で勝ち上がったのは二店舗で、最後はGONZA COFFEE、甘利珈琲工房の一騎討ちだったらしい。成長期にあったGONZA COFFEEにとっては悔しい敗北だっただろう。
「それにしても怖いですね、不動産オーナーさんの情報網。僕が、甘利珈琲工房の息子ってところまで調べるんですか」
どうなんでしょうねと俺は誤魔化した。調べないパターンの方が多いと思う。住居と違って、オフィスの契約は親族の存在感が希薄だ。法人としての契約なので、あくまで重要なのは法人と代表個人の情報だ。
だから俺の予想だと……甘利社長はあのカスタムを披露しなければ、気づかれなかったんじゃないかと思う。
甘利という名前と、あのカスタムが掛け合わさったことで、オーナーの娘さんはひらめいてしまったんじゃないかと。
でもあのおいしいコーヒーを作らなければよかったと思ってほしくはないから、これはもう、ずっと秘密にしておく。
「じゃあ次は……」
売上管理表を見つめ、関ヶ原さんが咲野を見やる。聞くまでもなく、咲野の売上はゼロのままだ。
「しばらくはみんなの補助をしながら準備していこう。暑さが落ち着いたらまた案件振ってくんで、そのときはよろしく頼みますよ」
「はい」
咲野がこくりと頷く。気遣いの塊のような関ヶ原さんの言葉も、今の咲野には届かない。気持ちはわからなくない。契約で壊れた心はきっと契約にしか癒せない。咲野の心はまだ、東京パイル社にあるのかもしれない。
だけど咲野は近いうちに抜け出すだろう。秋になって、新たに案件を振られればきっとその中から何かを摑み取る。
俺は、定礎石から情報を拾い上げる人間を初めて見た。
あのあと、親切のつもりで「もう撮らなくていい」と助言したら、問い返されたのだ。
「本当に撮らなくていいの? 定礎のおかげでライスビルのオーナーがわかったのに」と。
定礎石でオーナーが? 意味を理解できないまま、ライスビルと米ビルのフォルダを掘り起こした。それで気づいた。
両方の定礎石に、稲穂のマークが刻まれていた。紋章のようにデフォルメ化され、等しく右下におさまっている。
――ライスビルと米ビルのオーナーは同じだよね。何か教えてくれるといいけど。
あのときは素人のまぐれだと笑った。そんなことはなかった。咲野はちゃんと自分の中でたしかな証拠を見つけていたのだ。
そんなやつが、萎びたまま終わるか?
終わるはずがない。実力のある人間はちゃんと頭角を現す。そういう環境だから俺はこの会社を選んだのだ。だからシャキッとしろ、しっかりしろ、私はやれますって、ちゃんとみんなにわかるようにしろ。
秋がきても咲野は案件に恵まれず、とうとう銀杏が散り始めた。
「売上ゼロっていい加減やべえだろ。もう十一月だぞ」
「関ヶ原さんが優しいのも今のうちだ。いつまでもこのままでいられると思うなよ」
「同期って言われる俺の身にもなれよ」
意地悪な煽りをしてみたりもした。半分は本心だ。嫌われただけだった。咲野の生気のない目に、「嫌い」が灯ると、なぜか満たされる。いっそそのまま爆発させろ、かかってこいと思うのに、咲野はなかなか頑固で、ずっと停滞の中にいる。
郷さんに言おうか。シーシーステイ見つけたの、実は咲野なんです。なんで言わなかったって怒られるかな。もう時効かな。それでも言う価値は、多少はあるだろうか。
優しさではなく、自力で這い上がれない咲野に手を差し伸べて、優位に立ちたい俺の意地汚さだ。あとは、嘘をついた罪滅ぼし。
だけど、やっぱり咲野花は読めなかった。
「すげえじゃん! やったな!」
関ヶ原さんの声が響き渡る。その大きな背中の向こうで頷く咲野の目に、ストッキングの伝線くらいの細い光が射すのを、俺は見た。
何が起きたのかと、仕事するふりをしながら、二人の会話に耳をそばだてる。
「どうやって見つけたんだよ、田岡ビルなんて、俺でも知らないマイナーな物件だよ」
「休みの日に人形町を歩いてたら、アテネー鈴木の選挙カーに追い抜かれて……」
どうやら咲野は、候補物件が見つからないクライアントのために物件を探し回り、ハンムラビ村井の仇、アテネー鈴木の選挙事務所跡地が候補物件となりえることに気づいたらしい。
「よくそんなニッチなビル見つけたな」
「まぐれでもすげえ」
二人のやりとりを聞いた先輩たちが囁く。
まぐれじゃないですよ、と俺は思う。咲野が注目を集めてつまらないのに勝手に口元がゆるむ。
相変わらず俺は咲野が怖くて、咲野の案件なんてぶっ壊れればいいとさえ思う。でも、頑張るやつは報われるべきだとも思うのだ。
「光村ー今回ってきた問い合わせ、対応して」
「はい!」
飛んできた指示に返事をして、スマートフォンを耳に当てた。
「お世話になります!」
負けないように叫んだ俺の声は、フロアに大きくこだました。
【おわり】